2014-04-30
ギャンブラーという生き方/『賭けるゆえに我あり』森巣博
・天才博徒の悟り/『無境界の人』森巣博
・ギャンブラーという生き方
・プロ野球界の腐敗
・『福本伸行 人生を逆転する名言集 覚醒と不屈の言葉たち』福本伸行著、橋富政彦編
・『福本伸行 人生を逆転する名言集 2 迷妄と矜持の言葉たち』福本伸行著、橋富政彦編
・『真剣師 小池重明 “新宿の殺し屋"と呼ばれた将棋ギャンブラーの生涯』団鬼六
ギャンブル欲は、食欲・性欲・睡眠欲という人間の三大本能を凌駕(りょうが)する、といわれる。そうかもしれない。カシノのゲーム・フロアでは、寝食も忘れ、勝負卓に張り付いている亡者(もうじゃ)たちをよく見掛ける。
わたしの知り合いは、月に一度、必ずラスヴェガスに行く。眠るのは、いつも往(い)き帰りの飛行機の中だけだそうだ。
「無泊四日で勝負する。一応なんか喰(く)ってるんだろうが、記憶にない」
なんておっしゃる。
それほど、博奕は面白い。集中できる。飽きない。
逆に言えば、それほど、博奕は怖い。いや、怖いから面白くて集中できるのである。
恐怖と快楽は、いつも背中合わせだ。
【『賭けるゆえに我あり』森巣博〈もりす・ひろし〉(徳間書店、2009年/扶桑社、2015年)以下同】
名言が星の如く散りばめられている。森巣の奥方はオーストラリア国立大学教授のテッサ・モリス=スズキ。子息は15歳で大学へ入学し、18歳で大学院入りした天才児。で、本人は主夫業のかたわら世界各地のカジノ(※森巣は「カシノ」と表記)を飛び回って荒稼ぎしている。
修羅場とはギリギリの選択を迫られる地点のことだ。それが商売であろうと博奕であろうとも。選択を誤った時に失うものが多ければ多いほど「賭ける」という要素が大きくなる。賭けるとは跳ぶことだ。達することができなければ奈落の底に転落する。
臆病じゃないと、博奕で生き残れない。同時に、リスクを冒さないと、やっぱり死んでしまう。
――リスクを冒さないのは、最大のリスク。
この矛盾の海の中で、浮いたり沈んだりしながら、顔が水面上に出た時に勝負卓を離れる。これが勝ち博奕だ。
豪胆と臆病のバランスが生き死にを分ける。喧嘩と格闘技の違いは計算にある。これが孫子の「計篇」だ(『新訂 孫子』金谷治訳注)。臆病でなければリスクが見えない。見えないものは計れない。
時に権力に対して鋭い一瞥をくれる。
しかし人間は賭博をする。これは太古の昔からそうだ。博奕は人間の歴史とともに古いのではない。歴史以前からである。博奕は先史から存在した。
――賭けをする動物が人間である。
と、19世紀のイギリスの作家は喝破(かっぱ)した。
それゆえ、昔も今も法律で賭博を禁止しておけば、取り締まり当局には膨大な利権が転がり込むことになっている。
ついでだから書いておくけれど、パチンコで勝ち、景品交換所で「特殊景品」を換金したなら、『刑法』賭博罪違反である。それが「黙許」されているのは、警察利権が絡むからなのだ。パチンコ台の許認可、プリペイド・カード、「特殊景品」金地金の製造および流通、景品交換所等のあらゆる部分で、警察関連企業に金が流れる仕組みとなっている。
・「パチスロ」は新しい利権だった/『警官汚職』読売新聞大阪社会部
読み物としては十分面白いのだが、唯一の瑕疵(かし)は年甲斐もなく下ネタ自慢を披瀝しているところ。下劣の自覚よりも自慢に酔う性根が透けて見える。
最後にもうひとつ紹介しよう。
このバカラという鬼畜のゲームには、語り継がれているエピソードが多い。
もっとも有名なのは、自動車のシトロエン社のオーナーだったアンドレ・シトロエンが、当時としては先端技術を集めた最新の自動車工場をバカラの一手勝負で失ったエピソードだと思う。現在の貨幣価値に換算すると1000億円を超えるものを、わずか数十秒の勝負で、シトロエンは失ってしまった。
