2015-11-10
マーク・グリーニー、水間政憲、石原結實、他
5冊挫折、2冊読了。
『模倣の殺意』中町信〈なかまち・しん〉(創元推理文庫、2004年/江戸川乱歩賞応募原稿、1971年「そして死が訪れる」改題/雑誌『推理』掲載、1972年「模倣の殺意」改稿/双葉社、1973年『新人賞殺人事件』改題)/久々の推理小説。40年前の作品が今頃になって35万部のベストセラーになっているらしい。富山の女性が東京山の手の言葉づかいをしている時点でやめた。謎解きは一級品らしいが読み物としては今ひとつ。中町のデビュー作である。
『猟犬』ヨルン・リーエル・ホルスト:猪股和夫訳(ハヤカワ・ポケット・ミステリ、2015年)/北欧ミステリの傑作警察小説との謳い文句に疑問あり。父親と娘の動きが交互に綴られるが、父親の方が全く面白くない。
『知覧からの手紙』水口文乃〈みずぐち・ふみの〉(新潮社、2007年/新潮文庫、2010年)/知覧ものでは有名な穴沢利夫少尉。彼の婚約者であった伊達智恵子さんからの聞き書きを編んだもの。女学生が桜の枝を振りながら特攻機を見送る有名な写真があるが、それに搭乗していたのが穴沢であった。若い女性は読むといいだろう。
『偽りの幕末動乱』星亮一(だいわ文庫、2009年)/星は仙台市生まれだが、福島民報記者、福島中央テレビ報道政策局長との経歴からもわかるように「会津寄り」の人物である。それは構わないのだが新聞記者やテレビマンにありがちな誤謬が各所に散見される。例えば「ペリーは断固、江戸湾での交渉を主張し、拒否すれば砲撃を加える覚悟だった」(22ページ)などという記述はデタラメ極まりない。ミラード・フィルモア大統領は戦争を避けるよう厳命し、自衛以外の砲撃も禁じた。黒船が使用したのは空砲だけである。来航中に変わったフランクリン・ピアース大統領は更なる穏健派であった。星亮一だけ読むと歴史認識を誤る。意外と見落としがちだが、ペリー来航(1853年)、南北戦争(1861-65年)、明治元年(1868年)との流れは覚えておくべきだ。
『いいことずくめの玉ねぎレシピ 中性脂肪、血圧、血糖値、ぜんぶにいい!』石原結實〈いしはら・ゆうみ〉監修(角川SSCムック、2007年)/飛ばし読み。おすすめ。写真が大きい。大きすぎか。タマネギは切ってから15分以上空気にさらすことで栄養価が高まるそうだ。早速実践。
147冊目『ひと目でわかる「GHQの日本人洗脳計画」の真実』水間政憲〈みずま・まさのり〉(PHP研究所、2015年)/水間はチャンネル桜でお馴染みの人物。絡みつくような話しぶりが好きになれない。写真は星五つ、文章は星三つと評価する。Kindleを持っている人は迷わずKindle版を。朝日新聞を嫌うことでは私も人後に落ちないつもりだが、水間の批判は拙(つたな)すぎる。大本営体制という時代背景の説明が弱く、キャプションの一部も実に短絡的だ。それでも尚、本書に掲載されている写真の数々は日本人であれば必ず見ておくべきである。
148冊目『暗殺者グレイマン』マーク・グリーニー:伏見威蕃〈ふしみ・いわん〉訳(ハヤカワ文庫、2012年)/読ませる。デイヴィッド・マレル風の国際謀略もの。主人公のグレイマンが超人すぎるのが難点。あと子供の場面に大人の視点が混じるのが気になった。翻訳の問題かも。
2015-11-09
ルーズベルトの周辺には500人に及ぶ共産党員とシンパがいた/『日本の敵 グローバリズムの正体』渡部昇一、馬渕睦夫
・ルーズベルトの周辺には500人に及ぶ共産党員とシンパがいた
・『国難の正体 世界最終戦争へのカウントダウン』馬渕睦夫
・『世界を操る支配者の正体』馬渕睦夫
・『自由と民主主義をもうやめる』佐伯啓思
渡部●ルーズベルトは社会主義的なものに惹(ひ)かれ、共産主義とソ連に寛容でした。大恐慌後の不況対策として打ち出したニューディール政策には財産権を侵害するものも含まれ、最高裁で無効とされたものもあります。また、夫人のエレノアとともに社会運動に熱心なあまり、コミンテルンの工作員や共産党同調者の影響を受けてしまい、国務省や大統領周辺には、500人に及ぶ共産党員とシンパがいたと言われています。
