2017-08-20

正しい質問/『真理の種子 クリシュナムルティ対話集 Truth And Actuality』


『クリシュナムルティの日記』J・クリシュナムルティ

 ・正しい質問

『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 1』J・クリシュナムルティ

ジドゥ・クリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti)著作リスト 1

 今朝はこれから、これまで話してきたことについて、質疑応答を通じて一緒に話を進めたらどうでしょうか? ただし、皆さんは、私に、話し手に質問しているだけではいけません。我々は、我々自身に質問しているのであって、我々皆がその問題を分かち合えるようでなければならないのです、(ママ)なぜなら、皆さんの問題は、他のあらゆる人間の問題だからです。この点を特に声を大にして申し上げておきます。皆さんの問題は世界の問題であり、皆さんが世界なのです。私は、皆さんがこのことを了解しておられないように思うのです。皆さんが、実は世界なのです。その最も深い本質において――皆さんの様子、服装、名前、姿や形は違うかもしれませんが――しかし、根底において、本質的には、あなたが世界なのであり、あなたが世界を造ってきたのです。そして、世界はあなたなのです。ですから、もし質問なさるとすれば、あなた方は、人類全体のために質問しておられるのです。お分かりでしょうか? それは質問してはいけない、という意味ではなく、まさにその逆です。そうすれば、質問するということがおざなりな質問と答えに終わらず、また明日になれば忘れてしまうような、その場限りの質問でもなく、非常に真剣な事柄になるからです。ですから、質問なさる場合には、真に人間的な問題について質問なさるようにしてください。

【『真理の種子 クリシュナムルティ対話集 Truth And Actuality』大野純一、五十嵐美克〈いがらし・よしかつ〉、武田威一郎〈たけだ・いいちろう〉訳(めるくまーる、1984年)】

「第一部 デヴィッド・ボーム博士との対話、第二部 講演と対話、第三部 質疑応答」という構成。問う姿勢に人生観が表れる。仏教でも「説会(せつえ)の四衆(ししゅ)」において仏の説法を助ける影響衆(ようごうしゅ)よりも、仏に質問をする発起衆(ほっきしゅ)の方が功徳がまさると教える。

 クリシュナムルティは幾度となく「正しい質問」のあり方を説いている。折角なので紹介しよう。

 おたずねになりたいことはありませんか?
 質問をすることはもっともむずかしいことのひとつなのですよ。
 私たちはたずねなければならない問いを何千も抱えています。
 私たちはあらゆるものを疑わなければならないのです。
 なんに対してもただ従ったり受けいれたりしてはいけません。
 私たちは自分自身で見いださなければならないのです。
 他の人を通じてではなく、自分自身で真実を見なければならないのです。
 そして、真実を見るためには、完全に自由でなければならないのです。
 正しい答えを見いだすためには、正しい質問をしなければなりません。
 まちがった質問をしたら、必然的にまちがった答えを受けとることになるからです。
 そういうわけで、正しい質問をするというのは、もっともむずかしいことのひとつなのです。
 これはべつに、話し手があなたがたに質問をさせないようにしているわけではないのですが。
 あなたがたは、心から、きわめて真剣な気持ちで質問しなければなりません。生というのはたいへん重大なものですから。そのような質問をするということは、あなたがすでに自分の精神を探り、自分自身の非常に深いところまで踏みこんでいるということです。
 ですから、知性的な、それ自体を認識している精神だけが、正しい質問をすることができるのですし、それをたずねることそのもののなかに、その問いへの答えがあるのです。
 どうか笑わないでください。これはきわめてまじめなことなのです。
 というのも、あなたがたはつねに、他の人にどうすべきかを教えてもらうことを期待しているからです。
 私たちはいつも、他の人の灯で自分のランプをともしてもらいたがっているのです。私たちが自分自身の灯であることはけっしてありません。自分自身の灯であるためには、私たち自身の精神で見、観察し、学ぶことができるよう、あらゆる伝統、話し手のそれをも含めたあらゆる権威から自由でなければならないのです。
 学ぶというのはもっともむずかしいことのひとつです。質問をするのはかなりやさしいことですが、正しい質問をして正しい答えを得るというのは、まったく別のことなのです。
 さてみなさん、ご質問は?(笑い)
(※カリフォルニア大学バークレー校での講話)

【『あなたは世界だ』J・クリシュナムルティ:竹渕智子〈たけぶち・ともこ〉訳(UNIO、1998年)】

「正しい問い」は既に答えをはらんでいる。むしろ答えを知ることよりも、何をどう問うかが重要なのだ。目先の問題に翻弄される人生はおのずと不幸に至る。たとえそれが国家の問題や世界の課題であったとしても。人類は同じことを繰り返してきた。六道輪廻(りんね)の歴史といってよい。その連鎖を自分が断ち切れるかどうかである。

