2016-05-12

強欲な人間が差別を助長する/『マネーロンダリング入門 国際金融詐欺からテロ資金まで』橘玲


 ・強欲な人間が差別を助長する

『タックスヘイブンの闇 世界の富は盗まれている!』ニコラス・ジャクソン
『タックス・ヘイブン 逃げていく税金』志賀櫻
税金は国家と国民の最大のコミュニケーション/『消費税は民意を問うべし 自主課税なき処にデモクラシーなし』小室直樹

【マネーロンダリング Money Laundering】
 資金洗浄。タックスヘイブンやオフショアと呼ばれる国や地域に存在する複数の金融機関を利用するなどして、違法な手段で得た収益を隠匿する行為。テロマネーやトラフィッキング(麻薬・武器密売・人身売買など“人道にもとる”犯罪)にかかわる資金が「マネロン」の主な対象となる。法的には脱税資金の隠匿はマネーロンダリングに含まれないが、広義には所得隠しなど裏金にかかわる取引を総称することもある。
【タックスヘイブン Tax Haven】
 租税回避地。金融資産の譲渡益や利子・配当所得に課税されず、相続税・贈与税がなく、国外(域外)で得た所得に対して所得税・法人税が課されないなど、富裕な個人や企業・機関投資家に多大の便宜を提供している国や地域。モナコ、リヒテンシュタインなどヨーロッパの小国、ケイマン諸島などカリブ海の島々、バヌアツなど南太平洋の島々がよく知られている。
【オフショア Offshore】
 国内金融機関(オンショア)から隔離され、税制などの優遇措置を与えられた国際金融市場の総称。狭義にはタックスヘイブンを指す。
【オフショアバンク Offshore Bank】
 オフショアに設立された銀行。国外(域外)の個人・法人を顧客とし、ドル・ユーロ・ポンドなど主要通貨の外貨口座を持ち、現地通貨は扱わない。

【『マネーロンダリング入門 国際金融詐欺からテロ資金まで』橘玲〈たちばな・れい〉(幻冬舎新書、2006年)以下同】

 オフショア企業の設立・管理および資産管理サービスの提供をしてきたモサック・フォンセカ法律事務所の機密情報が漏洩(ろうえい)した。ご存じ、パナマ文書である。WikiLeaksのデータ量が1.7GBであったのに対し、パナマ文書は2.6TBと伝えられる。およそ1500倍という桁外れの情報量だ。

 マネーは意志を持っている。金融マーケットに流れ込むマネーは基本的に剰余資金である。今、なぜダウ平均株価が上昇しているのか? マーケットにマネーが集まっているからだ。債券であれ通貨であれコモディティ(商品)であれ原理は一緒である。マーケットを動かすのはマネーの量である。

 そしてマネーは増殖を求めてリターンの大きいマーケットを目指す。確かな意志を持って。

 多くの人が誤解しているが、プライベートバンクは本来、「個人のための」銀行ではなく「個人所有」の銀行のことである。(中略)伝統的プラベートバンクの特徴は、オーナー一族が自らの財産で設立し、無限責任によって運営されていることだ。経営に失敗すればオーナー自身が破産するというこの仕組みが、資産の保全を臨む顧客の信用の源泉になっている。

 プライベートバンクといえばスイスが有名である。しかしながら9.11テロ以降、アメリカが断固たる態度を示し、プライベートバンクやタックスヘイブンに情報開示を迫った。もはやスイス銀行やプライベートバンクに優位性はない。テロ資金を断つために世界は共同歩調をとったかに見えた。

 マネーはグローバルな金融市場を自由に行き来するが、それを管理するのは「国家」という地理的な枠組みでしかない。プライベートバンクは市場と国家のこの制度的な矛盾を利用し、国内の法制度に穴を穿(うが)ち、司法・行政権の及ばない擬似的なタックスヘイブンをつくり出していく。