馬渕●ですから、歴史の真実は、まだまだ明らかになっていない。アメリカで公文書が公開されるにつれ、ルーズベルトの政策を再検討する動きが出ています。有名なチャールズ・ビーアドさんという歴史学会の会長が書いた本(『ルーズベルトの責任 日米戦争はなぜ始まったか』藤原書店)も、ようやく日の目を見るようになりました。ルーズベルトは一体何をしたのか。今までは英雄でしたけれども、現にアメリカの中から、それを見なおそうという機運が熟し、英雄像にほころびが出てきた。
アメリカ人はあれほどの犠牲を払いながら、いまだに戦争の本当の理由を知らされていないと言えるでしょう。
【『日本の敵 グローバリズムの正体』渡部昇一〈わたなべ・しょういち〉、馬渕睦夫〈まぶち・むつお〉(飛鳥新社、2014年)】
アメリカは世論の国である。いかに権限のある大統領といえども世論には逆らうことができない。ゆえに「世論をつくり上げる」。
やり方は至って簡単だ。自国民をわざと犠牲にした上で国民感情を復讐に誘導するのだ。
「アラモの戦い」(1836年)では当時メキシコ領であったテキサス州でアメリカ義勇軍が独立運動を起こした。義勇軍は何度も援軍を頼んだが合衆国軍はこれを無視。200人の義勇軍は全滅した。アメリカは惨殺の模様を誇大に宣伝し、「アラモを忘れるな!(リメンバー・アラモ)」を合言葉にテキサス独立戦争(1835-36年)に突入した。メキシコ合衆国は半分の領土を失った。テキサス共和国はアメリカに併合される。
19世紀後半になるとスペイン帝国が弱体化した。フィリピンではホセ・リサール(1861-96年)が立ち上がり、キューバではホセ・マルティ(1853-95年)がゲリラ戦争を展開。この頃アメリカの新聞は読者層を伸ばそうと激しい競争を繰り広げていた。「1897年の『アメリカ婦人を裸にするスペイン警察』という新聞記者による捏造記事をきっかけに、各紙はスペインのキューバ人に対する残虐行為を誇大に報道し、アメリカ国民の人道的感情を刺激した」(Wikipedia)。「ピュリッツアーは、『このときは戦争になってほしかった。大規模な戦争ではなくて、新聞社の経営に利益をもたらすほどのものを』と公然と語っている」(「死の商人」と化した新聞)。嘘にまみれた新聞の演出によって参戦の機運が国民の間で高まる。アメリカ海軍は最新鋭戦艦メイン号をキューバに派遣。ハバナ湾でメイン号は原因不明の爆発を起こし、260人余りのアメリカ人が死亡した。アメリカの新聞は「メイン号を忘れるな!」と連呼し米西戦争(アメリカ=スペイン戦争)に至る。アメリカはキューバ、フィリピン、グアム、プエルトリコを手中にし、世界史の表舞台に登場する。
第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけてアメリカはモンロー主義(孤立主義)を貫いた。1915年、米客船ルシタニア号がドイツ軍のUボートによる魚雷で攻撃され沈没した。乗客1200名に128名のアメリカ人が含まれていた。アメリカ世論の反独感情は沸騰し第一次世界大戦に参戦する。後にルシタニア号が173トンの弾薬を積載していることが判明。当時の国際法に違反しており、ドイツ軍の攻撃は正当なものと考えられている。
フランクリン・ルーズベルトはそれまでの慣例を破り3期目の大統領選に出馬。「アメリカの青少年をいかなる外国の戦争にも送り込むことはない」と公約した。ルーズベルトは日本に先制攻撃をさせるべく、ありとあらゆる手を尽くした。大東亜戦争における日本軍の紫暗号は当初から米軍に解読されていた。日本はその事実も知らないまま真珠湾攻撃を行う。この時不可解なことが起こる。日米交渉打ち切りの最後通牒である「対米覚書」をコーデル・ハル国務長官に渡すのが遅れたのである。攻撃開始の30分前に渡す予定だったのが、実際は攻撃から55分後となってしまった。本来なら責任があった駐ワシントンD.C.