2019-07-24

死ぬ覚悟があるのなら相手を倒してから死ね/『国家と謝罪 対日戦争の跫音が聞こえる』西尾幹二


『国民の歴史』西尾幹二
『日本文明の主張 『国民の歴史』の衝撃』西尾幹二、中西輝政
『三島由紀夫の死と私』西尾幹二

 ・「戦争責任」という概念の発明
 ・岡崎久彦批判、「つくる会」の内紛、扶桑社との騒動
 ・死ぬ覚悟があるのなら相手を倒してから死ね

岡崎久彦

 一般に戦後のある時期まで、社会の中にある野生の暴力が役立っていた。必ずしも非合法組織の事ではない。村には青年団があり、上級生は生意気な下級生に鉄拳制裁を加えた。教師の体罰も有効な抑止力だった。街角で「いじめ」を見て、普通の市民が介入し、叱責した。
 いつの頃からか「刺されるから止めておこう」に変わった。教師も見て見ぬ振りで、事なかれ主義になった。その頃から「いじめ」は学校の中で密室化し、陰惨になり、何が起こっているのか見えにくくなった。
 昔は「いじめ」はいくら激しくても、それで自殺する者はいなかった。「いじめ」は子供が大人になる通過儀礼のようなものであった。そこで心が鍛えられ、友情や裏切りを知り、勇気や卑劣の区別も悟り、社会を学ぶ教育効果もあった。
 暴力を制するには暴力しかない。教師の体罰を許さないような今の学校社会が「いじめ」による自殺を増加させている。「いじめ」の密室化を防ぐには社会の中の野生の暴力をもう一度甦らせるしかなく、「生命を大切にしてみんな仲良く」といったきれいごとの教訓では、見て見ぬ振りの無責任と同じである。
 追い込まれた子供が自殺するのは復讐のためであると聞く。一度死んだら蘇生できないという意識がまだ幼くて希薄で、死ねば学校や社会が騒いでくれて仕返しができると考えての自殺行為であるという。
 であるとすれば、死んだら仕返しも何もないということを広く教育の中でまず教える事である。それから、これが何より大切だが、死ぬ覚悟があるのなら相手を倒してから死ね、と教える事である。
 仕返しや復讐の心に囚われている子供、しかも社会の中に自分を助けてくれる有効な暴力がない子供に(だから自殺に追い込まれたのだろうが)、仕返しや復讐はいけないことだという人道主義や無抵抗主義を教えるのは、事実上自殺への誘いである。
 まずは正当防衛としての闘争心を説く。学校の先生がそれを教える。いじめられっ子に闘争心が芽生えれば、もう自殺はしない。防衛は生命力の証である。

【『国家と謝罪 対日戦争の跫音が聞こえる』西尾幹二〈にしお・かんじ〉(徳間書店、2007年)】

 私は1963年(昭和38年)生まれで中学生の時に校内暴力が社会問題化し、二十歳(はたち)になる頃は新人類と呼ばれた世代である。昭和40年代に入ると三世代同居がなくなり核家族化が進んだ。共働きの家はほとんどなかったと記憶するが、片親で家の鍵を持つ児童は「鍵っ子」という寂しい蔑称で呼ばれていた。西尾幹二は1935年(昭和10年)生まれだから私の父親よりも年上である。

 今時は殴り方も知らないような教師がいるので体罰を容認するのは危険だ。介護と同様、閉ざされた世界で振るわれる暴力はちょっとした弾みでどんどん過激になる。私の世代だと拳骨やビンタは珍しいことではなかったが教育効果があったようには思えない。あまり怖くもなかったし、かえって大人のくせにみっともないなと見下していた。

 高校の先生は大半が運動部OBということもあってそれは恐ろしかった。「オウ、大人をナメてんじゃねーぞ!」と言うなりボコボコにされることもあった。運動部の1年生はほぼ毎日ヤキを入れられるのでこれは堪(たま)ったものではない。OBと先輩には絶対服従というのが運動部の伝統であった。

