セイラムの魔女裁判を題材にした映画、クルーシブルは必見でございます。途中で中座したくなるような映画です。
— タカシ (@taka0316y7) 2014, 4月 25
原作はアーサー・ミラーの戯曲『るつぼ』(1953年)で舞台公開された。映画化はジャン・ポール・サルトルが脚色した『サレムの魔女』(1958年)が嚆矢(こうし)。アーサー・ミラーはマッカーシズム(赤狩り)を批判するためにペンを執った。一種の逆プロパガンダ作品でありプロテスト(抗議)行為といってよい。
魔女狩りの情況が巧みに描かれていて一見の価値あり。セイラム魔女裁判(1692年)はプロテスタント社会における集団ヒステリーとして捉える傾向が強い。だがそれでは魔女狩りの全体像を見渡すことは難しい。
セイラムの魔女裁判 その一。 pic.twitter.com/B44tpy9Dgw
— 小野不一 (@fuitsuono) 2015, 8月 2
私は脱魔女狩りが近代化の本質であったと考えている。
・何が魔女狩りを終わらせたのか?
魔女狩りについてはあまりいい本がない。やはり欧米の自己弁明圧力が働くためだろう。森島恒雄著『魔女狩り』がアウトラインを一番よくまとめている。
セイラムの魔女裁判 その二。 pic.twitter.com/JdwSAwVypI
— 小野不一 (@fuitsuono) 2015, 8月 2
魔女狩りがわかりにくいのは背景や原因が描かれていないためだ。そのキリスト世界を俯瞰するには外部からの眼が必要になる。ところが西洋は神が頂点に君臨しているため、その【上】に視点を置くことができない。
この映画も同様である。物語性を高めるためにジョン・プロクター(ダニエル・デイ=ルイス)と17歳のアビゲイル(ウィノナ・ライダー)が不倫をしたという設定になっているが、実際のアビゲイルは12歳であった。プロクター夫妻は不貞を働いた夫と冷酷な妻でありながらも、後半ではイエスとマリアのような役回りとなっている。かようにキリスト世界では偽善が必要とされる。
実は先日観た『ラスト・オブ・モヒカン』でダニエル・デイ=ルイスを知ったのだが特にいい俳優とも思えない。世間の評価が高いのは役作りを懸命にしているためだろう。本作品では「チャールトン・ヘストンの二番煎じ」といった顔つきだ。尚、妻を演じるのはジョアン・アレンで、その後『ボーン・スプレマシー』(2004年)のパメラ・ランディ役を務めた女優である。
セイラムの魔女裁判 その三。 pic.twitter.com/IvRJee4MQX
— 小野不一 (@fuitsuono) 2015, 8月 2
見どころは少女たちのヒステリー症状もさることながら、判事や魔女に詳しい牧師がパニックに拍車をかけ、不安を拡大させている点にある。つまり【専門家が時代をミスリードする】のだ。教会は宗教を司り、政治にも影響を及ぼした。さしずめ現代なら政治とメディアだ。
魔女狩りは現代でも行われている。
・Thieves Burned Alive in Kenya for Stealing Potatoes(※閲覧注意、18歳以上に限る。「CONTINUE」をクリック)
魔女狩りはキリスト世界に限ったものではない。「祟(たた)り」を信じ、恐れる人々の暴力衝動が人間に対して火を放つ。
・人間は人間を拷問にかけ、火あぶりに処し、殺害してきた
日本では16世紀から17世紀にかけて4000人のキリシタンが虐殺された(『殉教 日本人は何を信仰したか』山本博文)。キリシタン狩りを一種の魔女狩りと捉えることも可能だろう。
1回目の縛り首にやんややんやの喝采を送っていた大衆が2回目は静まり返る。アメリカ映画の不自然な演出はプロテスタントに由来するものと考える。
尚、ヴェノナ文書によってジョセフ・マッカーシーの主張は正しかったとされているが、ソ連のスパイが多数いた事実とマッカーシー旋風は分けて考えるべきだろう。中西輝政の指摘はやや的外れであるように私は感じる。
・セーラム魔女裁判で実際に行われていた魔女を見分ける10の方法
・セイラム魔女裁判―清廉潔白のグロテスク