2016-06-11
マイケル・クローネン著『キッチン日記 J・クリシュナムルティとの1001回のランチ』新装・新訳版
キッチンで料理を提供し、デイヴィッド・ボームなどの会食者たちと歓談するかたわらで綴られた、精緻にして長大なクリシュナムルティ随聞記。
インドでは、古来食べ物はブラフマン(意識)だと言われてきた。『キッチン日記』は、当代の最も偉大な賢者の一人の意識の中で揺れ動いている気分ならびに精神の微妙な陰影への洞察をあなたに与えてくれる。一連のランチメニューに順次目を通しながら本文を読み進めていくうちに、あなたは、多くの人々に影響を与えてきたこの偉大な存在のパーソナリティの中にある複雑さ、単純さ、そしてユーモアを体験するであろう。
──ディーパック・チョプラ(『富と成功をもたらす7つの法則』の著者)
マイケル・クローネンの『キッチン日記』は、クリシュナムルティと彼の客たちにシェフとして菜食料理を提供した著者による、一九七五年から一九八六年までの出来事の優れた記録である。この伝記的ポートレートは、クリシュナムルティを聖人扱いしようとする様々な企てへのタイムリーな矯味薬である。ランチ中の打ち解けた会話からの記述と引用は、読んで楽しいだけでなく、真剣に考察するに値する。クリシュナムルティの教えのエッセンスの多くが、本書全体にちりばめられている。メニューが添えられている菜食料理を想像しながら、会食者たちと共に間接的に味わう人は誰であれ、それに満喫させられるだけでなく、スピリチュアルな滋養も与えられることだろう。
──アラン・W・アンダーソン(サンディエゴ大学宗教学部名誉教授)
クリシュナムルティの最も深い理解者の一人による、手作りの菜食料理とジョークによって趣を添えられた、機智に富んだ回顧録。
・一読者からクリシュナムルティの料理人となった青年/『キッチン日記 J.クリシュナムルティとの1001回のランチ』マイケル・クローネン
2016-06-10
ものごとが見えれば信仰はなくなる/『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『仏陀の真意』企志尚峰
・『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール:今枝由郎訳
・『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
・『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元
・『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
・『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
・『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
・『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
・『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
・『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
・『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
・『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
・『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
・『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
・ものごとが見えれば信仰はなくなる
・筏(いかだ)の喩え
・ドゥッカ(苦)とは
・『無(最高の状態)』鈴木祐
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
・クリシュナムルティ、瞑想を語る
・ブッダの教えを学ぶ
ブッダを、一般的意味での「宗教の開祖」と呼ぶことができるとすれば、彼は「自分は単なる人間以上の者である」と主張しなかった唯一の開祖である。他の開祖たちは、神あるいはその化身、さもなければ神からの啓示を受けた存在である〔か、そうであると主張している〕。ブッダは、一人の人間であったばかりではなく、神あるいは人間以外の力からの啓示を受けたとは主張しなかった。彼は、自らが理解し、到達し、達成したものはすべて、人間の努力と知性によるものであると主張した。人間は、そして人間だけが、ブッダ「目覚めた人」になれる。人間は誰でも、決意と努力しだいでブッダになる可能性を秘めている。
【『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ:今枝由郎〈いまえだ・よしろう〉訳(岩波文庫、2016年/原書1959年)以下同】
ワールポラ・ラーフラはテーラワーダ仏教の僧侶でセイロン大学に進み哲学博士号を取得。マハーヤーナ(いわゆる大乗)仏教の研究にも着手する。1950年代後半、パリ大学に留学。そこで著されたのが本書である。原書は英語で1959年刊。仏教研究の泰斗であるオックスフォード大学のR・F・ゴンブリッジ教授が「現時点で入手できる最良の仏教書」と評価する。訳者解説に神智学協会が出てきて驚いた。
