2015-07-17
台湾コメディの快作/『海角七号 君想う、国境の南』魏徳聖(ウェイ・ダーション)監督
・台湾コメディの快作
・フィナーレ
・『セデック・バレ』魏徳聖(ウェイ・ダーション)監督
・『KANO 1931海の向こうの甲子園』馬志翔(マー・ジーシアン)監督
ウェイ・ダーション監督が『セデック・バレ』の資金を集めるために制作した映画である。ウェイ・ダーションが関わった最新作は『KANO 1931海の向こうの甲子園』(馬志翔〈マー・ジーシアン〉監督)でいずれも日本統治時代の台湾が背景となっている。
『海角七号 君想う、国境の南』をまだ観ていない人は絶対にネット上で情報を検索してはならない。Wikipediaもダメだ。映画の重要な仕掛けがあちこちで紹介されているためだ。
町長が経営するリゾートホテルで日本人ミュージシャン(中孝介〈あたり・こうすけ〉)が台湾でコンサートを行う。そこへ次期町長を狙う町議会の議長が横槍を入れる。議長は地域の発展だけを願うコテコテの保守政治家である。「地元メンバーによる前座を起用しなければコンサートを潰す」と脅した。モデル崩れの友子が通訳兼コーディネーターを務める。前座バンドの中心となるのは阿嘉(アガ)という夢破れたミュージシャンで彼は郵便配達をしていた。「海角七号」という古い住所が記された宛先不明の郵便物が現れる。そこには戦争に引き裂かれた日本人男性と台湾人女性を巡る悲しい恋の物語が記されていた。
最初の30分ほどはやや忍耐を要する。だが教会のシーンあたりから突然コミカル度が急上昇する。牧師(※台湾キリスト教の最大勢力は長老教会なので多分プロテスタントだろう。カトリックだと「神父」)とピアノを演奏する少女の対比に大笑い。この冷めた少女が前座バンドのキーボートを担当するが終始一貫して面白い。
やはり日本映画と比べるとキャスティングが際立つ。甘いマスクの阿嘉(アガ)と元特殊部隊だった警官でルカイ族のローマーは、どこか『プリズン・ブレイク』の主役兄弟を思わせる雰囲気が漂う。
「海角七号」宛てのラブレターはナレーションで随所に挿入される。もちろん日本語だ。台湾で公開された時リピーターが多かったのも頷ける。観客はラブレターの内容を確認したかったのだろう。
60年前と現在が交錯し、友子と友子が交錯し、台湾人と日本人が交錯する。アガと友子は夢破れて傷つく二人であった。映画はクライマックスに向かって二人の再生を描く。構成の妙。
アガと友子のラブシーンが唐突で興醒めするが、ま、構わない。そもそもコメディや風刺というものは常識を基準としており、そのステレオタイプが理解できないと笑えない。きっと感情は陳腐なものを好むのだろう。
練習の時はドタバタバンドっぽかったのが本番となると音が変わる。2曲目のバラードは「海角七号」との題名で60年前の友子と現在の友子を歌ったものだ。ここから畳み込むようにドラマが展開され、最後の最後であっと驚くひとひねりが挿入されている。エンディングも秀逸。
監督に力みがなかった分だけ映画の完成度が高い。作品の構成という点では『セデック・バレ』よりも優れている。友子役を演じたのは田中千絵という女優で、たまたま彼女の中国語ブログを見た監督が起用したという。「8か月の留学を終えて、日本に帰ろうとしていた二週間前に、この映画の話が舞い込んできた」(台湾で活躍する日本人7『田中千絵』インタビュー)。役どころと本人までもが交錯していたことになる。
【付記】前座バンドによる乗りのいい曲はザ・ガスライト・アンセム「The '59 Sound」のパクリっぽい。尚、「『野玫瑰』(野ばら)は日本統治時代の小学校での代表的な唱歌であり、台湾が日本統治を離れた後も、中国国民党軍政権に排斥された日本文化の中で、ドイツのフランツ・シューベルトの作曲ということで、かろうじて日本統治世代に受け継がれてきたもので、日本と台湾を結び付ける象徴となっている」(Wikipedia)とのこと。
2015-07-16
『自我の終焉』の新訳/『最初で最後の自由 The FIRST and LAST FREEDOM』J・クリシュナムルティ:飯尾順生訳(ナチュラルスピリット、2015年7月22日)
J・クリシュナムルティの代表作のひとつ! 名著『自我の終焉』、新訳で待望の復刊!!