 深き問いが人生を掘り下げ、大いなる問いが一生を拡大してゆく。

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陸賈の諫言/『長城のかげ』宮城谷昌光


『孟嘗君』宮城谷昌光

 ・陸賈の諫言

『楽毅』宮城谷昌光

 陸賈〈りくか〉はおりをみて劉邦のまえにすすみ、儒学の本教が盛られている『詩経』や『書経』を引用し、その書物のすばらしさをほめたたえた。儒学ぎらいな劉邦は露骨にいやな顔をしたが、あるときとうとう怒りだして、
「わしは馬上で天下を取ったのだ。『詩経』や『書経』にかまっておれるか」
 と、陸賈〈りくか〉を叱りとばした。が、陸賈はひるまなかった。すぐさま仰首し、
「馬上で天下をお取りになっても、馬上で天下をお治めになれましょうか」
 と、敢然といった。
 この一言が陸賈の名を永遠にしたといってよい。

【『長城のかげ』宮城谷昌光(文藝春秋、1996年/文春文庫、1999年)】

 戦争は政治の一部分でしかない。国力は平時に蓄えられる。軍事には莫大な費用がかかる。略奪はいつか途絶える。まして遠征となれば国は疲弊する。

 故に兵は拙速(せっそく)なるを聞くも、未だ功久(こうきゅう)なるを睹(み)ざるなり。夫れ兵久しくして国の利する者は、未だこれ有らざるなり。故に尽々(ことごと)く用兵の害を知らざる者は、則ち尽々く用兵の利をも知ること能わざるなり。

【だから、戦争には拙速――まずくともすばやく切りあげる――というのはあるが、功久――うまくて長びく――という例はまだ無い。そもそも戦争が長びいて国家に利益があるというのは、あったためしがないのだ。だから、戦争の損害を十分知りつくしていない者には、戦争の利益も十分知りつくすことはできないのである】

【『新訂 孫子』金谷治〈かなや・おさむ〉訳注(岩波文庫、2000年)】

 天下を治めるためには大地に立って民の声を聞かねばならない。前漢を興した劉邦(紀元前256-195年)の在位期間は7年である。わずか7年で高祖と仰がれ、始皇帝(紀元前259-210年)よりも尊敬を集め、歴史に名を残した。

 本書は連作短篇集で項羽と劉邦よりも、むしろ周辺の人物を描くことに重きが置かれている。2015年には『劉邦』(全3冊)が刊行されている。

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2017-08-19

「本当の孤独」と「前向きの不安」/『孤独と不安のレッスン』鴻上尚史


 ・「本当の孤独」と「前向きの不安」

『「認められたい」の正体 承認不安の時代』山竹伸二

 孤独には、「本当の孤独」と「ニセモノの孤独」があります。

【『孤独と不安のレッスン』鴻上尚史〈こうかみ・しょうじ〉(大和書房、2006年/だいわ文庫、2011年)以下同】

 2012年1月、「成人するあなたへ」と題した鴻上尚史の寄稿がインターネットを席巻した。

覚え書:鴻上尚史「成人するあなたへ」、『愛媛新聞』2012年1月9日(月)付。

 易(やさ)しい文章であるにもかかわらず力強い。書こうと思っても中々書けるような文章ではない。ってなわけで本書を開いた。

 はっきり言って大人が読む代物ではない。まず改行が多すぎる。そして私は孤独と不安に対して異様なほど耐性が高い。心の振幅が激しい季節にいる若者であれば何らかの手掛かりを得ることができよう。

 孤独と不安から、人は一生、逃げられません。
 大きななにか、新興宗教の教祖やカリスマ的なリーダーや強引な恋人や厳(きび)しい親に従(したが)うと、ほんの一瞬、孤独と不安から解放(かいほう)されたと感じる時期があるかもしれません。ですが、それは、本当に短い時間です。どんな偉大な教祖の下でも、やがて、信者は、孤独と不安に苦しめられるようになるのです。
 苦しむからこそ、信者は、熱狂的に新しい信者を獲得(かくとく)しようとするし、カリスマ的なリーダーの会社の社員は、がむしゃらに働くし、強力な恋人の意見に必死に従おうとするし、厳しい親の言葉を繰り返すのです。
 みんな、孤独と不安に苦しめられるからこそ、自分の不安と孤独を打ち消そうとして、必死なのです。
 本当に、宗教で不安と孤独がなくなるのなら、みんな、信者の勧誘や募金活動に必死になることはないのです。神や教祖を信じた瞬間、孤独と不安が消えるのなら、もっと宗教団体はおだやかでゆるやかな活動になっているはずです。
 つまりは、どんなものを信じても、受け入れても、人は、一生、孤独と不安から自由にはなれない、ということなのです。

