2014-11-03

「蔽(おお)われた者」/『奇貨居くべし 黄河篇』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『太公望』宮城谷昌光
『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
・『沙中の回廊』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
・『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『青雲はるかに』宮城谷昌光

 ・戦争を問う
 ・学びて問い、生きて答える
 ・和氏の璧
 ・荀子との出会い
 ・侈傲(しごう)の者は亡ぶ
 ・孟嘗君の境地
 ・「蔽(おお)われた者」
 ・楚国の長城
 ・深谿に臨まざれば地の厚きことを知らず
 ・徳には盛衰がない

『香乱記』宮城谷昌光
・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光


 孫子(※荀子)という儒者は激しいところのある人で、いまの世に妥協しておのれに満足する者を、憎悪していた。孫子は、蔽(おお)われている人が嫌いなのである。世は変化する。それゆえ、世に役立つ者になるためには、自己を改革しなければならない。自己の改革は一朝一夕に成るものではない。努力しつづけよ、としばしば孫子(※荀子)が呂不韋〈りょふい〉に教えていたことが、ふたりからすこし離れたところにいた雉〈ち〉の耳底に残っている。いまになって孫子の言動をふりかえってみると、そこには情熱があった。つまり孫子は呂不韋のなかにすぐれた資質をみつけ、その資質が未熟におわらぬように、熱い息を吹きかけていたのではないか。孫子は呂不韋を愛したのである。

【『奇貨居くべし 黄河篇』宮城谷昌光(中央公論新社、1999年/中公文庫、2002年/中公文庫新装版、2020年)以下同】

「蔽(おお)われる」とは見慣れない字だが、遮蔽物(しゃへいぶつ)の訓読みが「遮(さえぎ)る」「蔽(おお)う」であることに思い至ればイメージがつかみやすい。「覆(おお)い隠す」の「覆う」は同訓異字であろう。現状に甘んじて、出る杭(くい)となることを避ける官僚のような姿勢を荀子は嫌った。職能が「務(つと)める」のに対して、学問は「努(つと)める」道である。力加減がまったく違う。

 荀子と別れた後も師の言葉は呂不韋の精神を鞭打ち続けた。

 呂不韋は家をでた。そのことによってはじめて実家がどういうものであったかがわかったように、賈人(こじん)は利をでなければ利というものがわからない。でる、という行為は、じつはおびただしい勇気と努力とを必要とする。それを知らない者を、
「蔽(おお)われた者」
 と、師の孫子はよんだ。
 しかしながら、蔽われない者とは、つまり、人と世というものがわかる人のことであり、それならば、人をでて、世をでなければ、人と世とはわからないことになり、死んでこの世を去ってこそ人と世がわかるのでは、生きてゆくことに意義をうしなう。そうでないところに孫子の哲理の玄妙さがあるのであろう。

 賈人(こじん)とは商人のことである。「利をでる」とは利から離れて利の意味を見つめることか。人を利に向かわせるのは欲望だ。新自由主義のように個々人の利得という小利を社会的に容認すれば格差社会が生まれるのは必然だ。白圭(はくけい/『孟嘗君』)や呂不韋のような中国戦国時代の大商人は自己の利益だけではなく国家全体の利益、すなわち大利を目指した。

 荀子は性悪説で広く知られるが、性悪であればこそ死ぬまで努力することが重要なのだ。人の性が善であれば礼や法も不要だ。「蔽(おお)われた者」は人間に巣食う悪性に引きずられる。万人に潜(ひそ)む堕落しやすい性分を荀子は性悪説としたのではあるまいか。

「学は没するに至りてしかるのちに止(や)むべきなり」との師の教えを呂不韋は忠実に生きた。死ぬまで学問を手放すことがなかった。

    

2014-11-02

ひかり味噌


ひかり味噌

ビル・ブライソン著『人類が知っていることすべての短い歴史』が文庫で復刊


人類が知っていることすべての短い歴史(上) (新潮文庫)人類が知っていることすべての短い歴史(下) (新潮文庫)

 こんな本が小学生時代にあれば……。宿題やテストのためだけに丸暗記した、あの用語や数字が、たっぷりのユーモアとともにいきいきと蘇る。ビッグバンの秘密から、あらゆる物質を形作る原子の成り立ち、地球の誕生、生命の発生、そして人類の登場まで――。科学を退屈から救い出した隠れた名著が待望の文庫化。137億年を1000ページで学ぶ、前代未聞の“宇宙史”、ここに登場。

 ちょうどいい大きさの太陽、地球を甘やかしてくれる月、原子社会のセックスアニマル炭素、防護用コンクリートほどに頼もしい大気、そして無尽蔵のマグマ――。地球万歳! ここは生物のパラダイスだ! イギリス屈指のユーモア・コラムニストが徹底的に調べて書いた、最高のサイエンス・エンターテイメント。イギリス王立協会科学図書賞受賞、読めば文系のあなたも「科学通」に。