 私の父親も手が早かった。二十歳を過ぎても殴られていたよ。友人の前でやられたことも何度かある。確かにブレーキにはなるのだがただ怖いだけだ。警察につかまるよりもオヤジにバレるのが怖いというのが本音だった。それくらい怖かった。10年ほど前に死んだが今でも怖いよ(笑)。

 当然ではあるが私は外で喧嘩をし、家では弟妹をいじめた。こうなるから暴力はダメなんだよね。

 江戸時代までは武士道があった。幼い頃から死ぬ覚悟を叩き込まれ、責任を取る時は腹を切るのが当たり前とされた。柴五郎〈しば・ごろう〉の幼い妹は懐剣を見せて「いざ大変のときは、わたしもこれで黄泉路(よみじ)に行くのよ」と語った。その妹は会津戦争のさなか母親に胸を突かれて7歳で死んだ(『守城の人 明治人柴五郎大将の生涯』村上兵衛)。

「死ぬ覚悟があるのなら相手を倒してから死ね」とのメッセージはまったくもって正しい。どんな手を使っても構わない。知恵と悪知恵の限りを尽くして悪人を叩き伏せることが社会の向上につながる。「理不尽ないじめをすれば殺される可能性がある」となれば、いじめは激減することだろう。



大阪産業大学付属高校同級生殺害事件
両親の目の前で強姦される少女/『女盗賊プーラン』プーラン・デヴィ

2019-07-23

岡崎久彦批判、「つくる会」の内紛、扶桑社との騒動/『国家と謝罪 対日戦争の跫音が聞こえる』西尾幹二


『国民の歴史』西尾幹二
『日本文明の主張 『国民の歴史』の衝撃』西尾幹二、中西輝政
『三島由紀夫の死と私』西尾幹二

 ・「戦争責任」という概念の発明
 ・岡崎久彦批判、「つくる会」の内紛、扶桑社との騒動
 ・死ぬ覚悟があるのなら相手を倒してから死ね

岡崎久彦

 この日は珍しい来賓があった。岡崎久彦氏である。
 岡崎氏は私が名誉会長であった間は(※「新しい歴史教科書をつくる会」の)総会に来たことがない。多分気恥かしいひけ目があったからだろう。彼は「つくる会」創設時にはスネに傷もつ身である。すなわち最初の頃はずっと理事に名を出していたが、会発足の当日に会に加わるものはもの書きの未来に災いをもたらすと見て、名を削ってくれと申し出て来た。つまり夏の夜のホタルのように甘い水の方に顔を向けてフラフラ右顧左眄(うこさべん)する人間なのだ。それならもう二度とつくる会に近づかなければいいのに、多少とも【出世した】つくる会は彼には甘い水に見えたらしい。こんど私が会場に姿を見せなくなったら、厚かましくも突然現れた。

【『国家と謝罪 対日戦争の跫音が聞こえる』西尾幹二〈にしお・かんじ〉(徳間書店、2007年)以下同】

「必読書」から「資料本」に変えた。カテゴリーとしての資料本(しりょうぼん)とは必読書を鵜呑みにしないためのテキストである。謂わばワクチン本といってよい。

(※米議会で靖国神社遊就館の展示に変更を求めたハイド委員長〈共和党〉の意見は)靖国とナチスの墓地を同列に置くような低レベルの内容であるが、戦史展示館「遊就館」の展示内容を批判し、「次期首相」の参拝中止を求めている記事(毎日新聞、9月15日付)内容は、岡崎久彦氏が8月24日付産経コラム「正論」で、「遊就館から未熟な悪意ある反米史観を廃せ」と先走って書いたテーマとぴったり一致している。やっぱりアメリカの悪意ある対日非難に彼が口裏を合わせ、同一歩調を取っていたというのはただの推理ではなく、ほぼ事実であったことがあらためて確認されたといってよいだろう。岡崎久彦氏は「親米反日」の徒と昔から思っていたが、ここまでくると「媚米非日」の徒といわざるを得ないであろう。