 アメリカはあろうことか自国にタックスヘイブンを用意した。デラウェア州である(世界最悪のタックスヘイブンはアメリカにある)。タックスヘイブンといえばケイマン諸島やバミューダ諸島が知られているが、いずれもイギリス領だ。で、世界最大のタックスヘイブンはロンドンのシティ(シティ・オブ・ロンドン金融特区)といわれる。結局、アングロサクソン主導で好き勝手な真似をしているわけだ。

 富裕層や大企業はなぜ租税を回避するのだろう? ハハハ、政府が愚かだからだよ。政治家は利権に基いて予算を組む。富の再分配は阻害される。政府は常に無駄な予算を組み、天下りを容認し、他方では国民に増税を求める。

 優れた国家があれば、高額な税負担は誇りとなるはずである。強い者が弱い者を助けるのは当たり前だ。チンパンジーの世界ですら利益分配は行われている(『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール)。


 ――いまの離職率が高いのはどう考えていますか。
「それはグローバル化の問題だ。10年前から社員にもいってきた。将来は、年収1億円か100万円に分かれて、中間層が減っていく。仕事を通じて付加価値がつけられないと、低賃金で働く途上国の人の賃金にフラット化するので、年収100万円のほうになっていくのは仕方がない」

 ――付加価値をつけられなかった人が退職する、場合によってはうつになったりすると。
「そういうことだと思う。日本人にとっては厳しいかもしれないけれど。でも海外の人は全部、頑張っているわけだ」

「年収100万円も仕方ない」ユニクロ柳井会長に聞く/朝日新聞DIGITAL 2013年04月23日

 それ(経営者としての仕事)ができないのであれば、当然ですけど、単純労働と同じような賃金になってしまう。

甘やかして、世界で勝てるのか ファーストリテイリング・柳井正会長が若手教育について語る/日経ビジネスONLINE 2013年4月15日

 二つ目のインタビューでは「『ブラック企業』という言葉は、これまでの旧態依然とした労働環境を守りたい人が作った言葉だと思っています」とも語っている。ユニクロの離職率は3年で5割、5年で8割を超える(ユニクロ 「離職率3年で5割、5年で8割超」の人材“排出”企業)。

 経営の才能はあるのだろうが人間としての魅力は全く感じられない。強欲な人間が差別を著しく助長する。使い切れないほどのおカネを持つ連中が更に稼ごうと人件費を抑制する。租税を回避するのは最高の節税対策となる。

 世界各国の金融緩和でジャブジャブになったマネーがマーケットに集まり、貧富の差を極限化している。今年から来年にかけて緩和マネーバブルも崩壊へ向かうことだろう。

 富める者を支えているのはネットカフェ難民やホームレスかもしれない。彼らの存在があればこそ低賃金労働は成り立つ。極度の貧困は国家を毀損(きそん)する。富の再分配ができないのであれば、国家というコミュニティは不要だろう。

マネーロンダリング入門―国際金融詐欺からテロ資金まで (幻冬舎新書)

2016-05-10

歌詞の乱れに歌を解く鍵がある/「ホームにて」中島みゆき


 中島みゆきの「ホームにて」を繰り返し聴いている。「わかれうた」のB面だったとは知らなかった。上島竜兵が号泣しながら歌い、有吉弘行が思わず声を詰まらせる曲でもある。

 どうも腑に落ちなくて歌詞を調べた。私はずっと「もうやる瀬ない」だと思い込んでいたのだが、実際は「燃やせない」だった。で、もっとびっくりしたのは帰郷の歌ではなかったことだ。これは実に複雑な歌詞である。

巨大ターミナル上野駅で駅長が自らホームにて呼びかけることはないと思います」との疑問が湧くのも当然だ。同じような質問が他にもある(駅長はなぜ街なかに叫ぶ?)。そこで不詳わたくしが解説を試みる。

 実は歌詞の乱れに歌を解く鍵がある。シングルが発売されたのは中島みゆきが25歳の時だ。

 先ほど紹介した二つ目の質問にある「乗れる人」という言葉は当初、北海道に多い「ら抜き言葉」かと思ったがそうではない。明らかにおかしな言葉である。この冒頭で早くも自分が「乗れない人」であることを示唆しているのだ。