 ならば、「本当の孤独」と「前向きの不安」を生きましょう。「ニセモノの孤独」と「後ろ向きの不安」ではなく。

 3種類の不安がある。家庭的不安、社会的不安、そして生存的(≒時間的)不安だ。家庭や社会が機能不全を起こしている現在、不安も多様化し複雑性を帯びる。十分な愛情を受けることがないと子供の心は歪んだまま成長する。また教育が評価を意味するようになってしまっており、子供が手足を伸ばして自由を満喫する機会は少ない。

 ヤマギシ会は「将来の不安」を除くべく農業・養鶏業を集団で営んでいるのだろう。つまり宗教と同じく不安産業なのだ。

 熱狂的な宗教活動は不安の裏返しであるとの指摘は鋭い。そして教祖は信者の数や書籍の売り上げで不安を満たし、カリスマリーダーは株価の時価総額で不安を解消するのだろう。

 生存的な不安とは死に対する不安である。すなわち一生という時間の限定性にまつわる不安だ。この世で確かな真理があるとすれば「生きとし生けるものは必ず死ぬ」という事実であろう。

 でもよく考えてみよう。果たして死は存在するだろうか? もちろん眠りを自覚することができないように死もまた自覚し得ないことだろう。だが私が言いたいのはそういうことではない。死はあるのか? 死体は確かにある。ただし死という現象は生が停止した状態でしかない。

 ローソクの火が「消えた」とは言うが、「死んだ」とは言わない。ニルヴァーナ(涅槃)の原義が「吹き消した状態」であれば、死は単に「消える」「去る」を意味するのだろう。死は存在しない。存在するのは現在の生のみである。

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本当のオレ/『賭博黙示録カイジ』福本伸行


『銀と金』福本伸行

 ・本当のオレ

『福本伸行 人生を逆転する名言集 覚醒と不屈の言葉たち』福本伸行著、橋富政彦編
『福本伸行 人生を逆転する名言集 2 迷妄と矜持の言葉たち』福本伸行著、橋富政彦編

『無境界の人』森巣博
『賭けるゆえに我あり』森巣博
『真剣師 小池重明 “新宿の殺し屋"と呼ばれた将棋ギャンブラーの生涯』団鬼六

 まったくこいつら……
 とことん腐っている……
 わしのように生きるか死ぬかの修羅場を 潜(くぐ)ってきた人間からすると 奴らの精神はまるで病人……
 並の治療では……救われぬほど心性(しんせい)が病んでいる
 その病気とはつまり……どんな事態に至ろうと……【とことん真剣になれぬ】……という病(やまい)だ……
(中略)
 いつだって……許さるとと思っている……
 借金を踏み倒そうと……あるいは……極論……人を殺した……としても……
 自分は悪くない 自分は許される なぜなら……今起こったこの事態はあくまで「仮」(かり)で……
 本当のオレのあずかり知らぬこと……そう考えるからだ
(中略)
 通常奴らは……生涯その「仮」から目覚めない……!
 愚鈍(ぐどん)に……寝たいだけ寝て……不機嫌に起き出し……半ば眠っているような日々を繰り返す
 退屈を忌み嫌いながら その根本原因にはほおかむり
 少し熱心になる瞬間といったら ケチな博奕(ばくち)や……どーでもいい女を追いかけるまわす時くらい……
 なぜそんなくそ面白くもない気分で……この人生の貴重な1日1日を塗(ぬ)り潰(つぶ)せるか……というと……
 いつもどんな時も 現実は奴らにとって「仮」だからだ つまり偽物(にせもの)……
 現実(こんなもの)が……自分の本当のはずがない……奴らはそう思いたいんだ……
 30になろうと40になろうと 奴らは言い続ける……
 自分の人生の本番はまだ先なんだと……!
「【本当のオレ】」を使ってないから今はこの程度なのだと……そう飽きず言い続け……結局は……老い…… 死ぬっ……!
 その間際いやでも気が付くだろう……今まで生きてきたすべてが 丸ごと「本物」だったことを……!