 政治的な意味のリベラルは地に落ちた。かつては是々非々を表したこの言葉は既に左翼と同義である。ポリティカル・コレクトネスという牙で日本の伝統や文化を破壊するところに目的がある。その後、リアリズム(現実主義)という言葉が重宝されるようになった。そしてリアリズムが行き過ぎると岡崎久彦のような論理に陥ってしまうのだろう。国家の安全保障を米軍に委ねるのが日本国民の意志であるならば、用心棒に寄り添い、謝礼も奮発するのが当然という考え方なのだろう。

 かつてのコミンテルン同様、CIAも日本人スパイを育成し第五列を強化している。大学生のみならず官僚までもが米国留学で籠絡(ろうらく)されるという話もある。学者や評論家であれば米国内で歓待して少しばかり重要な情報を与えれば感謝感激してアメリカのために働く犬となることだろう。日本人には妙なところで恩義を感じて報いようとする心理的メカニズムがある。

 岡崎久彦がアメリカに媚びるあまり歴史の事実をも捻じ曲げようとしたのが事実であれば売国奴といってよい。しかも日本民族の魂ともいうべき靖国神社に関わることである。リアリストというよりは第五列と認識すべきだろう。

 中西輝政氏は直接「つくる会」紛争には関係ないと人は思うである。確かに直接には関係ない。水鳥が飛び立つように危険を察知して、パッと身を翻(ひるがえ)して会から逃げ去ったからである。けれども会から逃げてもう一つの会、「日本教育再生機構」の代表発起人に名を列(つら)ねているのだから、紛争と無関係だともいい切れないだろう。(中略)
 中西氏は賢い人で、逃げ脚が速いのである。いつでも「甘い水」を追いかける人であることは多くの人に見抜かれている。10年前の「つくる会」の創設時には賛同者としての署名を拒んだだけでなく、「つくる会」を批判もしていたが、やがて最盛時には理事にもなり、国民シリーズも書き、そして今度はまたさっと逃げた。

 本書には「つくる会」の内紛、扶桑社との騒動にまつわる詳細が書かれている。月刊誌に掲載された記事が多いこともあるが、よくも悪くも西尾幹二の生真面目さが露呈している。私の目には政治に不慣れな学者の姿が映る。それゆえに西尾は不誠実な学者を許せなかった。自分との距離に関係なく西尾は批判を加えた。

 西尾はチャンネル桜でも昂然と安倍首相批判を展開している。年老いて傲岸不遜に見えてしまうが、曲げることのできない信念の表明である。そこには周囲と巧く付き合おうという姿勢が微塵もない。

