私のタイムライン上で偶然の一致。
数字の概念はあっても、数一般という抽象的な語を示す方法は、わが国では日を数える【日(か)そふ】、また漢字では罪科を数えることに由来している。
— 白川静 (@sizukashirakawa) 2014, 10月 29
古来、日本語では暦を読むことを月を読む、ツキヨミ(ツクヨミ、月読)と言った。暦はカヨミ(日を読む)ことが転じた語彙という説が有力である。
— moonAge (@moonAge_bot) 2014, 10月 31
数字の概念はあっても、数一般という抽象的な語を示す方法は、わが国では日を数える【日(か)そふ】、また漢字では罪科を数えることに由来している。
— 白川静 (@sizukashirakawa) 2014, 10月 29
古来、日本語では暦を読むことを月を読む、ツキヨミ(ツクヨミ、月読)と言った。暦はカヨミ(日を読む)ことが転じた語彙という説が有力である。
— moonAge (@moonAge_bot) 2014, 10月 31
「瓊玉(けいぎょく)で室内を飾るのは、亡びの兆(きざ)しであるとおもったほうがよい。西(せい)氏の賈(こ)には、あくどさがあるらしい」
と辛(から)いことをいった。
「天子や諸侯も玉で飾られた宮殿に住んでおられるのではないのですか。亡びの兆しはそこにはないのでしょうか」
呂不韋〈りょふい〉の問いのほうがすさまじい。
「侈傲(しごう)の者は亡ぶ。貴賎を問わず、そうです。では、なぜ、天子や諸侯は亡びないのか。先祖の遺徳がそれらの貴人を助けているからだ。それに気づかず、侈傲でありつづければ、三代で亡ぶ。この家の主の西氏は、一代で成功した者であり、先祖が徳をほどこしたとはおもわれないゆえ、目にみえない助けは得られず、わざわいをまともにかぶる」
「それを西氏にお語(つ)げになるのですか」
「問われれば、いう。兆しとは、あくまでも兆しであり、凶の兆しでも消すことはできる」
【『奇貨居くべし 火雲篇』宮城谷昌光(中央公論新社、1998年/中公文庫、2002年/中公文庫新装版、2020年)】
これ、正真正銘の写真である。ナミブ砂漠(ナミビア)にある死の沼地「デッドフレイ」。 pic.twitter.com/V1ULAkT8d1
— 言動力bot (@gendoryoku) 2014, 10月 29
奇蹟の光景といってよい。ナミブ砂漠(ナミビア)にある死の沼地「デッドフレイ」。 pic.twitter.com/9MkVx8TwSx
— 言動力bot (@gendoryoku) 2014, 10月 29
デッドフレイ(ナミブ砂漠)の夜。「星の数ほど」という言葉の意味が腑に落ちる。 pic.twitter.com/dD95t8puLP
— 言動力bot (@gendoryoku) 2014, 10月 29
テロとは何か。それを客観的に定義することは困難ですが、簡単にいえば、「政治的目的をもって実行される暴力」です。テロという言葉の起源を辿れば、フランス革命にまで遡ります。(菅沼光弘)
【『日本はテロと戦えるか』アルベルト・フジモリ、菅沼光弘(扶桑社、2003年)】
すでに呂不韋〈りょふい〉たちは、牛馬のごとく舟に積みこまれ、黄河をくだり、南岸に上陸し、稜に近づきつつあった。
――こういう現実がある。
信じられぬおもいで、呂不韋は天を仰ぎ、地をみつめ、人をながめた。弱者とは、いやおうなくこうなるものか。では、強者とは、何であるのか。秦(しん)が強者で趙が弱者であるとすれば、何が秦を強くし、何が趙を弱くしたのか。この世にも貧富の差がある。その差はどこから生ずるのか。いま強国であっても太古から強国ではあるまい。富家も昔から富家ではあるまい。国も家も人も盛衰というものがあり、その盛衰をつかさどる力、あるいはその盛衰をあやつる法則などが、どこにあるのか。
そういう問いをたれにもぶつけることのできぬ歩行のなかにいるのは、呂不韋ばかりではない。みな黙々とおのれの暗さのなかを歩いている。この500人というのは、いきなり悲運の淵につき落とされた者ばかりではなく、もともと私家の奴隷であった者が徴発された場合もふくまれており、かれらは悲運をひきずっているということになる。
【『奇貨居くべし 火雲篇』宮城谷昌光(中央公論新社、1998年/中公文庫、2002年/中公文庫新装版、2020年)以下同】
呂不韋はうつむき、地をみた。そこに自分の影がある。
陽翟(ようてき)の実家でみつめていた影とおなじで、さびしく、楽しまない影である。
呂不韋のまなざしがうつろになったのをみた孫〈そん〉は、
「すっかり萎(しお)れてしまったな。願いが浅いところにあるからだ。それだけ傷つきやすい。花をみよ。早く咲けば早く散らざるをえない。人目を惹(ひ)くほど咲き誇れば人に手折られやすい。人もそうだ。願いやこころざしは、秘すものだ。早くあらわれようとする願いはたいしたものではない。秘蔵せざるをえない重さをもった願いをこころざしという。なんじには、まだ、こころざしがない」
と、皮肉をまじえていった。おし黙った呂不韋をはげましているのか、怒らせているのか。とにかくこのことばは、多少、呂不韋の活力をうしなった心をゆすぶった。
「こころざしで穣(じょう)邑の門を破れますか。こころざしで穣邑の壁を崩せますか」
「たやすいことだ。こころざしによって、地に潜ることができ、天に昇ることもできる」
孫はなんのためらいもみせずにいった。
――狂人かもしれぬ。
呂不韋はそう疑った。