2014-11-05

セキュリティ・カンパニー/『血のケープタウン』ロジャー・スミス


 車が1台、彼のほうにゆっくりと進んでくる。武装したガードマンたちを乗せた警備会社の巡回車だ。
 バーナードはそういう警官もどきのガードマンが大嫌いだった。彼らは裕福な連中の被害妄想が生み出す恐怖を餌にしている。そして本物の警官を見下し、いやに偉そうに、この特権階級の地域を巡回している。いつもなら彼は車を運転している荒くれ男との対面をじっくり楽しむ。自分の警官バッジが、つねにガードマンの身分証明書に勝つ、そのよろこびのために。
 けれど今夜はちがう。
 この家の近くにいるのを知られたくない。バーナードは車を発進させ、ガードマンが近づいてくる前に走り去った。

【『血のケープタウン』ロジャー・スミス:長野きよみ訳(ハヤカワ文庫、2010年)】

 南アフリカを舞台としたノワール(暗黒小説)。銀行強盗のカネを独り占めし高飛びしたアメリカ人、元ギャング、悪徳刑事の思惑が絡み合う。疾走感のある佳作。やはりその国の風俗を知るにはミステリが一番だ。

 警備会社は英語で「security company」。security には警備以外にも治安、保安、防衛、保障といった意味がある。国家安全保障は「national security」だ。アメリカの軍産複合体が下部組織あるいは天下り先としてセキュリティ・カンパニーを立ち上げた。各所で社会不安をつつけば需要はたちどころに増える。

 長嶋茂雄がセコムのコマーシャルに登場した頃(1990年)、我々は鼻で笑った。「水と安全が無料といわれるこの国(『日本人とユダヤ人』)で、そんな商売が成り立つわけがない」と。愚かな民に先見の明はなかった。現在では中小企業から一般家庭にまで普及している。


 アメリカでは9.11テロ以降、ブラックウォーターを始めとする民間軍事会社までが隆盛を極めている。イラク戦争の終盤では兵力の4割が民間と伝えられた。しかも彼らは軍法会議にかけられないためやりたい放題であった。新自由主義は戦争のアウトソーシング(外部委託)を可能とした。

 アメリカのセキュリティ・カンパニーについては『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』ナオミ・クラインが詳しい。また上杉隆が「警備会社大手のセコムには、数多くの警察OBが天下っている」(『官邸崩壊 安倍政権迷走の一年』)と指摘していることも付け加えておく。

血のケープタウン(ハヤカワ・ミステリ文庫)

2014-11-03

池田清彦、菅沼光弘、ピエール・ルメートル、ルイズ・アームストロング


 4冊読了。

 82冊目『新装版 レモンをお金にかえる法』ルイズ・アームストロング、絵:ビル・バッソ:佐和隆光〈さわ・たかみつ〉訳(河出書房新社、2005年/旧版、1982年)/評価の高い絵本だが、どこがいいのかさっぱりわからなかった。まず絵が悪い。本文も無味乾燥だと思う。

 83冊目『その女アレックス』ピエール・ルメートル:橘明美訳(文春文庫、2014年)/昨夜読み始めて、今朝読了。悪くはないといったところ。技巧が勝ちすぎていて鼻につく。シドニィ・シェルダン的な作為が全開。わかっている。最後まで付き合ってしまった私の負け惜しみだ。愛すべきキャラクターを描けていないため感情移入ができなかった。主役の警部は身重が145cmしかなく、それを小馬鹿にするような描写がたっぷり出てくる。

 84冊目『菅沼レポート・増補版 守るべき日本の国益』菅沼光弘(青志社、2012年/旧版、2009年)/菅沼尽くしである。公安調査庁入りした経緯が最も詳しく描かれている。菅沼は正真正銘の国士である。それに対して佐藤優は官僚を脱していない。