人間を超えた存在を「神」という。後期仏教(いわゆる大乗)は大日如来や久遠本仏というブッダを超える存在(法身仏〈ほっしんぶつ〉)を設定した。この瞬間にブッダから遠ざかったと見てよい。想像力は像(イメージ)を求めて飛び立つ。出来上がった偶像(アイドル)は巨大な存在となる。その大きさが示すものは自分という存在の卑小さである。仏という名の人格神を創造することで日本仏教は一神教に変質した。
ほとんどすべての宗教は、信仰――それもむしろ盲信といえるもの――に立脚している。しかし仏教で強調されているのは、「見ること」、知ること、理解することであり、信心あるいは信仰ではない。仏教経典には、一般に「信仰」あるいは「信心」と訳されるサッダー(サンスクリット語ではシュラッダー)という用語がある。しかしサッダーはいわゆる「信心」ではなく、むしろ確信から生まれる「信頼」というべきものである。とはいえ実際には、民衆レベルでの仏教でもまた仏典中の一般的用法でも、サッダーということばは、ブッダ、ダルマそしてサンガに対する一般的な意味での「信仰」的要素を含んでいることは事実として認めねばならない。
びっくりした。見ること、知ること、理解することを説いてきたのはクリシュナムルティである。確かに「一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜しまず」(法華経)などの経文はあるが、如実知見(にょじつちけん)を強調するような文言はあまり記憶にない。ただし八正道は全て正見に納まり、四法印は正見から導かれるので、「見る」という前提があるのは確かだ。
信仰は、ものごとが見えていない――「見える」ということばのすべての意味において――場合に生じるものである。ものごとが見えた瞬間、信仰はなくなる。もし私が「私は掌の中に宝石を隠しもっている」と言ったら、あなたはそれが見えない以上、私が言ったことが本当かどうか、私のことばを信じるかどうか、という問題が生じる。しかし、私が掌を開き宝石を見せれば、あなたはそれを自分で見ることになり、信じるかどうかという問題は起こらない。それゆえに、古い経典には、こう記してある。
「掌の中の宝石(あるいはミロバラン〔訶梨勒〈かりろく〉の果実〕)を見るように、真実を見よ」
ブッダの弟子でムシーラという者が、一人の僧に言った。
「友サヴィッタよ、信仰、確信あるいは信心からではなく、気乗りあるいは好みからではなく、評判あるいは伝統からではなく、表面的な理由からではなく、もろもろの意見を検討する喜びからではなく、私はものごとの生成の消滅がニルヴァーナであると知っており、それが見えている」
そしてブッダはこう言った。
「汚れと不純さの消滅は、ものごとを知り、ものごとが見える人にとってのみ可能なことであり、ものごとを知らず、ものごとが見えない人には不可能である」
常に問題なのは、知ることと見ることであり、信じることではない。ブッダの教えは、「エーヒ・パッシカ」、すなわち「来て、見るように」という誘いであり、「来て、信じるように」ということではない。
マジっすか? というわけで『スッタニパータ』の第四章「八つの詩句の章」(中村元訳)を参照してみよう。
「七七七 (何ものかを)わがものであると執着して動揺している人々を見よ」
「七七九 想いを知りつくして、激流を渡れ」
「七九二 智慧ゆたかな人は、ヴェーダ(※実践的な認識)によって知り、真理を理解して」
「七九五 かれが何ものかを知りあるいは見ても、執着することがない」
「八〇六 われに従う人は、賢明にこの理(ことわり)を知って」
「八〇九 諸々の聖者は、所有を捨てて行なって安穏(あんのん)を見たのである」
「八一七 このことわりを見たならば、淫欲の交わりを断つことを学べ」
「八二一 聖者はこの世で前後にこの災いのあることを知り」
「八三〇 このことわりを見て、論争してはならない」
「八三七 諸々の事物に対する執着を執着であると確かに知って、諸々の偏見における(過誤を)見て、固執することなく、省察しつつ内心の安らぎをわたくしは見た」
「八四八「どのように見、どのような戒律をたもつ人が『安らかである』と言われるのか?」」
「八八四 真理は一つであって、第二のものは存在しない。その(真理)を知った人は、争うことがない」
「八九六 汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、論争をしてはならない」
「九〇九 見る人は名称と形態とを見る」
「九一一 バラモンは正しく知って、妄想分別におもむかない」
「九一七 内的にでも外的にでも、いかなることがらをも知りぬけ」
「九三七 わたくしは自分のよるべき住所を求めたのであるが、すでに(死や苦しみなどに)とりつかれていないところを見つけなかった」
「九三八 (生きとし生けるものは)終極においては違逆(※老い)に会うのを見て」
「九五六 眼ある人(ブッダ)は」
「九七一 適当な時に食物と衣服とを得て、ここで(少量に)満足するために、(衣食の)量を知れ」