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2019-07-21

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2019-07-20

「戦争責任」という概念の発明/『国家と謝罪 対日戦争の跫音が聞こえる』西尾幹二


『国民の歴史』西尾幹二
『日本文明の主張 『国民の歴史』の衝撃』西尾幹二、中西輝政
『三島由紀夫の死と私』西尾幹二

 ・「戦争責任」という概念の発明
 ・岡崎久彦批判、「つくる会」の内紛、扶桑社との騒動
 ・死ぬ覚悟があるのなら相手を倒してから死ね

岡崎久彦

 敗戦国ドイツの代表は27に及ぶ戦勝国の首脳の居並ぶ前で、傲然と次のように言い放った。
「われわれはドイツの武力が崩壊したことを知っており、はげしい憎悪の前に立たされていることも知っている。われわれは戦争の唯一の罪人であることを告白するよう要求されている。しかしそのような告白を私がするならば、それは虚言をなすことになるだろう。この世界大戦が惹起した責任を回避する気はすこしもない。だが、ドイツとその国民だけが有罪だということをわれわれは否認する。……」
 ドイツ代表の名は外務大臣ブロックドルフ=ランツァウ伯。彼は偏狭なナショナリストではなく、古い家系をもつ誇り高いドイツ貴族であった。
 第一次世界大戦の終結にあたり、フランス代表のクレマンソーが口火を切っていわゆるヴェルサイユ条約を突きつけてきた、そのときの最初の発言である。
 第二次世界大戦の終結に際しては、ドイツという国家は解体して存在しなかった。逃亡した戦争指導者たちは次々と追求逮捕され、ドイツ国民は全員奴隷として強制労働につかされる可能性さえ論じられていた。第一次大戦ではそのようなことはない。ドイツは主権国家として存続していた。丁度日本が第二次世界大戦の降伏後も辛うじて国家でありつづけていたのと同様である。
 第一次世界大戦はまだそれまでの欧州の戦争、ナポレオン戦争普墺戦争普仏戦争と同じような性格を残していた所以だが、今から考えるとすでに第二次大戦を予感させるような特徴もいくつか見てとれる。まず第一に、ドイツへの制裁の基礎となった条約231条において「戦争責任」が問われていることである。しかも「国際的道徳に対する最高の罪」として皇帝ヴィルヘルム2世の軍事法廷への引き渡しが要求された。連合軍は800人の戦犯を名指し、その中には有名なルーデンドルフ将軍をはじめ貴族、政治家、学者、士官、兵まであった。「戦争中の残虐行為の罪」を犯した者を引き渡せという要求もあった。従来の国際法にも国際慣行にもまったく例がなく、ドイツ首相ヴィルトはこれを公式に拒絶した。それでもイギリス首相ロイド・ジョージはしつこく、戦犯断罪の裁判を継続して要求、1年有余をかけたドイツ国内の裁判ですべて無罪、あるいは公判中止となって終った。
 それにしても、「戦争責任」という言葉が生まれたことも、国家意志で行われた戦争への責任を個人に求めるということも、ついぞ例がなく、ドイツ国民には屈辱であり、衝撃であったに相違ない。
 第二次大戦後の日本はまだ「辛うじて国家」だったと先に書いたが、第一次大戦後のドイツのように、戦犯引き渡しを拒否する力は持っていなかった。郷里にいったん生還した将兵までがインドネシアやフィリピンに連れ戻され、BC級戦犯の名で処刑された悲劇はよく知られる。残虐罪は現地政府の裁きに委ねるという第二次大戦後のドイツの戦犯に対する報復の形式が踏襲された結果である。
 東京裁判において弁護団は、戦争それ自体は正当な国家行為で、犯罪ではないとの正論をもって弁護に当った。国家意志で行われた戦争の責任を個人に求めるのは国際法に違反しているという論法も使われた。ニュルンベルク裁判でも同じ論法があった。しかしアメリカが中心となった両裁判ではこの論点ははなからほとんど無視された。
 それもそうであろう。あまり気づかれていないことだが、すでに第一次世界大戦において、国際法にも国際慣行にもまったく例のない「戦争責任」の概念が出現していたのである。
 ヴェルサイユ会議において、「戦争責任」を言うならばそれは戦勝国にもある、ドイツは力尽きて敗れただけで「国際的道徳への罪」を問われるいわれはない、と堂々と拒否の姿勢を示したブロックドルフ=ランツァウ伯の言は、今の私が考えてみても正しい。日本の過去の戦争に対する立言もかくあるべきだという論証が本論の主旨である。

【『国家と謝罪 対日戦争の跫音が聞こえる』西尾幹二〈にしお・かんじ〉(徳間書店、2007年)】

 二度の大戦をヨーロッパ内戦と捉えると戦争概念が大きく変わったことに気づく。西側を中心とするヨーロッパにはギリシャ哲学とキリスト教という共通思想がある。そこに「外交のルール」が生まれる。つまり「国家としての理窟」である。

 世界史を複雑にする微妙な問題は行間という行間に人種差別が散りばめられていることに起因する。そこに日本とアメリカという新たなプレイヤーが参加したのだ。

「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」とクラウゼヴィッツは喝破したがそれは白人の政治に限られる。有色人種国家はただ奪われるだけの存在であった。白人帝国主義は大航海時代(15世紀半ば)に始まり日露戦争(1904-5年)~大東亜戦争(1937-45年)まで続いた。

 1937年(昭和12年)、フランクリン・ルーズベルト大統領は「病人(※侵略者)を隔離する」と宣言した(隔離演説)。翌1938年には声明で日本を名指しする。1940年(昭和15年)、航空機用燃料を西半球以外へは全面禁輸にし、加えて屑鉄も禁輸とした。1941年(昭和16年)、日本の在米資産凍結・石油の対日全面禁輸が行われ、日本は12月8日に英領マレー半島と真珠湾を攻撃するに至る。