「やさしい声の駅長」が「叫ぶ」のもおかしい。駅のアナウンスを主観で捉えた表現なのだろう。「振り向けば」――主人公はこの期に及んでも汽車に背を向けている。車内が明るいのは「灯り」のせいではない。家族の元に向かう人々の浮き立つような心境によるものだ。

「かざり荷物」とは田舎に帰れば必要ではないものだろう。

 変則的な歌詞で1番の後半が2番の前半となっている。「白い煙」で汽車が蒸気機関車を意味していることに気づく。北海道では国鉄を汽車と称する。Wikipediaの3番目に該当する。地方では珍しくないようだ(鉄道の呼称としての汽車・電車・列車)。

「ネオンライト」も正しくは「ネオンサイン」だろう。しかしながらライトに照らされた乗車券の存在感が伝わってくる。なぜ「燃やす」のか? なぜ千切って捨てないのか? まだ、くすぶっている思いがある。やり残した何かがある。それを成し遂げるまでは、やみ難い望郷の思いを「燃やし尽くす」必要があるのだ。ただ単に帰りたくても帰れない事情があるのではなく、「まだ帰らない」との覚悟を静かに歌っているのだ。だからこそ「乗れない」し、乗らなかったのだ。それでも尚、心はふるさとへ向かう。

 ふるさとには自分の居場所がある。都会には職場しかない。心を許せる友達もそう簡単には見つからない。そんな寄る辺ない孤独な青春の心情を歌い上げているのだ。

 最後に秀逸なレビューを紹介しておく。

「ホームにて」あれこれ (1): 今ゆくべき空へ
「ホームにて」あれこれ (2): 今ゆくべき空へ



あ・り・が・と・う

2016-05-06

島田彰夫、アルボムッレ・スマナサーラ、J・クリシュナムルティ、酒井與喜夫、山村武彦、他


 4冊挫折、6冊読了。

呼び覚まされる 霊性の震災学』金菱清〈かねびし・きよし〉(ゼミナール)編、東北学院大学 震災の記録プロジェクト(新曜社、2016年)/幽霊で話題を読んでいる一冊である。金菱ゼミ本はとにかく高い。学生に著作権料を支払っているのだろうか? それとも別の理由があるのか? ゼミの取り組みとしては評価できるが、読み物としては出来が悪い。金菱の理屈も巧みすぎて鼻につく。

密約 日米地位協定と米兵犯罪』吉田敏浩(毎日新聞社、2010年)/『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』で知った本。さほどイデオロギーの悪臭は放っていないが吉田も多分リベラル左翼だろう。新聞記事よりも固い文章で読むのに難儀。悪い本ではないと思う。

ブラッドランド ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実(上)』ティモシー・スナイダー:布施由紀子訳(筑摩書房、2015年)/凄絶なエピソードが次から次へと出てくる。大虐殺はドイツとソ連の間で起こった。これを著者はブラッドランド(流血地帯)と名づけた。ウクライナ、ベラルーシ、ポーランドである。ヒトラーとスターリンによって殺された人々の数はなんと1400万人に上るという。その殆どが餓死であった。親が子を喰い、子が親を喰う修羅場が日常の光景として現れる。エピソードはいずれも秀逸だが、歴史の描き方が平板に感じた。ハリソン・E・ソールズベリー著『攻防900日』を先に読むといい。