場所はロンドンにあるクラブ形式のカシノだったが、もちろんこんな高額の一手勝負を受けるハウス(カシノ)は、世界中に存在しない。この時のシトロエンには、相手が居た。サシの勝負だったのである。
相手の名を、ニコラ・ゾグラフォリスという。あだ名が「ニック・ザ・グリーク」。その名からわかるように、アテネ生まれのギリシャ人だ。ついでだが「ニック・ザ・グリーク」とのあだ名を持った著名な博奕打ちは歴史上二人居て、こっちはポーカー・プレイヤーじゃない方の「ニック・ザ・グリーク」である。この「ニック・ザ・グリーク」は、350枚までのカードなら、出た順序に従って記憶できたそうだ。そういった、伝説の博奕打ちである。
そんな天才博奕打ちでも、「ニック・ザ・グリーク」はその生涯に、天国と地獄の間を73回往復したといわれた。
バカラとは、そういう恐ろしいゲームである。
平坦な道を歩む人生もあれば、屹(き)り立った山に挑む人生もある。私自身はギャンブルとは無縁だが賭ける行為は理解できる。尚、森巣が行うギャンブルは手数料が数パーセントの世界であって、日本の競馬・競艇・パチンコの類いをギャンブルとはいわない。
2014-04-29
警察庁長官狙撃事件はオウム真理教によるテロではなかった/『警察庁長官を撃った男』鹿島圭介
引き鉄はしなやかだった。大きな鉄板を高所から落したような凄まじい轟音が鳴り響いた。
その瞬間、国松孝次・警察庁長官(当時=以下、特別のこだわりがないかぎり、肩書きはその当時のもの)は前のめりに突っ伏すように押し倒された。秘書官や地下にいた私服の警備要員は何事が起こったのか分からず、呆然とするよりほかない。続いて2発目の銃声がとどろき、國末の肉体が軋んだ。濡れた路面に、血に滲んだ雨水が広がっていく。
狙撃――。秘書官は反射的に国松の体に覆いかぶさった。この身を挺した行為に、しかし狙撃者はまったく動揺を示さなかった。1発目、2発目と等間隔で放たれた第3弾は、秘書官が覆いきれず、わずかに露出していた国松の右大腿部の最上部を正確に射抜いたのである。
秘書官は斃れた姿勢で国松の体を抱え込むと、そのまま傍らの植え込みの陰に引きずるように運び込んだ。狙撃者は、人間の盾に守られた国松に4発目の銃弾を撃ち込むことはしなかった。
かわりに、視界の左端から駆け込んできた警備要員の鼻先ぎりぎりをかすめるように、追跡をひるませるための威嚇射撃を敢行。そして足元においていたスポーツバッグを拾い上げ、すぐ近くに立てかけてあった自転車に飛び乗った。バッグの中に入っていたのはKG-9短機関銃。多勢の敵と銃撃戦になった場合の非常時に備え、念のため装備していたのものだ。
しかし、そんなものはまったく必要なかった。男は猛然と自転車をこいで、アクロシティの敷地をL字型に横断。公道に出ると、そのまま視界の彼方に消え去った。
【『警察庁長官を撃った男』鹿島圭介〈かしま・けいすけ〉(新潮社、2010年/新潮文庫、2012年)】
警察庁長官狙撃事件を追ったルポである。文章に独特のキレがあり迫力を生んでいる。
事件が起こったのは1995年のこと。2010年に公訴時効となった時、警視庁公安部長が記者会見を開き「オウム真理教の信者による組織的なテロである」とぶち上げた。組織的なテロ活動を行っていたのはむしろ公安であった。彼らはオウム真理教を犯人に仕立てようとして失敗した。
本書の表紙を堂々と飾っているのが真犯人と目される人物だ。男の名を中村泰〈なかむら・ひろし〉という。彼は「特別義勇隊」を名乗った。右翼思想を有する武装集団である。彼は東大を中退したスナイパーであった。
時折、文筆業者にありがちな軽薄な決めつけが見受けられるところが難点。