あらゆる人生の項目を網羅。実在はあるがままを理解することの中にのみ、見出すことができます。
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あるがままを理解することは、少しも同一化や非難がない心の状態を必要としますが、
それは注意深く、しかも受動的な心を意味します。
愛について塾考したり、養成したり、実践することはできません。
愛や兄弟愛の実践はなお心の領域内にあり、従ってそれは愛ではありません。
このすべてがやんでしまったとき、そのとき愛が生まれます。
そのとき愛することが何であるのかを知るでしょう。
自己認識によって、不断の気づきによって、
あなたは何かになることへの紛争、闘争、葛藤が、
苦痛や悲しみや無知に導くことを見出すでしょう。
あなたが並はずれた静穏、組み立てられたのではなく、
組成されたのでもない静穏、あるがままへの理解とともに生じる静穏を見出すのは、
内面の不十分に気づき、それを完全に受け入れ、逃避することなく、
それとともに生きるときのみです。
その静穏の状態の中にのみ、創造的な存在があるのです。
(本文より)
2015-07-15
藤原美子に惹かれて/『劒岳 点の記』木村大作監督
2009年公開。藤原美子〈ふじわら・よしこ〉著『夫の悪夢』(文藝春秋、2010年/文春文庫、2012年)で知った。義父の新田次郎原作なので、軽い調子で監督に「息子を出させてもらえませんか?」と言ったところ、「坊主頭にするならOK」との返事。何と藤原美子まで出演することとなった。尚、試写会には皇太子殿下が訪れ、藤原夫妻と懇談されている。藤原正彦は驚くべきことに皇太子の前でも平然と冗談を放つ。
ま、藤原美子のエッセイに惹かれて、その勢いで観てしまったのだが、やはり感情に任せたのが失敗であった。舞台となるのは北アルプスの立山連峰である。見たこともないような景色が次から次へと出てくる。特徴を一言でいってしまえば風景映画である。
剱岳(つるぎだけ)の標高が2999メートルで三等三角点が2997メートルに位置する。暴風雨のシーンもあるがとにかく凄まじい。3000メートル級でこれほど苛酷な世界なのだから、エベレスト(8848メートル)を始めとする8000メートルともなれば異次元の世界と言ってよいのだろう。
藤原は役所広司の妻役でワンシーンだけ登場。科白(せりふ)が棒読みのところを見ると、嘘をつくのが下手なタイプのようだ。
山の映画であるにもかかわらずヤマ場がない。ストーリーの起伏を欠くこともさることながら、役所広司以外はミスキャストとしか思えない。仮に芸能プロダクションの意向を呑んだとしても酷すぎる。シナリオもおよそ明治時代に似つかわしくない言葉づかいが目立ち、惨憺たる結果となっている。
2015-07-14
甲野善紀、茂木健一郎、山川菊栄、鈴木明、藤原美子、中西輝政、他
8冊挫折、5冊読了。
『大君の通貨 幕末「円ドル」戦争』佐藤雅美(講談社、1984年/講談社文庫、1987年/文藝春秋改訂版、2000年/文春文庫、2003年)/冒頭1ページの文章が酷すぎる。「外交官」だらけ。
『石原莞爾 満州国を作った男』(別冊宝島、2007年)/Wikipediaの記事は本書からの引用が多い。尚、私も知らなかったのだが〈いしわら・かんじ〉と読むのが正しい。戦時において規格外の天才ぶりを発揮した人物として知られる。満州事変の首謀者であるが、そこに収まるような大きさではない。雑誌サイズのムック版で内容はまとまりを欠く。「宝島社も落ちぶれたもんだな」との印象を拭えず。
『歴史をつかむ技法』山本博文(新潮新書、2013年)/教科書的で面白くない。