人はなぜ逃げおくれるのか 災害の心理学』広瀬弘忠(集英社新書、2004年)/二度目の挫折である。やや抽象度が低く、教科書的な記述が目立つ。

 54冊目『伝統食の復権 栄養素信仰の呪縛を解く』島田彰夫(東洋経済新報社、2000年/不知火書房、2011年)/面白かった。『「食べもの神話」の落とし穴 巷にはびこるフードファディズム』→『給食で死ぬ!! いじめ・非行・暴力が給食を変えたらなくなり、優秀校になった長野・真田町の奇跡!!』→本書の順番で読むといい。踏ん反り返っている栄養学の正体がよくわかる。びっくりしたのだが、ヨーグルトを与え続けたマウスは白内障になるという結果があるようだ。早速ヨーグルを断つ(笑)。島田は乳離れした後は一切の乳製品を摂るべきではないと主張する。白人以外は乳糖不耐症のため、乳糖を分解できず下痢をする。もっとわかりやすい事実は、日本人が牛乳を積極的に飲み始めたのは戦後のことであるが、骨粗しょう症が社会の表面に現れたのは最近のことである。牛乳を飲む人ほど骨折しやすいという逆転現象があり、これをカルシウム・パラドックスという。昔の日本人が食べていた玄米は分づき米であったという考察も鋭い。ご飯と味噌汁の量を増やし、おかずを減らすよう訴えている。

 55冊目『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ、日本テーラワーダ仏教協会出版広報部編(日本テーラワーダ仏教協会、2004年)/「パーリ仏典を読む」シリーズ。スマナサーラの講話を編んだ作品。中部経典21「ノコギリの喩え」(鋸経)の解説である。ノコギリで足を切られたとしても怒ってならない。それどころか慈悲の瞑想を行え、と。ブッダの教えに「目には目を歯には歯を」はない。我々の日常ではやられたらやり返すのが当然である。私の場合、倍返しも珍しくはない。ところがブッダの教えは「因果の連鎖」を断ち切るところに眼目があると思われる。因果とは時間である。人生は時間という束縛から逃れることはできないが、洞察(悟り)は一瞬の出来事である。不幸の根本的な原因は被害者意識にあるのだろう。「なぜ私がこんな目に遭うのか?」との疑いが人生を苛(さいな)む。人類の歴史において昂然と胸を張って死に相対した人々が確かに存在した。彼らこそは人類の模範であろう。死の恐怖を超越すれば、怒りの生命は吹き払われる。

 56冊目『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ:正田大観〈しょうだ・たいかん〉、吉田利子訳、大野純一監訳(コスモス・ライブラリー、2016年)/テーラワーダの学僧ワルポラ・ラーフラとの対話である。必ず『ブッダが説いたこと』を先に読んでおくこと。いやはやこれは凄かった。クリシュナムルティの問いかけには全く遠慮がない。ワルポラ・ラーフラは若い頃からクリシュナムルティの著作を読み続け、「あなたはブッダと同じことを話しておられる」と言う。すかさず「なぜ対比するのですか?」とクリシュナムルティが応じ、火花を散らせる。5日間にわたる座談を通してクリシュナムルティの四諦と十二縁起が説かれる。高度すぎる内容を恐れたためか、正田大観は80ページ余りの講話を付け加えた。これが結果的には功を奏している。大野純一の「監訳者あとがき」は蛇足で不要だ。「参考資料」もやや牽強付会な部分がある。クリシュナムルティ本は「解説」や「あとがき」という名の自己主張が多過ぎる。ワルポラ・ラーフラは身構え過ぎていて対話の妙味は薄い。だが内容は超弩級である。

 57冊目『カマキリは大雪を知っていた 大地からの“天気信号”を聴く』酒井與喜夫〈さかい・よきお〉(人間選書、2003年)/農山漁村文化協会という出版社。酒井は市井の研究者である。電気店を営みながら30年以上にわたってカマキリの卵嚢(らんのう)の位置と降雪の関係を調査してきた。この研究で工学博士の学位を取得。民間伝承を科学的に証明した格好だが、安藤喜一弘前大学名誉教授によって完全否定されている。学問の世界ではこうしたことがよくある。更なる研究で降雪量のメカニズムが解明されればよいと思う。読み物としては決して悪くない。