【『賭博黙示録カイジ』福本伸行(講談社、1996~1999年)】

 人は不遇を感じると「自分が活躍する舞台は別の場所にある」と思いがちだ。そう。西方極楽浄土だ(笑)。鎌倉時代の庶民にとって幸せは宇宙の彼方にあるものと信じられ、死んだ後に生まれ変わる場所として渇望された。ま、当然のように首を括りたくなるわな。

 こうした二面的なものの見方は鎌倉仏教の影響が大きいように思う。此岸と彼岸、浄土と穢土(えど)、権教と実教、本門と迹門などなど。ま、本地垂迹(ほんぢすいじゃく)思想と一括りにしてもよかろう。仏教には現象そのものを「仮」と捉える視点もある(仮諦〈けたい〉)。

 福本が指摘する「仮」はもっと卑近なものだが、欲望の燃焼がテーマとなっているだけにわかりやすい。

「本当のオレ」は「今のオレ」である。「眠っているオレ」や「将来のオレ」はフィクションに過ぎない。もちろん可能性は誰にでもある。よくなる可能性も悪くなる可能性も。

 福本作品については絵で好き嫌いが分かれることだろう。個人的には『銀と金』を除けば評価できる作品はない。冗長なルール解説がストーリーの腰を折る嫌いがある。それでも尚、福本作品は男の教養として読むべきだ。

『カイジ』シリーズはこの後、『賭博破戒録カイジ』、『賭博堕天録カイジ』、『賭博堕天録カイジ 和也編』、『賭博堕天録カイジ ワン・ポーカー編』と続く。

2017-08-18

値引き販売による機会損失/『「値引きして売れるなら捨てるよりマシ」は本当か? 将来どちらのほうが儲かるかで考える損得学』古谷文太


「コンビニエンスストア最大手のセブン-イレブン・ジャパンに、消費期限の迫った食品や飲料などの値引き(見切り販売)を制限され、商品の廃棄を余儀なくされ損害を受けたとして、北海道、大阪、兵庫の3道府県の加盟店オーナー4人が同社に計約1億3980万円の損害賠償を求めた訴訟に対する判決が8月30日、東京高等裁判所で出された」(セブン-イレブン、見切り品値下げ販売裁判敗訴で失ったもの〜異なる同業他社の方針)。



 さてここで、オーナーたちはどんな損得計算をしたのでしょうか?
 捨ててしまえば「入ってくるお金」は0円、「出ていくお金」としては、おそらく廃棄費用がかかるはずです(仕入代金はすでに発生しているので該当しません)。
 一方、値引き販売するのであれば、「入ってくるお金」としては値引き後の販売代金。「出ていくお金」は廃棄費用がかからなくなるので0円のはずです。……こうやって見ていくと、値引き販売をしたほうが得なように見えます。
 では、10円でも20円でも、とにかく売れれば捨てるよりはマシなのでしょうか? この点については、もう一度よく考え直してみる必要があります。
 コンビニ客は、売れ残った弁当を値引き販売しているからといって、ワーッと集まってきたり弁当を余計に買ったりはしないものです。あくまでも、お腹がすいたから必要な分を買おうと店に入り、そこにある選択肢の中から選んで買う……つまり、値引き販売をしたからといって客数や販売数が増えるわけではないということです。値引き商品を棚に並べれば、単に【通常価格で売れたはずの分が値引き販売分に置き換わってしまう】のです。
 この、値引き販売によって売れなくなる通常販売の部分を「機会損失」といいます。

【『「値引きして売れるなら捨てるよりマシ」は本当か? 将来どちらのほうが儲かるかで考える損得学』古谷文太〈ふるや・ぶんた〉(ダイヤモンド社、2010年)】

 廃棄した場合と値引き販売した場合を比較した図表が掲載されており、仕入れ価格50円、通常販売価格120円のおにぎりを廃棄するのに10円の費用がかかるとすると、60円以上の価格にしなければ利益が出ない。

「セブンイレブン商法が特徴的なのは、売れ残った商品の廃棄で生じる損失(廃棄ロス)よりも、商品の発注が少なすぎて売上げを逃すロス(機会ロス)を避けることを重視している点だ」(加盟店に弁当を廃棄させて儲けるセブン-イレブンのえげつない経営術)。

「コンビニの場合はある程度の売れ残りは仕方がないものとして扱い、多めに発注を行っているチェーンが多いです。売れ残りのロスチャージを増やすためではなく、ある程度多めに発注をした方が売上が増えることが多いことが経験から分かっているからです」(セブンイレブンのロスチャージ問題とコンビニの値下げ販売)。

 フランチャイズオーナーというシステムは出店リスクをオーナーに付け替える制度である。儲かるとわかっていればオーナーに出資させる必要はない。セブン-イレブンはドミナント戦略で成功を収めてきた。特定の地域に集中して出店すれば、いくつかの店が失敗するのは当然だ。つまり損をする店舗があったとしても全体で収益が上がればセブン-イレブンとしては構わないわけだ。

 機会損失を通して見えてくるのは、合理的な経営が地球環境を破壊し尽くす未来像だ。利益のためなら何でもするのが企業の使命である。フランチャイズ店を潰し、従業員を馘首(かくしゅ)し、売れ残った商品を廃棄しながら、本社は我が世の春を謳歌する。