日本大使館の井口貞夫元事官や奥村勝蔵一等書記官は切腹ものだが、何と敗戦後、吉田茂によって外務省で事務次官に任命され、キャリアを永らえている。ルーズベルトは議会で「対日宣戦布告要請演説」を行う。「日本は太平洋の全域にわたって奇襲攻撃」「計画的な侵略行為」「卑劣な攻撃」との言辞を弄してアメリカ国民を欺いた。米軍は真珠湾から空母2隻と新鋭艦19隻は攻撃前に避難させていたのだ。「真珠湾を忘れるな!(リメンバー・パールハーバー)」を合言葉にアメリカは第二次世界大戦に加わる。ルーズベルトは日本に対する最後通牒ともいうべきハル・ノートの存在を国民に知らせなかった。
1964年、トンキン湾事件によってアメリカはベトナム戦争(1960-75年)に介入する。1971年6月ニューヨーク・タイムズのニール・シーハン記者がペンタゴンの機密文書を入手し、トンキン湾事件はアメリカが仕組んだものだったことを暴露した。
こうして振り返ると自作自演こそアメリカという国家の本性であり、「マニフェスト・デスティニー」(明白なる使命)に基づくハリウッド国家、ブロードウェイ体制と考えてよい。
そのアメリカがソ連にコントロールされていたというのだから、やはり歴史というのは一筋縄ではゆかない。マッカーシズムの嵐が起こるのは1950年のことである。
・建国の精神に基づくアメリカの不干渉主義/『日米・開戦の悲劇 誰が第二次大戦を招いたのか』ハミルトン・フィッシュ
・マッカーサーが恐れた一書/『アメリカの鏡・日本 完全版』ヘレン・ミアーズ
・大衆運動という接点/『折伏 創価学会の思想と行動』鶴見俊輔、森秀人、柳田邦夫、しまねきよし
2015-11-07
マッカーシズムは正しかったのか?/『ヴェノナ』ジョン・アール・ヘインズ、ハーヴェイ・クレア
・『大東亜戦争とスターリンの謀略 戦争と共産主義』三田村武夫
・『日本テレビとCIA 発掘された「正力ファイル」』有馬哲夫
・『秘密のファイル CIAの対日工作』春名幹男
・『ハリウッドとマッカーシズム』陸井三郎
・マッカーシズムは正しかったのか?
・『日本の敵 グローバリズムの正体』渡部昇一、馬渕睦夫
・『アメリカの社会主義者が日米戦争を仕組んだ 「日米近現代史」から戦争と革命の20世紀を総括する』馬渕睦夫
さらに重大なのは、驚くほど多くの数のアメリカ政府高官がソ連とつながっていたことが、「ヴェノナ」解読文によって判明したことだった。彼らは、そうと知りつつソ連情報機関と秘密の関係をもち、アメリカの国益をひどく損なう極秘情報をソ連に渡していたのである。アメリカ財務省におけるナンバー2の実力者で、連邦政府の中でも最も影響力のある官僚の一人であり、国際連合創立のときのアメリカ代表団にも参加していたハリー・デクスター・ホワイトが、どのようにすればアメリカの外交をねじまげられるかをKGBに助言していたこともわかってきた。
また、フランクリン・ルーズベルトの信任厚い大統領補佐官だったラフリン・カリーは、ソ連のアメリカ人エージェントとして重要な地位にあったグレゴリー・シルバーマスターをFBIが調べ始めたとき、そのことをKGBに通報していた。このため、米政府内の大変有益なスパイ一団を指揮していたシルバーマスターは、捜査を逃れてスパイ活動を続けることができた。当時のアメリカの主要なインテリジェンス機関であったOSS(戦略事務局)で調査部長の地位についていたモーリス・ハルパリンは、数百ページものアメリカの秘密外交通信をKGBに渡していたのであった。