・ヒートの情報倉庫:中村泰
ダグ・ボイド、瀬谷ルミ子、船山徹、佐藤優、響堂雪乃、他
15冊挫折、7冊読了。
『ヤクザな人びと 川崎・恐怖の十年戦争』宮本照夫(文星出版、1998年)/ルポではなくエッセイ。筆致の軽さが圧縮度を薄めている。ただしエッセイだと割り切ればそこそこ面白い。交渉の仕方としても参考になる。
『生の時・死の時』共同通信社編(共同通信社、1997年)/1997年度新聞協会賞受賞ルポ。紙面という限られたスペースであれば、また違った風にも読めたことだろう。だが書籍としてはやはり弱い。中途半端な散文の印象を免れず。各章の目のつけどろこは優れている。
『楚漢名臣列伝』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(文藝春秋、2010年/文春文庫、2013年)/物語の起伏に欠ける。
『シェルパ ヒマラヤの栄光と死』(山と溪谷社、1998年/中公文庫、2002年)/これは後回し。書いておかないと読めなくなるので記録しておく。
『リデルハートとリベラルな戦争観』石津朋之(中央公論新社、2008年)/硬質な分だけ興味を引きにくい。読者を選ぶ本だ。
『孟子(上)』(朝日文庫、1978年)/入門書には適さず。
『人間精神進歩史 第1部』コンドルセ:渡辺誠訳(岩波文庫、1951年)/読むのが遅すぎた。
『日本人が知らないアメリカの本音』藤井厳喜〈ふじい・げんき〉(PHP研究所、2011年)/文章に締まりがない。
『正弦曲線』堀江敏幸(中央公論新社、2009年/中公文庫、2013年)/第61回読売文学賞受賞作。読ませる文章である。数学と詩が融合したような随筆だ。コアなファンがいそうな作家である。
『いつまでも美しく インド・ムンバイのスラムに生きる人びと』キャサリン・ブー:石垣賀子訳(早川書房、2014年)/「ピュリッツァー賞受賞ジャーナリストが描くインド最大の都市の真実。全米図書賞に輝いた傑作ノンフィクション」。今回の目玉作品であったが100ページほどで挫ける。文章はいいのだが立ち位置が気になる。
『不知火 石牟礼道子のコスモロジー』石牟礼道子〈いしむれ・みちこ〉(藤原書店、2004年)/ファンのためのアンソロジーといった体裁。
『本を書く』アニー・ディラード:柳沢由実子訳(パピルス、1996年)/今まで読んだディラード作品では一番面白くなかった。作家向けか。
『アングラマネー タックスヘイブンから見た世界経済入門』藤井厳喜〈ふじい・げんき〉(幻冬舎新書、2013年)/この人、妙な前置きをする悪癖がある。『ドンと来い! 大恐慌』が当たったためだろう。もったいぶらずに直球勝負で書くべきだ。
『[徹底解明]タックスヘイブン グローバル経済の見えざる中心のメカニズムと実態』ロナン・パラン、リチャード・マーフィー、クリスチアン・シャヴァニュー:青柳伸子訳、林尚毅解説(作品社、2013年)/書籍タイトルに記号を付けるのは邪道である。専門性が高すぎて、読めば読むほどわけがわからなくなる。
『足の汚れ(沈澱物)が万病の原因だった 足心道秘術』官有謀〈かん・ゆうぼう〉(文化創作出版マイ・ブック、1986年)/足揉みが民間療法であることは知っていたが理由がよくわかった。講習料金を比較すると若石法(じゃくせきほう)に軍配が上がりそうだ。有名どころとしては他にドクターフットなどがある。所謂リフレクソロジーは法的に曖昧な立場でゆくゆく規制がかかるかもしれぬ。官有謀が立派なところは、「自分で行うのが足揉みの基本」としているところ。
20冊目『読書という体験』岩波文庫編集部編(岩波文庫、2007年)/飛ばし読みしようと開いたのだが、スラスラと読み終えてしまった。それほど大した内容ではないのだが。