 アメリカによる日米通商航海条約の破棄(1939年)を受けて日本政府は蘭印と経済交渉をした(第二次日蘭会商)。蘭印は迫りくる日本に対して可能な限り妥協してみせた。英米の軍事援助が見込めなかったためだ(戦前期日本の海外資源確保と蘭領東インド石油 1940年の日蘭石油交渉と蘭印の対日石油輸出方針を中心に:張允貞〈チャン・ユンチョン〉戦前期日本の海外石油確保と蘭領東インド石油)。

 つまり、石油以外の軍需物資の要求量が大きかったため、オランダ側は日本の同盟国であるドイツに軍需物資が流れることを懸念し、日本側の要求の全ては容認しなかったために交渉が不成立に終わったということがわかる。なお、来栖自身はオランダ側の容認した通りに調印しておけば石油物資の欠乏は避けられたのではないかと考察している。

ABCD包囲網考【5】・オランダとの交渉経過 - royalbloodの日記

 そのオランダにアメリカが圧力を掛けてABCD包囲網は完成した。

 まず話し合う。で、まとまらなければ戦争をする。なぜなら「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」からだ。ここで当時の政治判断を論(あげつら)うことは容易(たやす)い。だが近代史を俯瞰すれば、黒船来航~三国干渉を経て臥薪嘗胆(がしんしょうたん)を合言葉に耐えて耐えて耐え抜いてきた国民感情が噴出したと見るべきだろう。

 第一次世界大戦におけるジョルジュ・クレマンソーのドイツに対する苛烈な姿勢が後のヒトラーを誕生させるのは広く知られた歴史のエピソードである。圧力は時に爆発を招く。1940年6月10日、ナチス・ドイツの侵攻によってパリが陥落する。

 第二次世界大戦の敗戦国は「戦争責任」という戦勝国にとって便利な概念で裁かれた。ここで一つ注意を喚起しておきたいことは、ナチス・ドイツが行ったユダヤ人を中心とする大量虐殺と戦争行為は分けて考える必要があるということだ。それはそれ、これはこれである。勝利した連合国はニュルンベルク裁判東京裁判という茶番劇で確固たる戦後レジームを構築した。

 国際連合は「United Nations」の訳語だが直訳すれば「連合国」である。第二次世界大戦の枠組みを変えるのは第三次世界大戦なのだろうか? そうかもしれないし、そうでないかもしれない。

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管季治〈かん・すえはる〉-徳田要請問題


『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆

 ・管季治〈かん・すえはる〉-徳田要請問題

 2009年8月18日に関連リンク集を作成したのだがあまりにもリンク切れが多いため、若干のテキストコピーと共に紹介する。

 しかし、上京して間もない同年2月中旬、日本共産党の徳田球一が在外同胞引き揚げの妨害をしたとする「徳田要請問題」が彼の身に降りかかった。これは「徳田書記長から、捕虜が民主的な分子となってから還してくれるようにという要請がきている」との発言をシベリア収容所のソ連将校から聞いた抑留者が帰国後に真相究明を求めて衆議院に訴えたもので、この問題に際し、彼は抑留時、意図的に誤った翻訳をしたのではないかという嫌疑を掛けられ、国会で証人喚問を受けることになる。菅は「要請」について否定も肯定もせず「将校の講話は(徳田の言葉の引用については)『反動分子としてではなくて、よく準備された民主主義者として帰国するように期待している』というものであった」、「ナデーエツァというロシア語には『期待する』という意味はあるけれども『要請する』という意味はない」という内容の手記を参議院に提出し、共産党機関紙『アカハタ』はこれをもって「徳田要請は否定された」とした(菅はこの件で共産党に対し抗議した)。また、このとき「天皇制についてどう思うか」と問われ、菅が「天皇制に対して私は批判的です」と答えると、「(天皇制を認めている日本)共産党以上の本物の共産党じゃないか」と罵倒されている。