確かに本当だ。疑問の余地はない。第四章はブッダの肉声に最も近い内容(最古層)である。バラモン教(古代ヒンドゥー教)を信じる世界でブッダは「見ること、知ること、理解すること」を説いた。そして生まれが支配するカースト社会で努力の道を開いた。
信じる者は無知にとどまっている。迷いという蒙(くら)さが信じるという飛躍に結びつくのだ。確かなものを求めて何かを信じれば信じるほど自分自身の不確実性が増してゆく。「溺れる者は藁(わら)をも掴(つか)む」という事実はあるに違いない。しかし命からがら助かった後で「藁」をありがたがる人はいるまい。そこで求められるのは溺れた原因であり、溺れるような場所に近づかないことと、溺れることを避けるための水泳技術や救命道具(浮き輪・ライフジャケットなど)を準備することだろう。
ブッダが信仰を説かなかったことを私が一言で示そう。信仰があれば諸法無我を理解できない。以上である。ま、簡単な話だ。信じる行為は如何なる対象であれ自我を強化する。
最後にわかりにくいと思われるのでニルヴァーナ(涅槃〈ねはん〉)について述べる。涅槃とは煩悩の火が消えた状態を意味する。「漢訳では、滅、滅度、寂滅、寂静、不生不滅などと訳した」(Wikipedia)。クリシュナムルティが説く静謐(せいひつ)と同じだ。
上記テキストでは「ものごとの生成の消滅」と「汚れと不純さの消滅」とが対応しているようには見えないが、煩悩・渇愛・執着というキーワードを補えばストンと腑に落ちる。現代の大衆消費社会では欲望を煽り、煩悩の火がより大きくなることに消費者は満足を覚える。煩悩まみれの社会では欲望を満たすことが我々にとっての幸福である。もっと大きな家・もっと高級なクルマ・もっと高い地位・もっと多くのマネーを我々は求める。その結果、国家は必ず戦争を目指す。一人ひとりの消費という欲望を満たすために他国の資源を奪いにゆくのだ。戦争の目的は殺すことだ。兵士は自ずと残虐を競うようになる。
企業と企業の間で行われるのも小さな戦争であり、個人と個人の間でも戦争が繰り広げられる。受験もまた戦争であり、就職も戦争だ。更にいじめ・貧困という名の戦争もある。我々は戦いに勝つことが得点につながるゲームをしているのだ。勝者の得点を見てみよう。ビル・ゲイツの資産は9兆5040億円である(米誌『フォーブス』2015年)。日本人だと柳井正(ファーストリテイリング)が2兆5320億円、孫正義(ソフトバンク)が1兆6680億円、佐治信忠(サントリー)が1兆3080億円、三木谷浩史(楽天)が1兆2600億円となっている。因みにイチローの絶頂期の年俸が約18億円である。
その一方に極度の貧困に喘ぐ人々がいる。老々介護が行き詰まり肉親や兄弟に手を掛ける人々がおり、修学旅行や給食の費用を支払うために売春を行う女子中高生がおり、「保育園落ちた日本死ね!」と匿名で書き連ねる若い主婦がいる。借金の肩代わりに福島の原発で働く人々がおり、ブラック企業と知りながらやめるにやめられない若者がおり、ワーキングプアは2008年以降、1000万人を突破し(劣化している雇用と格差拡大)、生活意識別世帯数の構成割合をみると、「苦しい」(「大変苦しい」と「やや苦しい」)との答えが増加している(生活意識の状況)。
生活保護の支給総額は3.8兆円強(2012年)で155万2000世帯が受給している(2012年)。ほぼ孫正義と三木谷浩史の資産を合わせた額だ。155万2000世帯が最低限の生活を営むことのできる金額を二人が持っているのだ。どう考えてもおかしい。
「私ならそんなにいらない」と思う人が大半だろう。でも実際は違う。彼らは私なのだ。同じ立場になれば必ず同じことをする。チンパンジーですら利益の分配を行う(『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール)。集団(コミュニティ)が進化に有利であるならば、集団を維持することが優先されるからだ。役所の窓口で役人が生活保護を渋るようになれば、もはや国家は信用対象ではなくなる。貧困は死へと直結する。今後、予想されるのは大量死(メガデス)社会だ。
誰かの利益は誰かの損失である。これが経済の本質だ。消費にまつわる損失を目立たなくさせるために広告会社が存在するのだ。そして広告主がメディアを支配する。広告宣伝費は経費として計上できるので規模が大きい企業ほど有利になる。
『ある中学生の死』読売新聞大阪社会部(潮出版社、1978年/角川文庫、1984年)に「パンの耳」という話がある。大阪府寝屋川市の主婦(29歳)がパンの耳で辛うじて命をつなぎながらも衰弱死してしまう。私が読んだのは30年以上前だが「きょうも食べるものがなく、10円でパンの耳を買ってくる」という日記の一文はいまだに忘れることができない。ところがどうだ、昨今は餓死など珍しくない。「2011年、『食糧の不足』で亡くなったのは45人。『栄養失調』で亡くなったのは1701人。合わせて1746人が飢えて死んでいるのだ。1日あたり、5人が亡くなっていることになる」(「1日5人が餓死で亡くなるこの国」雨宮処凛)。
欲望が満たされることはない。煩悩の焔(ほのお)はいや増して燃え盛り我が身と社会を焼き尽くす。幸福だと思っていた状態が手に入ると、直ぐに別の形の不幸が生まれる。どのような人生であれ四苦八苦を免れることはできない。苦の原因は煩悩にある。ゆえに苦を滅するためには煩悩の火を消すことが求められる。これはまさしく逆転の発想である。「幸福になりたいのであれば、幸福を目指すな」という論法だ。