アメリカ政府のすぐれた若手航空科学者だったウィリアム・パールは、アメリカのジェット・エンジンやジェット機についての極秘の設計試験結果をソ連に知らせており、彼の裏切りのおかげで、ソ連はジェット機開発でアメリカが技術的にリードしていた大きな格差を克服し、早期に追いつくことができた。朝鮮戦争で、米軍指導部は自分たちの空軍力なら戦闘空域で敵を制圧できると考えていたが、これは北朝鮮や共産中国の用いるソ連製航空機がアメリカのものにはとうてい太刀打ちできない、と考えていたからである。しかし、ソ連のミグ15ジェット戦闘機はアメリカのプロペラ機よりはるかに速く飛行できただけでなく、第一世代のアメリカのジェット機と比べても明らかに優っていたため、米空軍は大きな衝撃を受けた。その後、アメリカの最新ジェット機のF-86セイバーの開発を急ぐことででやっと、アメリカはミグ15の技術的能力に対抗することができた。アメリカ空軍はようやく優位を得たが、それはアメリカ航空機の設計よりも大部分、米軍パイロットの技量によるものであった。
【『ヴェノナ』ジョン・アール・ヘインズ、ハーヴェイ・クレア:中西輝政監訳、山添博史〈やまぞえ・ひろし〉、佐々木太郎、金自成〈キム・ジャソン〉訳(PHP研究所、2010年/扶桑社、2019年)以下同】
ほぼ学術書である。中西輝政は自著で「ヴェノナ文書によってマッカーシズムが正しかったことが証明された」と言い切っているが、私にその確信はない。ただ明らかなのは米国首脳部にまでKGB(カーゲーベー)の手が及んでいた事実である。はたまたルーズヴェルト本人が左翼であったという説もある(『アメリカの社会主義者が日米戦争を仕組んだ 「日米近現代史」から戦争と革命の20世紀を総括する』馬渕睦夫、2015年)。
日本の読者がこの本の中でとくに関心をもつのは、ソ連がアメリカの原爆開発「マンハッタン・プロジェクト」に多くのスパイを送り込んでいたため、アメリカの原爆開発の実態を非常によく知っていた、という部分だと思います。事実、1945年の7月にポツダムでトルーマン大統領はスターリンに会い、アメリカは非常に強力な新兵器をすぐに日本に対して使用することができる、と話しましたが、そのときスターリンには驚いた様子は全くありませんでした。おそらくスターリンは原爆について、トルーマンよりも早く、そしてより多くのことを知っていたのでしょう。(日本語版に寄せて)
また、今日読み終えた『ひと目でわかる「GHQの日本人洗脳計画」の真実』(水間政憲、2015年)によれば、実は長崎に原爆は2発落とされていて、もう1発の不発弾はソ連に渡った可能性があるという。証拠として瀬島龍三元中佐が署名した「原子爆弾保管ノ件」という機密文書を掲載している(ロシア国防省中央公文書館所蔵)。
冷戦前夜の第二次世界大戦は米ソのスパイが暗躍する時代であった。日本だとソ連の手先としてはリヒャルト・ゾルゲや尾崎秀実〈おざき・ほつみ〉が知られる(いずれも死刑)。
ひょっとすると帝国主義を葬ったのはコミンテルンの指示を受けた工作員の活躍によるところが大きいのかもしれない。彼らに下された使命は国家転覆を狙った破壊と混乱であった。
マッカーシズムを否定的に篤かった書籍に陸井三郎著『ハリウッドとマッカーシズム』(1990年)がある。個人的に読み物としてはどちらもあまり評価できない。
これだけだと「ヴェナノ文書」を理解することはできないと思われるので動画と関連書を紹介する。
・憲法9条に埋葬された日本人の誇り/『國破れて マッカーサー』西鋭夫
台湾の教科書に載る日本人・八田與一/『台湾を愛した日本人 土木技師 八田與一の生涯』古川勝三
・『医者、用水路を拓く アフガンの大地から世界の虚構に挑む』中村哲
・『セデック・バレ』魏徳聖(ウェイ・ダーション)監督
・特集『KANO 1931海の向こうの甲子園』馬志翔(マー・ジーシアン)監督
・台湾の教科書に載る日本人・八田與一
・『街道をゆく 40 台湾紀行』司馬遼太郎
以来、八田與一〈はった・よいち〉の名前は、嘉南60万の農民の心に刻み込まれ、永遠に消えることはなかった。
不毛の大地として、見捨てられていた広大な嘉南平原の隅々にまで灌漑用水が行き渡るのを見届けて、八田與一は思い出多い烏山頭の地を後にし、家族と共に台北へ去っていった。八田技師と共に工事に携わっていた人々は、作業服姿で大地に腰を下ろした八田技師の銅像を作り、起工地点に据えてその功績を称えた。
素朴な嘉南の農民は、「嘉南大圳(かなんたいしゅう)の父」という畏敬の念に満ちた言葉を贈り、終生八田與一への恩を忘れないようにした。