『霧社事件 台湾高砂族の蜂起』中川浩一〈なかがわ・こういち〉、和歌森民男〈わかもり・たみお〉編著(三省堂、1980年)/初公開の資料に基づく力作なのだが左翼的文章が散見されたのでやめた。ま、1960年代から80年代にかけてはさほど意識しなくとも「日本を貶める」のがあたかも知性のように思われていた。五十を過ぎると残された時間に限りがあるため、イデオロギーや思想の悪臭を発する本は読む気になれない。
『右であれ左であれ、わが祖国日本』船曳建夫〈ふなびき・たけお〉(PHP新書、2007年)/タイトルはオーウェルから流用したもの。中途半端というよりは眠くなるような代物でスピード感を欠く。文章にも鋭さがない。
『生命誕生 地球史から読み解く新しい生命像』中沢弘基〈なかざわ・ひろもと〉(講談社現代新書、2014年)/私の見込み違いであった。
『日本が戦ってくれて感謝しています アジアが賞賛する日本とあの戦争』井上和彦(産経新聞出版、2013年)/聞き覚えのある名前だと思ったら、この人だった。テレビで見たまんまの印象を受けた。軽い。内容は重いのだが文章が軽いのだ。タイトルも軽薄だと思う。
『ヴェノナ』ジョン・アール・ヘインズ、ハーヴェイ・クレア:中西輝政監訳、山添博史〈やまぞえ・ひろし〉、佐々木太郎、金自成〈キム・ジャソン〉訳(PHP研究所、2010年)/素人が読むには辛い。中西は自著で「ヴェノナ文書が公開されたことで、マッカーシズムが実は正しかったことが証明された」というようなことを書いている。ただしちょっとわかりにくい。ソ連のスパイが多かった事実がそのまま赤狩りのヒステリー現象を正当化することにはならないだろう。
79冊目『日本人としてこれだけは知っておきたいこと』中西輝政(PHP新書、2006年)/中西の本気が伝わってくる。思わず感動した。靖国神社の意味と意義も初めて知った。東京裁判が行ったのは天皇陛下と靖国神社という日本のアイデンティティを完全に否定することであった。彼らの戦略は確かに成功した。しかし日本人は1990年代から近代史の呪縛を解く作業を始めた。保守論壇で孤軍奮闘してきた中西はその功労者の一人である。
80冊目『夫の悪夢』藤原美子〈ふじわら・よしこ〉(文藝春秋、2010年/文春文庫、2012年)/名前は知っていた。『月の魔力』(東京書籍、1984年)の共訳者として。しっかし、びっくりしたなー、もう。藤原正彦の奥方がこれほどの美人だったとは。エッセイや講演では鬼嫁みたいな言い方をしている。しかも才色兼備。藤原正彦の宿六亭主ぶりを暴露する。あっけらかん。新田次郎や藤原ていのエピソードも出てきて本当に面白かった。ユーモアという点では藤原に引けをとらない。1日で読了。
81冊目『高砂族に捧げる』鈴木明(中央公論社、1976年/中公文庫、1980年)/霧社事件で日本軍と戦った高砂族(台湾原住民)がなぜ高砂義勇隊となったのかを追うルポ。文章に心血を注いだ跡が窺える。霧社事件の背景は複雑なことがよくわかった。
82冊目『武家の女性』山川菊栄〈やまかわ・きくえ〉(岩波文庫、1983年)/やはり渡辺京二が紹介していた部分が一等面白かった。銭湯に登場する伝法なかみさんのエピソード。寅さんも真っ青のべらんめえ調が凄い。塾の様子も忘れ難い。後半は会津藩の天狗党にまつわる内容が目立つ。文章の調子が古き日本への郷愁を掻き立ててやまない。
83冊目『響きあう脳と身体』甲野善紀、茂木健一郎(バジリコ、2008年)/面白かった。甲野の豊富な知識に驚かされる。甲野がずんずん斬り込んでゆき、茂木は受けに回っている。筋トレ否定論はもっと注目されるべきだ。誰か甲野とイチローを対談させる人がいないかね?