欲望が減るにつれて生命空間は広がる。煩悩の火を吹き消せば自我も消える。世界と私の間に差異はなくなる(諸法無我)。これがブッダとクリシュナムルティの説いたことである。
2016-06-08
たとえノコギリで手足を切断されようとも怒ってはならない/『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
・『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
・『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元
・『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
・『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
・『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
・『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
・『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
・『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
・『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
・『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
・たとえノコギリで手足を切断されようとも怒ってはならない
・『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
・『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
・ブッダの教えを学ぶ
本書で取り上げる『ノコギリのたとえ』というお経は『鋸喩経』とも訳される中部経典のお経ですが、読んでみるとその豊かな物語性とともに、私たちの心に直接訴えかけてくる迫力に驚かされます。
【『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ、日本テーラワーダ仏教協会出版広報部編(日本テーラワーダ仏教協会、2004年)以下同】
で、長部と中部の違いについては以下の通り。
長部経典は、哲学的なものもありますが、ほとんどは仏教の一般的な教えです。それに対して中部経典は、哲学的なところを、きめ細かく、項目を厳密に、論理的に話しているお経が集めてあります。
最初に巻末の経典テキストを読むのがいいだろう。
「比丘たちよ、また、もし、凶悪な盗賊たちが、両側に柄のあるノコギリで手足を切断しようとします。その時でさえも、心を汚す者であるならば、彼は、私の教えの実践者ではありません。
比丘たちよ、そこでまた、まさにこのように、戒めねばなりません。すなわち、――私たちの心は、決して、動揺しないのだ。また、悪しき言葉を、私たちは発さないのだ。また、こころ優しい者として、慈しみの心の者として、怒りのない者として、私たちは生きるのだ――と。また、その人とその対象に対しても、すべての生命に対しても、増大した、超越した、無量の、怨恨のない無害な慈しみの心で接して生きていきます――と。比丘たちよ、まさしくこのように、あなたたちは戒めねばなりません。
比丘たちよ、そして、あなたたちは、この、ノコギリのたとえの教戒を、つねに思い出すのであれば、比丘たちよ、あなたたちは、耐え忍ぶことのできない、微細もしくは粗大な、言葉を見出だせますか」
「尊師、見出せません」
「比丘たちよ、それ故に、この、ノコギリのたとえの教戒を、つねに思い出しなさい。それは、長きにわたり、あなたたちの利益のため、安楽のためになるでしょう」と。
ノコギリの歴史は古く紀元前1500年前からあった(エジプト)という。ブッダが喩(たと)えたのは暴力的な極限状況だ。どのような目に遭っても慈しみを持ち、怒りを捨て、恨みから離れなければならない。
「怒りの毒」はかくも恐ろしいのだ。「たとえノコギリで手足を切断されようとも怒ってはならない」との一言は単なる教訓ではない。「絶対に怒らない」という覚悟が問われるのだ。
弟子の中には私のようにブッダの言葉を軽く考える者もいたに違いない。「なるべく怒らないようにしよう」「少しずつ怒りを克服しよう」などと。だがこの経典を読むと意識が一変する。一瞬でも怒りに汚染されてしまえば自らが不幸になるのだ。
感情は関係性から生まれる。「私を怒らせたあんたが悪い」というのが我々の言い分だ。つまり「私は悪くない」。私は正しい。だから私は恨みを抱いて仕返しをする。私は罵る。私は殴る。そして私はノコギリであんたの手足を切断する。
生きることは苦である(四諦の苦諦、四法印の一切皆苦)。苦の原語(パーリ語)「dukkha」(ドゥッカ)には空しいという意味もある。脳は意味(≒物語)を求める。所詮、何をどうしたところで無意味であることを思えば、人生はやはり苦であろう。苦と苦との束(つか)の間に楽を求めてさまよう人生に過ぎない。
