・『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『管仲』宮城谷昌光
・『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
・『孟嘗君』宮城谷昌光
・『長城のかげ』宮城谷昌光
・マントラと漢字
・勝利を創造する
・気格
・第一巻のメモ
・将軍学
・王者とは弱者をいたわるもの
・外交とは戦いである
・第二巻のメモ
・先ず隗より始めよ
・大望をもつ者
・将は将を知る
・『青雲はるかに』宮城谷昌光
・『奇貨居くべし』宮城谷昌光
・『香乱記』宮城谷昌光
「孟(もう)さま、趙王(ちょうおう)は去年、中山(ちゅうざん)を望見(ぼうけん)したそうです」
と、丹冬(たんとう)は容易ならぬことをいった。
望む、とは、ただ見ることとはちがう。呪(のろ)いをこめて見ることを望むという。望みとは、それゆえ、攻め取りたい欲望をいう。
【『楽毅』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(新潮社、1997年/新潮文庫、2002年)】
心の蒙(くら)い部分が啓(ひら)いた。希望や願望の危うさがここにあるのだ。一身の上であれ、権力の上であれ志向を支えるのは欲望だ。欲と望の字は横に位置するのだろう。
40代になってからマントラの意味を思索してきた。真言とも呪文とも訳されるが、祈りにこめられた望みを思えば呪文に重みが増す。
古代にあっては、ことばはことだまとして霊的な力をもつものであった。しかしことばは、そこにとどめることのできないものである。高められてきた王の神聖性を証示するためにも、ことだまの呪能をいっそう効果的なものとし、持続させるためにも、文字が必要であった。文字は、ことだまの呪能をそこに含め、持続させるものとして生まれた。
【『漢字 生い立ちとその背景』白川静(岩波新書、1970年)】
何と文字そのものが呪能をシンボライズしたというのだ。「呪」の旁(つくり)である兄は人を象(かたど)り、口偏は祈りを示す。呪の訓読みは「まじない」である。「まじないは、人間がある特定の願望を実現するために直接的または間接的に自然に働きかけることをいうが、その願望を実現するために事物に内在する神秘的な力、霊力を利用するのである」(世界大百科事典 第2版)。
後の世に「祝」という字が作られるが意味は同じである。すなわち言葉で霊力を縛りつけるのだ。武田信玄が掲げた軍旗「風林火山」を思えばわかりやすい。何にも増して呪能が発揮されるのは自分の名前であろう。それは単なる記号ではなくして自我の根幹をなすものだ。
漢字そのものにマントラ性が潜む。更に思考を推し進めれば漢字だけではないことに気づく。シンボルというシンボルには何らかの呪能がこめられている。
芸術家が絵画や工芸品の中に潜ませたシンボルを探しだし、それらのつながりを解読することができたとき、その作品の背後に隠されている意味と寓意の豊かな世界が眼前に開けてくる。なぜなら、シンボリズムの普遍的な力に導かれ、芸術家も鑑賞者も、創造媒体の物質的制約や文化的境界線を踏み越え、深く人間精神の根源に辿り着くことができるからである。
【『シンボルの謎を解く』クレア・ギブソン:乙須敏紀〈おとす・としのり〉訳(産調出版、2011年)】
すべてのエネルギーを1ヶ所に集めたところに西洋の神は生まれたのだろう。
呪を儀礼と考えよう。
あらゆる未開社会には儀礼があるという単純な事実から出発しよう。もっと正確に言うならば、すべての人間社会、少なくとも、科学的認識の発達と、抽象的哲学の成果とによって、伝統的慣習の効果が疑われるに至っていない社会には、儀礼が存在すると言えるだろう。したがって、儀礼が儀礼である限りにおいて、それはひとつの機能を持つと考えうことができる。
【『儀礼 タブー・呪術・聖なるもの』J・カズヌーヴ:宇波彰〈うなみ・あきら〉訳(三一書房、1973年)】
儀礼については以下も参照せよ。
・進化宗教学の地平を拓いた一書/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
・情動的シナリオ/『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー
古代中国において儀礼は占いと結びつく。
・占いこそ物語の原型/『重耳』宮城谷昌光
物語とは思考を言葉で縛る行為に他ならない。望と呪、呪とシンボル、呪と儀礼、儀礼と占い、そして占いと物語がつながった。欲望が作動する物語のメカニズムを解いたのがブッダであった。
・理想を否定せよ/『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一