2015-07-13
邪悪な秘密結社/『休戦』プリーモ・レーヴィ
・『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』V・E・フランクル:霜山徳爾訳
・『それでも人生にイエスと言う』V・E・フランクル
・『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ
・フルビネクという3歳児の碑銘
・邪悪な秘密結社
・解放の時
・『溺れるものと救われるもの』プリーモ・レーヴィ
・『プリーモ・レーヴィへの旅 アウシュヴィッツは終わるのか?』徐京植
・『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編
・『石原吉郎詩文集』石原吉郎
彼は青春時代と青年期を監獄と舞台で過ごし、その混乱した頭の中で、二つのものの区別がよくできていないようだった。そしてドイツで監獄に入ったことがとどめの一撃になった。
彼の話では、真実と可能なことと想像とがごっちゃになって、ほどくことができない、多彩なもつれ合いを作っていた。彼は監獄や裁判所を劇場のように語った。そこでは誰もが自分自身ではなく、ゲームをし、才能を見せびらかし、他人の外貌をまとって、ある役割を演じていた。そして劇場は訳の分からない巨大な象徴であり、暗い破滅の道具であった。それはありとあらゆる場所に存在する、邪悪な、ある秘密結社が外に現れたもので、万人に害を及ぼすような支配をしていて、ある日家にやってきて、ある人物を捕まえると、仮面をかぶせ、本人以外のものに変え、意志に反したことをさせるのだった。この秘密結社とは「社会」だった。不倶戴天の敵で、彼トラモントはいつも戦ってきたのだが、常に打ち負かされた。しかしそのたびに、勇ましく復活してきたのだった。
彼を探し出し、挑んできたのは「社会」のほうだった。
【『休戦』プリーモ・レーヴィ:竹山博英訳(岩波文庫、2010年/脇功訳、早川書房、1969年)】
「混乱した頭」が真実を鋭く見抜く。論理を司る左脳の破綻が右脳の直観を優位に仕立てる。社会とは「邪悪な秘密結社」であった。卓抜した表現が二重に深い洞察を与える。強制収容所もまた社会の産物であり、そして収容所内では下位の社会が構成される。障害者・ジプシー・ユダヤ人であることは自分の一部に過ぎないが、ナチスは彼らのすべてと判断した。
自由とは「恐怖や衝動がなく、安心したいという欲求のない心境」(『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ)である。
世界は衝突しあう信念やカースト制度、階級差別、分離した国家、あらゆる形の愚行、残虐行為によって引き裂かれています。そして、これが君たちが合わせなさいと教育されている世界です。君たちはこの悲惨な社会の枠組みに合わせなさいと励まされているのです。親も君にそうしてほしいし、君も合わせたいと思うのです。
【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】
監獄の外もまた監獄であった。社会とは監獄の多層構造が織りなす世界なのだ。我々は「自分」であることよりも、何らかの「役割」を生きる羽目となる。社会を構成する我々はショッカーみたいな存在なのだろう。
被害者からしか見えぬ真実がある。世界を正しく導くためには被害者の声に耳を傾けることだ。『すばらしい新世界』や『一九八四年』などのディストピア小説が示したのも、ファシズムや共産主義というよりは社会の同調圧力と見るべきだろう。
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