輪廻(りんね)の本質も苦である。ブッダは菩提樹の下で悟った後にそれを十二支縁起(十二因縁)として確認した。要するに輪廻して苦しみ続ける主体(自我)のメカニズムが解き明かされたのだ。
ま、あまり勉強していないのでここからは適当に書いておく。まず「無明(むみょう)に縁りて行(ぎょう)が起こる」。行の原語はサンカーラ(パーリ語)・サンスカーラ(サンスクリット語)である。行は行為・業(ごう)のこと。無明は「迷い」とされるが、私はむしろ「錯誤」と考える。すなわち我々は世界をありのままに正しく認識することができない。これが無明である。十二支縁起は苦という反応を瞬間に即して解いたものだろう。行は志向性や潜在的形成力などという小難しい言葉で説明されるが、「反応の発動・起動」である。無明を無意識、行を意識としてもいいように思う。意識した瞬間にカルマ(業)が定まるのだ。
簡単に述べよう。無明によって怒り(感情)が湧く。無明を滅すれば怒りは湧かない。無明を滅し涅槃に達した人はノコギリで手足を切られても怒らない。だからノコギリで手足を切られても怒らないほどの自分自身を築け。きっとそういことなのだろう。怒りという猛毒の恐ろしさが伝わってくるではないか。
日蓮の遺文(いぶん)に似た文章がある。
縦(たと)ひ頚(くび)をば鋸(のこぎり)にて引き切りどうをばひしほこを以てつつき足にはほだしを打ってきりを以てもむとも、命のかよはんほどは南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経と唱えて唱へ死に死(しぬ)るならば釈迦多宝十方の諸仏霊山会上にして御契約なれば須臾(しゅゆ)の程に飛び来りて手をとり肩に引懸けて霊山へはしり給はば二聖二天十羅刹女は受持の者を擁護し諸天善神は天蓋を指し旛(はた)を上げて我等を守護して慥(たし)かに寂光の宝刹へ送り給うべきなり、あらうれしやあらうれしや。(日蓮『如説修行抄』:真蹟はないが日尊による写本がある)
手紙の末尾には「此の書御身を離さず常に御覧有る可く候」と添えてある。より一層の残虐性が加えられ、しかも南無妙法蓮華経という題目を唱えよという信仰の次元に内容が変質している。換骨奪胎というよりは改竄というべきか。日蓮は「当(まさ)に知るべし瞋恚(しんに)は善悪に通ずる者なり」(「諌暁八幡抄」真蹟曽存)と怒りを容認していた。政治にコミットしたのも日蓮の怒りの為せる業(わざ)であった。日蓮系教団が分裂に分裂を繰り返してきたのも頷ける話である。
ノコギリの喩えを思えば、それ以外のことはいくらでも我慢のしようがある。小さないざこざから小さな怒りが生まれ、社会の中で怒りは支流となり、やがて大きな流れを形成する。原発反対デモもナショナリズムも同じ顔をしているのは怒りが原動力となっているためだ。私は生来、物凄く短気なのだが、今日からは頭に来ることがあったら「ノコギリ! ノコギリ! ノコギリ!」と心の中で三度唱えようと思う。
怒りの無条件降伏―中部教典『ノコギリのたとえ』を読む (「パーリ仏典を読む」シリーズ)
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・鋸の復原を通して古代人と対話/『森浩一対談集 古代技術の復権 技術から見た古代人の生活と知恵』森浩一
2016-06-07
「スッタ」とは「式」(フォーミュラ)/『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
・『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
・『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元
・『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
・『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
・『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
・『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
・『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
・「スッタ」とは「式」(フォーミュラ)
・『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
・『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
・『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
・『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
・『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
・ブッダの教えを学ぶ
