・『石に話すことを教える』アニー・ディラード
・過去を一掃する
あなたの手の内で、そしてきらめきの中で、書きものはあなたの考えを表現するものから認識論的なものに変わっていく。新しい領域にあなたは興奮する。そこは不透明だ。あなたは耳を澄ませ、注意を集中させる。あなたは謙虚に、あらゆる方向に気を配りながら言葉を一つ一つ注意深く書いていく。それまでに書いたものが脆弱で、いい加減なものに見えてくる。過程(プロセス)に意味はない。跡を消すがいい。道そのものは作品ではない。あなたがたどってきた道には早や草が生え、鳥たちがくずを食べてしまっていればいいのだが。全部捨てればいい、振り返ってはいけない。
【『本を書く』アニー・ディラード:柳沢由実子〈やなぎさわ・ゆみこ〉訳(パピルス、1996年)】
年が明けた。数えであれば今日、私は54歳となる。満年齢の使用は1950年(昭和25年)以降である。存在している者に対して「0歳児」とはいかにもおかしな呼称で、数え年の方が人に優しい気がする。
同じ文章であっても「書く」ことと「打つ」ことは違う。「書く」ことには豊かな身体性がある。「打つ」という単調な運動は文章を神経症的な性質に貶(おとし)める危険が伴う。作家がワープロを使うようになってからワンセンテンスが長くなったという指摘がある。単調が冗長を促すのだろう。
齢(よわい)を重ね、過去が長くなると慣性や惰性の力が働く。ところが知らず知らずのうちに体も心も衰えている。今までやってきたことを踏襲しているつもりでありながらも、実はどんどん閉鎖的な姿勢や態度となりがちだ。疑わなければ新しいものは出てこない。
過去を重んじるな。足跡を残すのは泥棒に任せよ。捨てれば捨てるほど身は軽くなる。本当に大切なものは捨てようとしても捨てることができない。
変わらぬ世界にあって変えることができるのは認識である。世界は変わらなくとも世界観を変えることは可能だ。そのためには過去を一掃する必要がある。プライドも誇りも不要だ。ただ柔らかな精神とありのままを見つめる瞳を持てば十分だ。