 58冊目『新・人は皆「自分だけは死なない」と思っている』山村武彦(宝島社、2015年/宝島社、2005年『人は皆「自分だけは死なない」と思っている 防災オンチの日本人』改訂版)/2005年に鳴らされたこの警鐘を真剣に受け取っていれば、東日本大震災の被害も随分と違っていたことだろう。今からでも決して遅くはない。全ての日本人が本書を開くべきだ。「多数派(集団)同調バイアス」と「正常性バイアス」によって我々は日常の延長線上から抜け出ることが難しい。災害という緊急時にあっても周囲の人々の動きに自分を合わせ、異常をも正常と錯誤してしまうのだ。危機的状況においては五感情報を超えた視点が必要となる。災害は常に進化している。過去のデータを鵜呑みにするのも極めて危険である。一家に一冊必携のこと。

2016-05-01

高野和明、福岡伸一、他


 4冊挫折、3冊読了。

わたし8歳、カカオ畑で働きつづけて。 児童労働者とよばれる2億1800万人の子どもたち』児童労働を考えるNGO=ACE、岩附由香、白木朋子、水寄僚子(合同出版、2007年)/素人の書いた文章。読むに堪えず。

「塩」をしっかり摂れば、病気は治る 病気の因を断つクスリ不要の治療法』石原結實〈いしはら・ゆうみ〉(経済界、2004年)/相変わらず支離滅裂な文章で一片の合理性もない。

死の家の記録』ドストエフスキー:望月哲男訳(光文社古典新訳文庫、2013年)/体力のある時に再チャレンジ。

まんが新ランチェスター戦略 1 新ランチェスター戦略とは』矢野新一、まんが:佐藤けんいち(ワコー、1995年)/漫画だと侮ることなかれ。オペレーションズ・リサーチを学ぼうと思ったのだが数式で挫ける。飛ばし読み。

 51冊目『動的平衡2 生命は自由になれるのか』福岡伸一(木楽舎、2011年)/相変わらず文章に綾(あや)がある。好みの分かれるところでもある。私は嫌いじゃない。ドーキンス批判が鋭い。福岡の科学エッセイにはまず外れがないと考えてよい。

 52、53冊目『ジェノサイド(上)』『ジェノサイド(下)』高野和明(角川書店、2011年/角川文庫、2013年)/一気読み。2日間で読了した。玉に瑕のある傑作。反日傾向が顕著で東京裁判史観に基づく歴史観の持ち主である。プロットが秀逸なだけに惜しまれる。翻訳しても十分に世界で通用するレベルの作品だ。映画化・アニメ化を待望する人々も多いことだろう。私と同じ所感を抱いた人はやはり多いようだ。取り敢えずは一切の情報を遮断して本書を開くことをお勧めしよう。ロバート・ラドラムやデイヴィッド・マレルに連なる系譜でありながらもそこにとどまっていない。途中から近未来SFに色彩を変える。本書は反日リトマス試験紙として有用である。これほどの知識がありながら、これほどの物語巧者でありながら、これほどの筆力を持ちながら、歴史認識を誤る――留保すべき点を留保せずに決めつけている――ことがあるのだから人間というものはわからない。小説にイデオロギーを持ち込むのは危険だ。

2016-04-27

仏教分裂の歴史/『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ


『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・仏教分裂の歴史

『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
ブッダの教えを学ぶ

 お釈迦さまの教えを忠実に守り実践する人々は、お釈迦さまの教えより優れた道はないと、自らの体験から確信しています。テーラワーダの長老方はただ一心に、お釈迦さまの教え、お釈迦さまの道を守ることを何より大切にし、ブッダの教えに自分の解釈を加えることは、いっさい拒否してきました。お釈迦さまが亡くなられた当時でも、そういう長老方の態度を「保守的だ」と批判する人々がいました。それらの人々は後にテーラワーダ仏教から離れ、大衆部と呼ばれる宗派をつくりました。その大衆部も、いくつもの分派ができ、お釈迦さまの入滅後200年くらい経つと18もの宗派に分裂しました。これらはまとめて部派仏教と呼ばれます。
 お釈迦さまの入滅後500年ほど経つと、部派仏教を批判する新しい動きが現れました。そして「我らこそ優れている」という意味を込めて、自分たちを大乗仏教と称し、部派仏教のことを小乗仏教と呼びました。日本でテーラワーダ仏教を小乗仏教と呼ぶ人々がいますが、インドの大乗仏教が小乗仏教と呼んでいたのはテーラワーダではありません。実際に小乗と呼ばれていた部派仏教は、現在ではひとつも残っていません。

