・努力と理想の否定
・自由は個人から始まらなければならない
・止観
そこで問題は、私たちの思考がそこいら中をうろついており、そして当然ながら秩序をもたらすことを望んでいるということです。が、どのようにして秩序をもたらしたらいいのでしょう? さて、高速で回転している機械を理解するためには、それを減速させなければなりません。もし発電機を理解したければ、それを減速させてから調べなければなりません。もしそれを停止させてしまえば、それは死物であり、そして死物はけっして理解できません。そのように、思考を排除、孤立によって殺してしまった精神はけっして理解を持つことはできないのですが、しかしもし思考過程を減速させれば、精神は思考を理解できるのです。もし皆さんがスローモーション映画を見れば、皆さんは馬が跳躍するときの筋肉の見事な動きを理解できるでしょう。筋肉のそのゆるやかな動きには美がありますが、しかし馬が急に跳躍すれば、運動がすぐに終わってしまうので、その美は失われるのです。同様にして、精神が、各々の思考が起こるつどそれを理解したいので、ゆっくり動くときには、思考過程からの自由、制御され、訓練された思考からの自由があるのです。思考は記憶の応答であり、それゆえ思考はけっして創造的ではありえません。新たなものに新たなものとして、新鮮なものに新鮮なものとして出会うことのうちにのみ、創造的な存在があるのです。
【『自由とは何か』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1994年)】
「止観」(しかん)の意味がわかったような気がする。想念や思考を止めるのではなく、自分が止まって注意力を全開にしながら、ゆっくりと動き出す想念や思考を見つめればよいのだろう。
鍵は「スローモーション」という言葉に隠されている。つまり、「全てに気づいた状態」は脳が超並列でフル回転した状態を意味する。馬の筋肉を馬自身は理解していない。理解するためには減速する必要があるのだ。たぶんスポーツ選手よりも、バレリーナや舞踊家の方が身体機能を理解していることだろう。
現在の行為をひたすら実況中継するヴィパッサナー瞑想の原理もきっと一緒だろう。ただしクリシュナムルティは特定の方法を否定する。「ただありのままに見よ」としか教えていない。
日本仏教(鎌倉仏教)は後期仏教(大衆部≒いわゆる大乗)のロジックにまみれているため、生の全体性を論理の中へ組み込んでしまうところに致命的な問題がある。初期仏教やクリシュナムルティの言葉は平易でありながらも深遠な哲理をはらんでいる。宗教という宗教が用語の中に埋没している事実をありのままに見つめる必要があろう。
・八正道と止観/『パーリ仏典にブッダの禅定を学ぶ 『大念処経』を読む』片山一良