 続いて同年4月5日に菅は衆議院に証人喚問された。このときハルビン学院の第一期卒業生を自称する調査員が登場し「訳したければ『期待する』と訳すことも可能だが『要請する』と答えるのが自然だ」として、「菅は『要請』というロシア語を(恣意的に)『期待』と訳したのではないか」[4]と厳しい質問を浴びせ(菅があたかも共産党のシンパであるかのようにアピールし、その証言が信用できないことを印象づける戦術であった)、菅は精神的に追い込まれた。この結果、翌4月6日の夜、彼は自宅近くの吉祥寺駅付近で鉄道自殺を遂げた。このとき、同居する弟の学生服の上着を着て、ポケットには岩波文庫の『ソクラテスの弁明』が入っていたという。友人の石塚為雄と弟の忠雄に宛てた遺書には、自らの身の潔白と、事実が通らないことに対する絶望が書かれていた。享年32。

 菅の自殺事件は社会的に大きな反響を呼び、木下順二がこの事件をテーマとする戯曲『蛙昇天』(背景も含めすべて蛙の世界の出来事に置き換えたもの)を書いている。またこの事件は証人喚問が証人自身に多大なる精神的苦痛を与えた例とされ、これ以降、国会は菅のような一般人に対する証人喚問には慎重な姿勢を取っている。

菅季治 - Wikipedia



 これに関連し抑留時、ソ連将校の講話を通訳していた哲学者菅季治は、「要請」について否定も肯定もせず「将校の講話は(徳田の言葉の引用については)『反動分子としてではなくて、よく準備された民主主義者として帰国するように期待している』というものであった」という内容の手記を参議院に提出し、共産党機関紙『アカハタ』はこれをもって「徳田要請は否定された」とした(菅はこの件で共産党に対し抗議した)。このため1950年4月5日に菅は衆議院に証人喚問され「『要請』というロシア語を(恣意的に)『期待』と訳したのではないか」と厳しい質問を浴び(菅があたかも共産党のシンパであるかのようにアピールし、その証言が信用できないことを印象づける戦術であった)、翌日鉄道に飛び込み自殺した。

徳田要請問題 - Wikipedia



 その後、彼は連合軍司令部に幾度も呼び出され、国会にも証人喚問されることになりました。
 自分が通訳したのは「要請」ではなく「期待する」であった事実を、孤立無援のまま、誠実に繰り返し証言しましたが、認められず、果ては「ソ連式共産党員」とのレッテルを貼られ、脅迫状まで寄せられるようになりました。昭和25年4月6日、彼は吉祥寺付近で列車に飛び込み自殺してしまいました。親友石塚為雄氏あての遺書には「あの事件で、わたしはどんな政治的立場にもかかわらないで、ただ事実を事実として明らかにしようとした。しかし政治の方ではわたしのそんな生き方を許さない。わたしは、ただ一つの事実さえ守り通し得ぬ自分の弱さ、愚かさに絶望して死ぬ。/わたしの死が、ソ同盟や共産党との何か後暗い関係によることでないことを、信じてくれ。/(中略)/人類と真理のために生命をささげようとしながら、わたしは、ついに何一つなし得なかった。しかし、死ぬときには、/人類バンザイ!/真理バンザイ!/と言いながら、死のう。」と書かれていました。享年32歳でありました。