【『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ(日本テーラワーダ仏教協会、2003年)】

 適当に書こうと思っていたのだが、昨夜検索し始めたところドツボにはまってしまった。ま、いつものことである。

 仏教分裂の歴史は根本分裂から始まる。ブッダの訃報を知った「スパッタダは、『悲しむことはない。ブッダが涅槃に入られたので、我々は苦しみから開放された。ブッダがおいでの時は、あれも駄目、これも良くないと禁止されるばかりだったが、これからは何でも自分の好きにできる。誰も禁止する人はいない』と発言した」(第一章 初めての結集 ブッダ入滅の四か月後、タンマの編纂をする)。この発言を問題視したマハーカッサパ(マハーカーシャーパ、大迦葉、摩訶迦葉)が仏典編纂(へんさん)を決意する。十大弟子のうち、モッガラーナ(目連、目犍連)は集団暴行で殺害され、サーリプッタ(シャーリプトラ、舎利佛)は病没していた。

 上記ページによれば第一結集(けつじゅう)はブッダ逝去から4ヶ月後とされている。この日にアーナンダ(阿難)は阿羅漢果を得た。これについては異論もある。

仏教夜話・25 仏弟子群像(12) マハーカッサパ(上)
仏教夜話・26 仏弟子群像(13) マハーカッサパ(中)
仏教夜話・27 仏弟子群像(14) マハーカッサパ(下)

 確かに結集に合わせて悟れるならば、もっと早く悟れよと言いたい気持ちになる。また最も近侍(きんじ)したアーナンダをブッダがどのように教導したのかという疑問も生じる。

 第一結集では記憶力の抜きん出たアーナンダがブッダの教えを唱え、参加した500人の出家全員が承認するまで続けられた。この時点でもまだテキスト化はされていない。

 第二結集が行われたのは仏滅後100年頃のことである。この直後に根本分裂という事件が起こる。通説によれば大衆部(だいしゅぶ)と上座部(じょうざぶ)の二つに分かれ、部派仏教の時代に入るとされる。これに分別説部を加えた三つに分派したという見方もある。Wikipediaでは分別説部は上座部に含まれるとしているが、スマナサーラ説は異なることに留意する必要がある。またWikipediaでは上座部上座部仏教が別項目となっている。

 問題を整理しよう。第二結集で分裂があった。理由については大衆部と上座部双方の言い分(五事・十事)がある。二つに分かれたとする説と三つに分かれたとする説とがある。

 次に各派呼称の問題がある。テーラーワーダを直訳すると「長老の教え」で長老派と呼んでも構わないと思われるが、上座部が意味するのも同じ内容だろう。上座(かみざ)に座っているのは長老に決まっている。

 2000年以上前の事実を確認する術(すべ)はない。昨夜あれこれ考えながら一つの結論に達した。スマナサーラ説を採用すれば、テーラワーダ(長老派)を初期仏教、大衆部と上座部を中期仏教、自称大乗を後期仏教とすれば呼称の問題は解決できる。更にインドでは根本分裂に至るが、初期仏教はスリランカ、ミャンマー、タイに伝わった(南伝)と考えれば整合性はとれる。

 もちろんテーラワーダ対する批判(例えば「枝末分裂 部派仏教」)もあるが、検証のしようがないため考えるだけ無駄だ。

 常識的に考えてもいかなる宗教であれ、教えを忠実に守ろうとする人々が存在する。それが行き過ぎると教条主義となり、やがて原理主義が生まれる。インド上座部は原理主義化した仏教と考えてよいのではあるまいか。そして教義をもって自分を飾る出家者が増えたのだろう。

