2014-08-03

すき屋の失敗の本質に関する考察



2014-08-01

斎藤秀雄の厳しさ/『嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯』中丸美繪


 ・若き斎藤秀三郎
 ・超一流の価値観は常識を飛び越える
 ・「学校へ出たら斃(たお)れるまでは決して休むな」
 ・戦後の焼け野原から生まれた「子供のための音楽教室」
 ・果断即決が斎藤秀三郎の信条
 ・斎藤秀雄の厳しさ

『齋藤秀雄・音楽と生涯 心で歌え、心で歌え!!』民主音楽協会編

 トウサイ(※斎藤の逆さ言葉)グループといわれた黒柳守綱は、斎藤と家族ぐるみの付き合いをしていた。夫人朝はこのように語る。
「音楽でそのほかの人たちは斎藤さんの域まで行ってないわけよ。ローゼンシュトックさんも涙を流して、指揮棒を折って、僕がこんなに一生懸命になってやっているのにわかってくれないかというのは、しばしばでしたね。そして、(練習所の)ご自分の部屋に入っちゃうのね、それで斎藤さんとか黒柳とかチェロの橘(常定)さんとかが謝りに行くわけ。今だったらコンクールに受かったような人がぞろぞろいるわけだけど、そのころはプロとはいってもおそまつなものだったと思うんですよ。斎藤さんは厳しいでしょう。だから皆はその厳しさに耐えられないの。ところが、本当に音楽の好きな人は、うちの主人なんかもそうだけれど、それをありがたいと思うのよ。もうなんて言われても。
 うちでカルテットの練習をやってて、黒ちゃんそこのところ違うんじゃないかな、なんていわれると、うちのパパは顔が真っ青になってこめかみがびりびりするの。彼にとっては知らないで気がつかないでいたっていうことは屈辱的だったと思うのね。それで練習が済んでから、私がパパにね、あんなふうに言われてよく癇癪起してやめたって言わないのね、っていったの、家庭ではすぐそうだったから。お膳蹴っ飛ばす、テーブル引っ繰り返すなんてわけない人だったから。そうしたらね、僕は他のことでは我慢しないけど、こと音楽についてはどんな屈辱も受けるって、それを屈辱と思わないって。自分は知らないんだからそれを教えてもらえるっていうことがありがたくて仕様がないって。斎藤さんのことは尊敬してたから」

【『嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯』中丸美繪〈なかまる・よしえ〉(新潮社、1996年/新潮文庫、2002年)以下同】

 守綱黒柳徹子の父親である。夫人の名は「ちょう」と読む。

 音楽に対して妥協を知らぬ斎藤への敬意が伝わってくる。斎藤の厳しさは児童や学生に対しても変わらなかった。

 それでやっと先生のレッスンが受けられるようになったわけです。灰皿投げられたり、譜面台蹴飛ばされたりしながら……。(西内荘一:元新日本フィルハーモニー交響楽団首席チェリスト)

 斎藤宅でまだ指揮のレッスンのあったころ、小澤征爾は斎藤の怒りに靴もはかずに飛び出し、そのまま裸足で家に帰った。オーケストラの雑用をひとりでかかえ、指揮の勉強もままならないころだった。翌日、母があやまりにいって、靴をとってきた。秋山(和慶)も、斎藤の怒りに腰が抜けるようになって動けなくなったことがある。

 オーケストラの練習では遅刻は決して許されないことだった。全員が揃うまで、生徒は楽器を構えて待っていた。斎藤は人間が社会生活で身につけるべき基本的な礼儀や作法にも厳しい教師だった。生徒は音楽と一緒にそれを教え込まれた。

 生徒たちはまず初めに斎藤のレッスンを受けるとき、必ずこう言われた。
「プロになるか、そのつもりなら教える」
 女子の場合はこうである。
「お嫁にいって音楽をやめる人には教えたくない。それでもやるか」
 10歳ほどの年齢の子供たちは、それを聞いて、たいへんなことになったと感じた。毎週ただレッスンを受けて弾いていればいい教師とは違う、と子供心に焼きつけられた。子供でもプロになる決意ができるかどうかが、斎藤の洗礼でもあった。

 親が死んだのか、と練習を休んだ者には言った。片手を■疽(ひょうそ)で手術したと訴えても、もう一方の手は使えるといって練習を休むことは許さなかった。

 この厳しさが一流の音楽家を育てたのだろう。それも一人、二人ではない。クラシック界の夜空にきらめく星のような人材群を斎藤はたった一人で輩出したのだ。詳細については動画を参照せよ。

嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀雄の生涯嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀雄の生涯 (新潮文庫)
(※左が単行本、右が文庫本)


齋藤秀雄生誕100年記念展:民主音楽協会
サイトウ・キネン・オーケストラ

2014-07-30

【美濃加茂市長収賄事件】保釈請求について 郷原信郎弁護士記者会見





2014-07-29

渡邉哲也、若林栄四、六車由実、高橋史朗、ジョン・フィネガン、他


 9冊挫折、2冊読了。

完全にヤバイ!韓国経済』三橋貴明、渡邉哲也(彩図社、2009年)/本書が渡邉の第一作。タイトルに暴力団用語を配するのはどうなのかね? 個人的に三橋の動画は見るが著作は読まない。

ドル崩壊! 今、世界に何が起こっているのか?』三橋貴明:渡邉哲也監修(彩図社、2008年)/パス。

データで読み解く! マネーと経済 これからの5年』吉田繁治(ビジネス社、2013年)/株式よりも市場規模の大きい国債の解説本。ちょっと小難しい。

アップデートする仏教』藤田一照〈ふじた・いっしょう〉、山下良道〈やました・りょうどう〉(幻冬舎新書、2013年)/近頃この手の本が多いね。砕けた調子の対談が肌に合わず。対談本には緊張感が不可欠だ。

空腹力』石原結實〈いしはら・ゆうみ〉(PHP新書、2007年)/重複した記述が目立つ。構成に難あり。石原の著作は既に2冊読んでいるのでもう十分か。

今あるガンが消えていく食事 進行ガンでも有効率66.3%の奇跡』済陽高穂〈わたよう・たかほ〉(マキノ出版、2008年)/「ビタミン文庫」となっているが文庫本ではなくソフトカバーである。冒頭に体験談を持ってくるという愚を犯している。臨床は重要だが科学的視点を欠けば単なる文学となってしまう。

危険な油が病気を起こしてる』ジョン・フィネガン:今村光一訳(オフィス今村、2000年)/今村光一はマックス・ゲルソンの翻訳者。手に取ったのもそれが理由だ。ちょっと読みにくい。飛ばし読み。

日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと』高橋史朗(致知出版社、2014年)/文章がよくない。リライトすべきだ。

驚きの介護民俗学』六車由実〈むぐるま・ゆみ〉(医学書院、2012年)/「シリーズ ケアをひらく」の一冊。ツイッターで知った本。六車は民俗学者から介護職員に転身した人物。読みやすい文章で、介護現場での失敗も赤裸々に綴っている。真っ直ぐな性格が伝わってくる。ただし手厳しいようだが、民俗学の領域に至っているかどうかは疑問だ。やはり時間を要することだろう。六車が新しい『遠野物語』を紡ぐしかない。「『回想法ではない』と言わなければいけない訳」は結局、介護の世界に男性が少ないことに起因していると思う。私はノーマライゼーションなんかはなっから信じていないし、介護という世界は教育と似ていてパーソナルな関係性がものをいうと考えている。理論に人を当てはめるのが極めて難しい。体位変換ひとつとってもコツを教えるのが厄介なのだ。思いやりを欠いた人物に「思いやりを持て」と言うのに等しい。もう一つ。要介護者に寄り添うことは大切だが、寄り添いすぎると依存し合う関係となりやすい。そのギリギリのところで距離感を保つことが自立への一歩となる。本書はまだ「民俗学者、介護に驚く」といった内容ではあるが、美智子さんとのやり取りを読むだけでも十分お釣りがくる。六車は表情と声がよく、今後に期待できる。

 46冊目『富の不均衡バブル 2022年までの黄金の投資戦略』若林栄四〈わかばやし・えいし〉(日本実業出版社、2014年)/売れているらしい。テクニカルの参考書。牽強付会が目立つので注意が必要だ。

 47冊目『これから日本と世界経済に起こる7つの大激変』渡邉哲也(徳間書店、2014年)/やや総花的ではあるが、渡邉の説明能力は群を抜いている。一人シンクタンク。しかし、どうやってこれほどの情報を集めているのかね? 米中二極体制は既に終焉、と。有料メールマガジンも購読したのだが、こちらはさほど面白くないので購読中止。

2014-07-27

沖仲仕の膂力と冷徹な眼差し/『魂の錬金術 エリック・ホッファー全アフォリズム集』エリック・ホッファー


『エリック・ホッファー自伝 構想された真実』エリック・ホッファー

 ・沖仲仕の膂力と冷徹な眼差し
 ・自己犠牲

 情熱の大半には、自己からの逃避がひそんでいる。何かを情熱的に追求する者は、すべて逃亡者に似た特徴をもっている。
 情熱の根源には、たいてい、汚れた、不具の、完全でない、確かならざる自己が存在する。だから、情熱的な態度というものは、外からの刺激に対する反応であるよりも、むしろ内面的不満の発散なのである。