ヌプンケシ103号 | 北見市



「わたしはまじめに自分の死について考えてみた。(中略)そして、次のような結論を得た。自分は凡人である、社会を変革したり、歴史の大波を押し返したりすることはできない。そうだとすれば、わたしの生涯でよい事としては、日常の小さな善行の総和以外にない。だから、もうすぐ死ぬ者として、死ぬまでの短い期間にできるだけ多くの日常的善行を積まなければならない。」菅はこう考えて、行動をおこしました。
hango まず私的制裁=リンチを禁止しました。初年兵に「私的制裁の事実があったらすぐ自分の所に知らせろ。」といい、「下士官や古年次兵は大いに不満だった。『なぐられない兵隊は強くならない』という信条が彼らを支配していたのである。わたし自身は軍隊で人をなぐったことはない。」
「見習士官は官物の被服をもらう。兵隊のと同じ型だがもちろん新しく、軍隊用語で『程度のいい』品物である。わたしは、朝鮮人の中でも最も悪い被服を着ている者を呼び寄せる。上衣の悪い者には自分の上衣を、ズボンの悪い者には自分のズボンを、シャツの悪い者には自分のシャツを与える。そしてわたしは、彼らの悪い上衣、悪いズボン、悪いシャツを身につける。自分にあるだけの布ぎれを修理材料として与える。同僚の見習士官はいやな顔をする。わたしだってこんな行為は、前には偽善的に感じたろうけれど、その時は、死の近づきがわたしを勇気づけたのである。」また、兵士に不満や希望を無記名で書かせ、解決できることは直ぐに実行しました。「わたしという見習士官は、中隊で、ひどい変り者と評判されるようになった。」

ヌプンケシ104号 | 北見市



 戦時中から「私的制裁」に反対していた菅には、これら将校たちの行為は目に余るもので、「収容所における軍隊機構改革の必要を感じた。」ものの、菅自身も将校の一人であり、「どうしていいかわからなかった。わたしは、自分だけ階級章を着けず、『五箇條』を唱えなかった。わたしに敬礼する兵隊に『なぜ敬礼するんだ?』と問うた。」と記しています。

ヌプンケシ105号 | 北見市



ヌプンケシ106号 | 北見市」を読めば書き手が左翼であることがわかる。



 私は日本へ還ってから平凡で真面目な国民の一人として生きようとした。今度の事件でも私はありのままの事実を公けにして国民の健全な判断力に訴えようとしたのである。しかし私を調べた人々には私とソ同盟、私と日本共産党との間になにか関係があると疑って、私の証言の純粋さを否定しようとする。いまの世の中は、ただ一つの事実を事実として明らかにするためにも多くのうそやズルさと闘わねばならぬ。しかし闘うためには私は余りにも弱すぎる。(中略)私はただ悪や虚偽と闘い得ない自分の弱さに失望して死ぬのである。私は人類のために真理のために生きようとした。しかし今までそのため何もしていない。だがやはり死ぬときには人類万歳、真理万歳といいながら死ぬ。(菅季治著「語られざる真実」戦争と平和 市民の記録19 1992.5.25)

蛙昇天



 1917年7月19日、愛媛県に生まれた彼は、6歳(数え)のとき、北海道にわたり、尋常少学校、旧制中学校に進みました。学業成績は非常に良く、中学卒業時には、「開校以来の神童」とうたわれたそうです。

蛙昇天



 翌1949年5月、ソ連は、日本人捕虜全員を11月までに送還すると発表、6月27日から引揚が再開されました。この再開第一回目の引揚船は、出迎えた人々を驚かせることになります。労働歌を合唱し、出迎えの家族にふりむきもせずスクラムを組んで、集団で共産党に入党しようとする、ソ連の思想教育の影響を大きく受けた人々だったのです。これらの人々は「赤い引揚者」と呼ばれ、この年に帰国した人の多くが、そうした引揚者でした。この頃の引揚者は、共産主義にかぶれているという先入観が人々の中に生まれていく中、菅季治も11月に帰国します。

 翌年の1950年の引揚船は、一転して様子が変わりました。右派、いわゆる反ソ組が圧倒的に増えたのです。 1950年1月23日の朝日新聞を見てみましょう。

蛙昇天



 衆議院考査特別委員会は1950年4月5日、菅季治を再度、国会に証人として呼びます。参議院で踏み絵を踏むことを拒否した菅に対して、衆議院は、菅に「共産主義者」というレッテルを貼ることに腐心しました。

蛙昇天



  左派社会党視察団は、過酷な状況で強制労働をさせられていた日本人抑留者から託された手紙を握りつぶし、帰国後、「とても良い環境で労働しており、食料も行き渡っている」と国会で嘘の説明を行った。抑留者帰国後、虚偽の発言であったことが発覚し、問題となる。

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