 スマナサーラの指摘によれば中期仏教は滅んだことになる。

 余談となるが、根本分裂の理由は大衆部が五事を挙げ、上座部が十事を否定する。前者は夢精に関することで、後者は戒律の緩和(食事、金銀授受)である。つまりセックスと飯とカネを巡る問題だったのだ。ったく煩悩そのものだよ(笑)。ただし謂われがある。

293 かれらのうちで勇猛堅固であった最上のバラモンは、実に婬欲の交わりを夢に見ることさえもなかった。

【『ブッダのことば スッタニパータ』中村元〈なかむら・はじめ〉訳(岩波文庫、1984年/岩波ワイド文庫、1991年)】

 金銀授受については、ブッダが土地の寄進(祗園精舎)を認めたことから導かれたような気もする。

 彼は、大衆部の中には、仏陀や菩薩を超世間的な存在として考える理想的な考え方を持っていた学派もいた反面、人間化された菩薩の概念を主張し、Stupa崇拝と結合した献身的実践を低く評価する学派もあったことを指摘している。そして、後者は阿羅漢果よりは菩薩行を実践することを重要視した可能性を述べている。

PDF 根本分裂の原因に関する一考察:李慈郎(Lee, Ja-rang)1998年3月20日

 昨夜の検索情報で最も有益だったのがこれだ。文章がすっきりとせず要旨もわかりにくいのだが、重要なのは最後の指摘である。「阿羅漢果より菩薩行の重視」こそが大衆部から後期仏教の流れを決定づけたと考えてよさそうだ。

小乗 自己の煩悩を絶ち、解脱を得て、阿羅漢となる。
大乗 他者を済度する「利他」の修行(菩薩行)を経て、自らの悟りが達成できる。

IV.インド仏教史(インド宗派)

 初期仏教と後期仏教の違いもここにある。大乗が「大きな乗り物」を自称したのはヒンドゥー教から流入した信者が多かったためと推測できる。種々雑多な人々が混成する中から戒律緩和の流れが出てきたのだろう。一種のプラグマティズム化であったと私は考える。すなわち大乗とは仏教の社会化であり運動化であった。

158 先ず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことが無いであろう。

【『真理のことば(ダンマパダ)』中村元〈なかむら・はじめ〉訳(岩波文庫、1978年/ワイド版、1991年)】

 まず自分を正しくととのえ、ついで他人を教えなさい。
 そのようにする賢明な人は、
 煩わされて悩むことがない。(158)

【『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ(佼成出版社、2003年)】

 菩薩行とはボランティアでありサービスである。阿羅漢果を得る人がどんどんいなくなり、苦し紛れに編み出したのが化他行だったのではないか? 奉仕や福祉活動を通して一定の自己実現がかなえられる。

 答えは簡単だ。ダンマパダに明らかである。そもそもブッダは化他行で悟りを開いたわけではないのだ(←ここ重要)。思想の系譜を重んじるのであれば、それは学問レベルの哲学であり、文化といっても差し支えあるまい。

 尚、説一切有部(上座部)の「三世実有・法体恒有」に対する批判としては龍樹の『中論』が有名だが、何かを述べるほどの知識が私にはない。ただし、何となくではあるがダルマの捉え方が異なっているような印象を受ける。

【追記】角川文庫から『ブッダの「慈しみ」は愛を越える』が出ているが、値段がそれほど変わらない上、日本テーラワーダ仏教協会版にはCDが付いているのでお得。

慈経―ブッダの「慈しみ」は愛を越える (「パーリ仏典を読む」シリーズ (Vol.1))ブッダの「慈しみ」は愛を超える (角川文庫)

「慈悲の瞑想」アルボムッレ・スマナサーラ
アルボムッレ・スマナサーラの朗唱
慈経