【『魂の錬金術 エリック・ホッファー全アフォリズム集』エリック・ホッファー:中本義彦訳(作品社、2003年)以下同】

 荷を運ぶ沖仲仕(港湾労働者)の膂力(りょりょく)と思想家の冷徹な眼差しが言葉の上で交錯する。港のコンクリートを踏みしめる足の力から生まれた言葉だ。エリック・ホッファーは言葉を弄(もてあそ)ぶ軽薄さとは無縁だ。

 情熱は騒がしい。そして熱に浮かされている。ファンや信者の心理を貫くのは投影であろう。情熱には永続性がない。エントロピーは常に増大する。つまり熱は必ず冷めるのだ。特に知情意のバランスを欠いた情熱は危うい。

 われわれが何かを情熱的に追求するということは、必ずしもそれを本当に欲していることや、それに対する特別の適性があることを意味しない。多くの場合、われわれが最も情熱的に追求するのは、本当に欲しているが手に入れられないものの代用品にすぎない。だから、待ちに待った熱望の実現は、多くの場合、われわれにつきまとう不安を解消しえないと予言してもさしつかえない。
 いかなる情熱的な追求においても、重要なのは追求の対象ではなく、追求という行為それ自体なのである。

 達成よりも行為を重んじるのは現在性に生きることを意味する。功成り名を遂げることよりも今の生き方が問われる。将来の夢に向かって進む者にとって現在は厭(いと)わしい時間となる。追求よりも探究の方が相応しい言葉だろう。

 われわれは、しなければならないことをしないとき、最も忙しい。真に欲しているものを手に入れられないとき、最も貪欲である。到達できないとき、最も急ぐ。取り返しがつかない悪事をしたとき、最も独善的である。
 明らかに、過剰さと獲得不可能性の間には関連がある。

 空白の欺瞞。

 あれかこれがありさえすれば、幸せになれるだろうと信じることによって、われわれは、不幸の原因が不完全で汚れた自己にあることを悟らずに済むようになる。だから、過度の欲望は、自分が無価値であるという意識を抑えるための一手段なのである。

 欲望は満たされることがない。諸行は無常であり変化の連続だ。一寸先は闇である。我々が思うところの幸福は我が身を飾るアクセサリーに過ぎない。

 あらゆる激しい欲望は、基本的に別の人間になりたいという欲望であろう。おそらく、ここから名声欲の緊急性が生じている。それは、現実の自分とは似ても似つかぬ者になりたいという欲望である。

 名声という名のコスプレ。変身願望を抱く自分からは逃げられない。

 山を動かす技術があるところでは、山を動かす信仰はいらない。

 これぞ、アフォリズム。

「もっと!」というスローガンは、不満の理論家によって発明された最も効果的な革命のスローガンである。アメリカ人は、すでに持っているものでは満足できない永遠の革命家である。彼らは変化を誇りとし、まだ所有していないものを信じ、その獲得のためには、いつでも自分の命を投げ出す用意ができている。

 大衆消費社会の洗礼だ。

 プライドを与えてやれ。そうすれば、人びとはパンと水だけで生き、自分たちの搾取者をたたえ、彼らのために死をも厭わないだろう。自己放棄とは一種の物々交換である。われわれは、人間の尊厳の感覚、判断力、道徳的・審美的感覚を、プライドと引き換えに放棄する。自由であることにプライドを感じれば、われわれは自由のために命を投げ出すだろう。指導者との一体化にプライドを見出だせば、ナポレオンやヒトラー、スターリンのような指導者に平身低頭し、彼のために死ぬ覚悟を決めるだろう。もし苦しみに栄誉があるならば、われわれは、隠された財宝を探すように殉教への道を探求するだろう。

 これが情熱の正体なのだろう。衝動という反応だ。脳が何らかの物語に支配されれば、人は合理性をあっさりと手放す。我々は退屈な日常よりもファナティックを好む。生きがいや理想すら誰かにプログラムされた可能性を考えるべきだろう。中国や韓国の反日感情が、日本人の中で眠っていたナショナリズムを強く意識させる。ひょっとすると日本の若者は既に戦う意志を固めているかもしれない。このようにして感情はコントロールされる。踊らされてはいけない。自分の歩幅をしっかりと確認することだ。



一体化への願望/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 1』J・クリシュナムルティ