21冊目『略奪者のロジック 支配を構造化する210の言葉たち』響堂雪乃〈きょうどう・ゆきの〉(三五館、2013年)/前著『独りファシズム つまり生命は資本に翻弄され続けるのか?』と比べると見劣りするが、辞書として使えばよい。響堂雪乃は扇動するメディアに扇動をもって対抗する。
22冊目『世界と闘う「読書術」 思想を鍛える一〇〇〇冊』佐高信〈さたか・まこと〉、佐藤優〈さとう・まさる〉(集英社新書、2013年)/佐藤優の動きが怪しい。次々と毛色の変わった人物と対談集を編んでいる。副島隆彦との対談と異なり、佐藤が終始リードしている。つまり佐高の方が御しやすかったということなのだろう。あるいは聞く耳を持っていたということか。びっくりしたのだが「あとがき」で佐高が自分のことを「人権派」と称していた。他人の悪口ばかりを集めて本にしてきた男が説く人権とは何ぞや? 佐高は私が最も忌み嫌う人物の一人であるが、本書の価値に傷をつけるものではない。
23冊目『サバイバル宗教論』佐藤優〈さとう・まさる〉(文春新書、2014年)/臨済宗相国寺での講演を編んだもの。話し言葉でここまで語れるところに佐藤優の凄さがある。読み終える前に「宗教とは何か?」に付け加える。もちろん必読書入りだ。モヤモヤしていた佐藤への疑惑が解消された。佐藤が行ってきたことは「中間層の強化」=「民主主義の補強」であったのだろう。創価学会への接近もこれで理解できよう。ただし沖縄の悲哀を知る佐藤がパレスチナを語らぬ事実に私は不満を覚える。僧侶の質問のレベルが意外と高いのにも驚かされた。
24冊目『仏典はどう漢訳されたのか スートラが経典になるとき』船山徹(岩波書店、2013年)/労作。読み物ではなく資料だと割り切れば面白く読める。ただし最後の方は飛ばし読み。学術的には意味があるのだろうが、言葉の本質が情報である事実を踏まえると、この分野の裾野が広がることは困難であろう。翻訳に限らずすべての情報は「解釈される性質」をはらんでいる。正統とは歴史であって合理性を意味しない。思い切って言えば、翻訳そのものよりも翻訳後に脳とコミュニティの様相がどう変化したかを検証することが重要だ。日本の宗教に関する学問は一刻も早く文学と歴史の次元から脱却する必要がある。
25冊目『職業は武装解除』瀬谷ルミ子〈せや・るみこ〉(朝日新聞出版、2011年)/前々から読みたかった一冊だ。ちょっと文章が甘いのだがこれはオススメ。順序としては『裸でも生きる 25歳女性起業家の号泣戦記』山口絵理子→本書→『武装解除 紛争屋が見た世界』伊勢崎賢治が望ましい。更に興味があれば、『NHK未来への提言 ロメオ・ダレール 戦禍なき時代を築く』ロメオ・ダレール、伊勢崎賢治→『なぜ、世界はルワンダを救えなかったのか PKO司令官の手記』ロメオ・ダレールと進めばよい。劣等感に苛まれた一人の少女がどのようにして世界へと羽ばたいたのか。体当たりの青春が美しい。
26冊目『ローリング・サンダー メディスン・パワーの探究』ダグ・ボイド:北山耕平、谷山大樹訳(平河出版社、1991年)/これは凄い。ただただ凄い。西水美恵子がブータン王国に抱いた印象を私はインディアンに重ねてきた。本書を読んでそれが極まった。ヨーロッパ人がインディアンを虐殺した時、人類の進化は止まったのだろう。彼らこそは無名のブッダでありクリシュナムルティであった。ブッダもクリシュナムルティもインディアン(インド人)だ(ブッダは現在のネパール出身)。密教(スピリチュアリズム)を解く鍵は『世界の名著1 バラモン教典 原始仏典』長尾雅人〈ながお・がじん〉責任編集と本書にあると思われる。
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