2014-09-20
岩本沙弓
1冊読了。
64冊目『マネーの動きで見抜く国際情勢 経済メカニズムの“ウラ・オモテ”』岩本沙弓〈いわもと・さゆみ〉(PHPビジネス新書、2010年)/好著。岩本の近著よりもいいように感じた。『円高円安でわかる世界のお金の大原則』を読んだら本書に進むのが望ましい。実体経済がなぜ金融経済に振り回されるのかがよくわかる。今年は岩本沙弓と渡邉哲也を集中的に読んできたが、二人の意見が政治に反映されれば日本の現状はいくらでも打開できることだろう。
2014-09-19
ピューリッツァー賞に輝いたベトナム戦争の写真~キム・フックとニック・ウトのその後
承前。南ベトナム軍が同胞をナパーム弾で誤爆した直後の写真である(1972年)。21歳のベトナム人カメラマン、ニック・ウトが撮影。翌日のニューヨーク・タイムズ一面に掲載され、73年のピューリッツァー賞に輝いた。少女は一命を取り留める。 pic.twitter.com/EuZEaooInh
— 言動力bot (@gendoryoku) 2014, 9月 19
【閲覧注意】その場の映像である。少女の名はキム・フック。当時9歳だった。 https://t.co/b9EmqIpszz
— 言動力bot (@gendoryoku) 2014, 9月 19
キム・フックは17回の手術を受け、奇蹟的に助かった。結婚後、カナダに亡命。1997年からユネスコの親善大使を務めている。 pic.twitter.com/dEEAAb6XLj
— 言動力bot (@gendoryoku) 2014, 9月 19
キム・フックを巡る感動的なエピソード。全4ページ。/ベトナム戦争の“Napalm Girl” http://t.co/tZo5TSsnVt http://t.co/N5Pezi4RXN http://t.co/zKo51kaCuM http://t.co/42r4255cdL
— 言動力bot (@gendoryoku) 2014, 9月 19
2014-09-18
クルト・ゲーデルが考えたこと/『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』高橋昌一郎
・『死生観を問いなおす』広井良典
・ゲーデルの生と死
・すべての数学的な真理を証明するシステムは永遠に存在しない
・すべての犯罪を立証する司法システムは永遠に存在しない
・アインシュタイン「私は、エレガントに逝く」
・クルト・ゲーデルが考えたこと
・『理性の限界 不可能性・確定性・不完全性』高橋昌一郎
ゲーデル自身の哲学的見解については、「ドウソン目録6」の中から興味深い哲学メモが発見された。このメモは、ゲーデルが、自分の哲学的信念を14条に箇条書きにしたもので、『私の哲学的見解』という題が付けられている。ワンの調査によると、このメモは、1960年頃に書かれたものである。
1.世界は合理的である。
2.人間の理性は、原則的に、(あるテクニックを介して)より高度に進歩する。
3.すべての(芸術も含めた)問題に答を見出すために、形式的な方法がある。
4.〔人間と〕異なり、より高度な理性的存在と、他の世界がある。
5.人間世界は、人間が過去に生き、未来にも生きるであろう唯一の世界ではない。
6.現在知られているよりも、比較にならない多くの知識が、ア・プリオリに存在する。
7.ルネサンス以降の人類の知的発見は、完全に理性的なものである。
8.人類の理性は、あらゆる方向へ発展する。
9.正義は、真の科学によって構成されている。
10.唯物論は、偽である。
11.より高度な存在は、他者と、言語ではなく、アナロジーによって結びつく。
12.概念は、客観的実在である。
13.科学的(厳密な学としての)哲学と神学がある。これらの学問は、最も高度な抽象化概念を扱う。これらが、科学において、最も有益な研究である。
14.既成宗教の大部分は、悪である。しかし、宗教そのものは、悪ではない。
【『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論』高橋昌一郎〈たかはし・しょういちろう〉(講談社現代新書、1999年)】
数学の限界を突き止めた頭脳は何を考えたのか? その答えの一端がここにある。不思議なことだが「数学は自己の無矛盾性を証明できない」ことを明らかにした男は死ぬまで神を信じていた。無神論者であったアインシュタインと神についての議論をしたのだろうか? 気になるところだ。
クルト・ゲーデル(1906-1978年) pic.twitter.com/fndjELckn4
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 9月 18
メモからは理性への大いなる信頼が読み取れる。私が特に注目したのは11と12だ。11はコミュニケーションの真相に触れていそうだし、12は情報理論によって証明されつつある。
類推(アナロジー)能力が「脳の余剰から生まれた」(『カミとヒトの解剖学』養老孟司)とすれば、動物と人間を分かつ英知の本質は類推にあるのだろう。言葉はシンボルである。「川」という言葉は川そのものではない。どこの川かわからないし、水量や幅もわからない。もしかすると三途の川かもしれないし、ひょっとすると「川」ではなく「革」か「皮」の可能性だってあり得る(言い間違いや誤変換)。
にもかかわらず我々がコミュニケーションできるのは言葉というシンボルを手掛かりにして類推し合っているからだ。すなわち言葉そのものが類推の産物なのだ。であればこそ言葉は通じるのに意思の疎通が困難な場合があるのだろう。反対に言葉を介さぬコミュニケーションが成り立つこともある。団体で行う球技やシンクロナイズドスイミングなど。
で、たぶん類推は視覚に負うところが大きい。「これ」と言われたら見る必要がある。通説だと言葉は名詞から始まったとされているが、多くの名詞は物の名前だ。とすると肝心なのは「何をどう見るか」というあたりに落ち着く。つまりコミュニケーションは「ものの見方」に左右されるのだろう。世界を、そして生と死をどう見つめているかが問われる。
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