『スッタ・ニパータ』は、初期経典が結集(けつじゅう)される前、サーリプッタ尊者など偉大なる阿羅漢(あらかん)たちが活躍されていたときから知られていた経典です。もちろん、きちんと編集されたのはブッダが般涅槃(はつねはん)に入られてからですが、ブッダが直々に説法をなさっていた頃から伝えられている詩集なのです。そのゆえに、古い経典として大変重んじられています。
スッタ(sutta)は「糸」という意味ですが、それよりも英語のフォーミュラ(formula)という言葉の意味のほうがふさわしいかもしれません。フォーミュラは数学でいえば「式」という意味です。哲学や文法を語る場合も、まず「式」を作ってから語ることは、インドではよくあるやり方なのです。
【『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ(佼成出版社、2009年)以下同】
小部の『スッタ・ニパータ』は最古層の経典として知られる。中でも第4章が最古と目され、ブッダの直説(じきせつ)と見なされている(PDF「最古層の経典の変遷 スッタニパータからサムユッタニカーヤへ」石手寺 加藤俊生)。
サーリプッタ(舎利弗)は十大弟子の筆頭で智慧第一と称された人物でブッダよりも年上だった。二大弟子の一人モッガラーナ(目連)と共にブッダよりも先に逝去した。小部にはサーリプッタの註釈とされる『義釈』が収められている。
「縦糸」の義から「スッタ」を「経」と訳す。
漢字物語(152)「経」 織機にかけ渡した縦糸 : 47スクール - 47NEWS(よんななニュース) https://t.co/zZctRvgmAG pic.twitter.com/tzobuh13dD
— 小野不一 (@fuitsuono) 2016年6月6日
「式」との表現が絶妙だ。「スッタ」の一語が仏教の公式を宣言しているのだ。小部十八経の中で他に「スッタ」は見当たらない。
体に入った蛇の毒をすぐに薬で消すように、
生まれた怒りを速やかに制する修行者は、
蛇が脱皮するように、
この世とかの世をともに捨て去る。
この「蛇」の経典では、ずっと蛇の脱皮を譬(たと)えに使っています。蛇という単語には、「毒」という意味も入ってきますが、蛇の特色といえば「脱皮」という生態です。蛇はデパートに行って服など買わなくとも、古くなったら捨てればいいのです。だから他の動物と比べると、蛇はいつでも体がきれいです。あれほど体がきれいな動物は他にいないと思います。他の動物は臭くて、体が汚くて、ノミやらいっぱいいて大変でしょう。蛇の皮膚はビニール製のようなものですから、体には虫も何も付いていません。蛇の皮が古くなると色が変わってきます。すると、蛇は皮ごと全部捨ててしまう。細い枝の間などに体を入れて進むと、古い皮だけが引っかかり、脱皮してきれいになった蛇だけが出て行ってしまうのです。
革命というよりは変容が相応(ふさわ)しい。「この世とかの世をともに捨て去る」とは、此岸(しがん)にも彼岸(ひがん)にも執着しない中道の姿勢である。ただし「この世もあの世も捨てろ」とは言っていない。生きることは死ぬことである。我々は死ぬために生きている。生命とは死ぬ存在だ。そう達観できれば、この世とあの世の虚妄(きょもう)が見抜ける。脱皮とは虚妄の皮を捨てることだ。欲望の充足こそ幸福だと錯覚する感覚から抜け出ることだ。諸行無常である。不幸も幸福も長く続かない。不幸な時に幸福を願い、幸福な時に不幸を恐れるのが人の常であろう。人生は瞬間の連続であるが、こうした生き方は瞬間が疎(おろそ)かとなってゆく。
今さえよければ後はどうなっても構わない(この世)という生き方も、将来のために現在を犠牲にする生き方(あの世)も誤っている。
・努力と理想の否定/『自由とは何か』J・クリシュナムルティ
怒りは「我」(が)から生まれる。「よくも俺を馬鹿にしたな!」というのが怒りの正体だ。「自分は凄い」と思っているから頭に来るのだ。「私は愚かだ、馬鹿だ」と自覚すれば怒ることもない。我々は自分が平均以上であると思い込むからダメなのだ。思い切って今後はブッダやアインシュタインと比較しようではないか。確かに馬鹿です。100%馬鹿(笑)。
人間が一般的に、自分には色々なトラブルがある、問題がある、と思ったら、それは99%が怒りによるものなのです。金銭トラブル、社会関係のトラブル、精神的なトラブル、そういったトラブルは、ほとんど「怒り」が原因になっています。
何ということか。怒(おこ)らなければ幸せになれる――ただそれだけのことだったとは。まずは怒らないこと。次に怒りっぽい人から遠ざかること。そして怒りを喚起する映画や小説に触れないことである。最後のやつはスマナサーラからの受け売りだ。
ルワンダ、パレスチナ、インディアンといった歴史の悲劇を思うと私の五体は怒りに打ち震える。全神経を殺意が駆け巡り、血が逆流する。私の願いは虐(しいた)げた側の連中を皆殺しにすることだ。それが実現すれば平和になるだろうか? 悲劇を防ぐための殺人は正当化し得るだろうか? どんな理由をつけようとも「殺した」という事実は残る。暴力の結果は次の暴力の原因となり連鎖は果てしなく繰り返されることだろう。
諸法無我が真理であれば「私」はない。ただ現象だけがある。「私」という中心から感情が生まれ、物語が形成される。「この世」「あの世」という物語が。
2016-06-05