 85冊目『生物にとって時間とは何か』池田清彦(角川ソフィア文庫、2013年/『生命の形式 同一性と時間』哲学書房、2002年)/大どんでん返し。今年の1位はまたしても入れ替わった。文庫ではなくハードカバーを買うべきだった。角川ソフィア文庫は紙質が悪い。米原万里〈よねはら・まり〉が『打ちのめされるようなすごい本』で推していた一冊。私は構造主義をさほど知らないが、『免疫の意味論』、『アフォーダンス 新しい認知の理論』、『哲学、脳を揺さぶる オートポイエーシスの練習問題』を読んでいたので辛うじてついてゆくことができた。池田の気合いが手加減を許さないため難解だが、第1章の専門用語に目をつぶれば後は何とかなる。時間に対してこういうアプローチの仕方があるとはね。クオリアの件(くだり)はよくわかならかったが、ポパーの3世界を論じた箇所で私は悟りを得た(笑)。いやあ、やっぱり長生きするもんだね。

「蔽(おお)われた者」/『奇貨居くべし 黄河篇』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『太公望』宮城谷昌光
『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
・『沙中の回廊』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
・『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『青雲はるかに』宮城谷昌光

 ・戦争を問う
 ・学びて問い、生きて答える
 ・和氏の璧
 ・荀子との出会い
 ・侈傲(しごう)の者は亡ぶ
 ・孟嘗君の境地
 ・「蔽(おお)われた者」
 ・楚国の長城
 ・深谿に臨まざれば地の厚きことを知らず
 ・徳には盛衰がない

『香乱記』宮城谷昌光
・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光


 孫子(※荀子)という儒者は激しいところのある人で、いまの世に妥協しておのれに満足する者を、憎悪していた。孫子は、蔽(おお)われている人が嫌いなのである。世は変化する。それゆえ、世に役立つ者になるためには、自己を改革しなければならない。自己の改革は一朝一夕に成るものではない。努力しつづけよ、としばしば孫子(※荀子)が呂不韋〈りょふい〉に教えていたことが、ふたりからすこし離れたところにいた雉〈ち〉の耳底に残っている。いまになって孫子の言動をふりかえってみると、そこには情熱があった。つまり孫子は呂不韋のなかにすぐれた資質をみつけ、その資質が未熟におわらぬように、熱い息を吹きかけていたのではないか。孫子は呂不韋を愛したのである。

【『奇貨居くべし 黄河篇』宮城谷昌光(中央公論新社、1999年/中公文庫、2002年/中公文庫新装版、2020年)以下同】

「蔽(おお)われる」とは見慣れない字だが、遮蔽物(しゃへいぶつ)の訓読みが「遮(さえぎ)る」「蔽(おお)う」であることに思い至ればイメージがつかみやすい。「覆(おお)い隠す」の「覆う」は同訓異字であろう。現状に甘んじて、出る杭(くい)となることを避ける官僚のような姿勢を荀子は嫌った。職能が「務(つと)める」のに対して、学問は「努(つと)める」道である。力加減がまったく違う。

 荀子と別れた後も師の言葉は呂不韋の精神を鞭打ち続けた。

 呂不韋は家をでた。そのことによってはじめて実家がどういうものであったかがわかったように、賈人(こじん)は利をでなければ利というものがわからない。でる、という行為は、じつはおびただしい勇気と努力とを必要とする。それを知らない者を、
「蔽(おお)われた者」
 と、師の孫子はよんだ。
 しかしながら、蔽われない者とは、つまり、人と世というものがわかる人のことであり、それならば、人をでて、世をでなければ、人と世とはわからないことになり、死んでこの世を去ってこそ人と世がわかるのでは、生きてゆくことに意義をうしなう。そうでないところに孫子の哲理の玄妙さがあるのであろう。

 賈人(こじん)とは商人のことである。「利をでる」とは利から離れて利の意味を見つめることか。人を利に向かわせるのは欲望だ。新自由主義のように個々人の利得という小利を社会的に容認すれば格差社会が生まれるのは必然だ。白圭(はくけい/『孟嘗君』)や呂不韋のような中国戦国時代の大商人は自己の利益だけではなく国家全体の利益、すなわち大利を目指した。

 荀子は性悪説で広く知られるが、性悪であればこそ死ぬまで努力することが重要なのだ。人の性が善であれば礼や法も不要だ。「蔽(おお)われた者」は人間に巣食う悪性に引きずられる。万人に潜(ひそ)む堕落しやすい性分を荀子は性悪説としたのではあるまいか。

「学は没するに至りてしかるのちに止(や)むべきなり」との師の教えを呂不韋は忠実に生きた。死ぬまで学問を手放すことがなかった。