太陽系の本当の大きさ/『人類が知っていることすべての短い歴史』ビル・ブライソン

2014-10-31

ザック・エイブラハム


 タイトルは意図的に伏せておく。今まで見てきたTEDの中で一番感動した。画面右下のボタンから言語を選択。

孟嘗君の境地/『奇貨居くべし 火雲篇』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『太公望』宮城谷昌光
『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
・『沙中の回廊』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
・『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『青雲はるかに』宮城谷昌光

 ・戦争を問う
 ・学びて問い、生きて答える
 ・和氏の璧
 ・荀子との出会い
 ・侈傲(しごう)の者は亡ぶ
 ・孟嘗君の境地
 ・「蔽(おお)われた者」
 ・楚国の長城
 ・深谿に臨まざれば地の厚きことを知らず
 ・徳には盛衰がない

『香乱記』宮城谷昌光
・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光


 唐挙〈とうきょ〉は貴族相手の人相見で大金を稼いでいた。呂不韋〈りょふい〉は慈光苑(じこうえん)の伯紲〈はくせつ〉という人物の元へ遣(つか)わされる。慈光苑は戦乱の中で独りでは生きてゆくことが難しい孤児や寡婦(かふ)のための施設であった。唐挙が呂不韋に託したのは寄付金であった。慈光苑に着くと伯紲〈はくせつ〉は留守であった。そこに異彩を放つ老人がいた。思わず目を瞠(みは)った呂不韋はその老人が孟嘗君であることを後に知る。宮城谷ファンはここでエクスタシーに達する。やはりリンクで示したように『孟嘗君』、『楽毅』、本書と読み進むことが望ましい。

「わしは老いた」
 食事の席で孟嘗君〈もうしょうくん〉はいった。
 ――何が老いたのか。
 呂不韋〈りょふい〉はそう反発したくなった。慈光苑(じこうえん)で、孟嘗君は田圃(でんぽ)にはいって農作業をしていたではないか。そこには老懶(ろうらん)のきざしさえなかった。が、みずから老いたという。
「老いると、人事がうとましくなる」
 まるで孟嘗君は呂不韋の胸裡に浮きあがった疑問にこたえるようにいった。
 太古、人は小集団をなして天地のあいだをさまよっていた。天地のあいだというのは山岳のことである。地におりれば、人は死ぬ。平原などというものは、太古の人々にとって死地以外のなにものでもない。やがて人は農耕をおぼえ、その死地を生地に変えようとした。が、そのことによって、おそらくなにかが歪みはじめた。たとえば、いままでたれのものでもなかった平原が、人によって占有化されるようになった。鳥獣と共存していた人が、人だけの住居区をつくった。そのため人は人とはべつな生物や現象に語りかけていたことばをうしなったといえる。ことばは、人境のためだけにある、と人は錯覚した。

【『奇貨居くべし 火雲篇』宮城谷昌光(中央公論新社、1998年/中公文庫、2002年/中公文庫新装版、2020年)以下同】

「政治」ではなく「人事」としたところに言葉の重みが増す。むろん人事異動の意味ではなく、「人間に関する事柄」全般を指した言葉であろう。孟嘗君の「出家」を思わせる境地である。この文章は次のように続く。

「わしは往時にうしなわれたであろうことばに、あこがれるようになった。人が好きでたまらなかったわしが、そういう憧憬(しょうけい)をもつ。これがすなわち老いたあかしである」
 孟嘗君がそういいきった瞬間、呂不韋は胸中に火を投げ込まれたように赫(かつ)とからだが熱くなった。
 ――この人は、老いたのではない。
 真の君主になったのだ、と呂不韋は痛感した。君主は自分のことを寡(か)とか孤(こ)というではないか。君主は生まれながらに孤児なのである。それゆえに人のことばに偏曲(へんきょく)を求めず、この世に公平をさずけることができる。が、君主は真に孤独でないために、偏失(へんしつ)をくりかえし、世の人々の尊敬を受けることができない。しかしながら孟嘗君は古代の聖王たちの心境に達したのではないか。呂不韋はそう思った。おもっただけではなく、恐れながら、と口をひらき、自分の想念を述べた。
 孟嘗君は目もとを明るくして、いちど口をすぼめ、それから、
「呂氏とは、こういう人です。魯(ろ)先生、おわかりいただけましたかな」

 孟嘗君の悟りといってよい。そこに想いが届くのは、やはり呂不韋が「学ぶ人」であったためだろう。魯先生とは魯仲連〈ろちゅうれん〉である。

 こうして呂不韋は孟嘗君の賓客(ひんきゃく)となる。呂不韋に従う雉〈ち〉も大きく成長してゆく。

 多くの言葉を弄(ろう)するよりも、沈黙の中でひたすら味わうべき魂の邂逅(かいこう)である。