嘉南大圳の完成は、世界の土木界に驚嘆と賞賛の声を上げさせた。
烏山頭(うさんとう)ダムは東洋では随一の湿式土壌堤であり、その規模において世界に例を見ない。このため、アメリカ合衆国の土木学会は、特に「八田ダム」と命名し学会誌上で世界に紹介した。八田與一の技術の勝利であり、日本の灌漑土木工事の優秀さを、世界に証明するのに十分な土木工事の一大金字塔であった。
嘉南平原が絨毯(じゅうたん)を敷き詰めたような緑の大地に甦り、台湾最大の穀倉地帯と呼ばれるようになった頃、八田與一は勅任官技師になり「台湾に八田あり」と言われるようになる。やがて、戦雲が世界を覆い包んだ。昭和16年、台湾からも零戦が飛び立ち嘉南平原を軍歌が音をたてて通り過ぎて行った。昭和17年5月5日、フィリピンの綿作灌漑調査を、軍より命ぜられた八田與一は広島県宇品港で大洋丸に乗船し、日本を後にした。
5月8日、五島列島の南を航行中、大洋丸が撃沈された。アメリカ海軍の潜水艦による魚雷攻撃であった。八田與一は、56歳の生涯を東シナ海で終えた。それから3年後、太平洋戦争は敗戦で幕を閉じた。
【『台湾を愛した日本人 土木技師 八田與一の生涯』古川勝三〈ふるかわ・かつみ〉(改訂版、2009年/青葉図書、1989年『台湾を愛した日本人 嘉南大圳の父八田与一の生涯』改題)以下同】
古川勝三は教員である。文部省海外派遣教師として台湾の日本人学校に3年間勤務。その時初めて八田與一を知った。日本では全く無名の八田を世に知らしめたのが本書である。司馬遼太郎が称賛した。
八田の仕事が偉大な壮挙であったのは言うまでもないことだが、台湾の人々の心をつかんだのは八田の振る舞いであった。大東亜戦争においても日本の軍人がアジアの人々の心をつかんだのは武士道もさることながら、やはり人種差別のない振る舞いが大きかったことだろう。
八田與一一家。二男六女に恵まれた。 pic.twitter.com/WO9FsLZD4C
— 小野不一 (@fuitsuono) 2015, 8月 4
古川は作家でないせいか、冒頭部分で手の内を全てさらす。八田の死は更なる悲劇を招いた。
八田與一が青春を捧げた台湾は中華民国に返還され、日本人はことごとく台湾を去らねばならなくなった。
愛する夫を戦争で奪われた外代樹(とよき)は今また夫と共に過ごした台湾を去らねばならぬ苦しみに打ちひしがれ、虚脱したからだを夫の終生の事業であった烏山頭ダムの放水口に踊らせて、45歳の生涯を閉じた。
日本人が去り、日本人の銅像や墓が次々と壊されていく中で、嘉南の人々は御影石を買い求め、日本式の墓石を造り八田技師の銅像のすぐ後に建てた。昭和21年12月15日のことである。以来、嘉南の人々は八田與一の命日になると、烏山頭ダムから一斉に放水して、その功績を偲び嘉南の大地と農民を愛し続けた若き技師の「追悼式」を、毎年欠かすことなく行ってきた。
台湾にある八田與一の銅像と夫妻の墓所。 pic.twitter.com/Qj9oRO7WIR
— 小野不一 (@fuitsuono) 2015, 8月 4
『セデック・バレ』そのものである。しかも烏山頭ダムが完成した1930年に霧社事件が起こっているのだ。古い時代と新しい時代の波がぶつかり合う時、過去の歴史は恐るべき様相で飛沫を散らす。外代樹夫人が入水(じゅすい)した9月1日は烏山頭ダムの着工記念日であった。
・八田技師の妻、外代樹夫人の銅像除幕式/台湾・台南
「台湾を愛した日本人」は台湾で発行されていた日本人会報に連載。大きな反響があり後に書籍化される(ダムインタビュー 45 古川勝三さんに聞く「今こそ、公に尽くす人間が尊敬される国づくり=教育が求められている」)。八田の生きざまが古川の胸を響かせ、その余韻が多くの読者にまで伝わる。心を打つのはやはり心なのだ。
・台湾人に神様レベルで感謝されてる日本人がいた
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