非難されない人間はいない/『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
・『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元
・『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
・非難されない人間はいない
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
・『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
・『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
・『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
・『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
・『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
・『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
・『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
・『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
・『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
・ブッダの教えを学ぶ
アトゥラよ、これは昔からのことだ。
きょうだけのことではない。
人は黙っている者を非難し、多くを語る者も非難する。
節度をもって語る者さえ非難する。
この世において、非難されずにいた者は、
どこにもいない。(ニニ七)
【『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ(佼成出版社、2005年)以下同】
単純に言えば、この偈の要点は「ばかは相手にするなよ」ということなのです。
非難する人の話というのは、まじめに研究して調べて、客観的に判断して話しているものではありません。ただ何かを話しているだけなのです。話さずにはいられない病気にかかっているのです。だから、それほど気にすることはありません。「この世の中で非難されない人間はいません」と理解すれば、どこから言葉の矢を撃たれても平気です。
ネット上で人物判断を誤らない作法としては、文章の巧拙よりも感情の巧拙を問うべきだと思う。ひがみ、歪(ゆが)み、いじけ、妬み、羨望といった劣情や嫌悪を見抜き、近寄らないことが一つのリテラシーとなる。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2016年5月19日
インターネットは有象無象の劣情に満ちている。普段はおとなしく、上司に向かって意見すらできないような連中が、殺伐とした書き込みを繰り返す。激越な調子で攻撃を加える引きこもりや、理詰めで他人の足を引っ張るキモオタが各所にいる。溜まりに溜まったストレスや行き場のない不平不満の矛先を虎視眈々と狙う。コメント欄の炎上に油を注ぎ、祭りと称して誹謗中傷することに生き甲斐を感じるような手合いがいるのだ。そして彼らは変わらぬ日常に引き戻される。
現代のもっとも大きな詐欺の一つは、ごく平凡な人に何か言うべきことがあると信じさせたことである。(ヴォランスキー)
【『世界毒舌大辞典』ジェローム・デュアメル:吉田城〈よしだ・じょう〉訳(大修館書店、1988年)】
テレビコメントの受け売りを、さも一家言(いっかげん)であるかのように語る人々は多い。ヴォランスキーがいうところの「現代」とはメディア(書物・新聞・ラジオ・テレビ)後の時代を指すのだろう。
なかんずく特定のイデオロギーを支持する人々や宗教に生きる人々は世界を敵と味方に分けて考える傾向が強い。非難中傷は彼らの十八番である。そのための理論武装までしている。
ブッダもソクラテスも孔子もテキストを残さなかったのには理由がある(イエスは実在したかどうか疑問)。書かれた言葉は死んだ言葉である。豊かな音や響きを失って無味乾燥な活字となる。枢軸時代の柱ともいうべき彼らが対話を重んじたのは非難や反論を受け入れることのできる開かれた精神の持ち主であったからだろう。多くの人々が納得したのは言葉だけではなかった。目の輝きや立ち居振る舞いに自ずと現れる何かが心をつかみ激しく揺さぶったに違いない。
バッシングとは叩くの意である。誰かを袋叩きにする時、一人ひとりの罪の意識は低い。その低い意識が社会に暴力を蔓延させる温床となる。
ゴシップ誌の類いを好む連中がいることを思えば、少々の非難は恐れるに足らない。「自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人と雖(いえど)も、吾往かん」(孟子)。ま、相手が百人くらいのキモオタだったら俺は往くよ(笑)。
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