・体と思考
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『響きあう脳と身体』甲野善紀、茂木健一郎
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『武術と医術 人を活かすメソッド』甲野善紀、小池弘人
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『身体構造力 日本人のからだと思考の関係論』伊東義晃
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身体革命
体よりも思考が重視されている世の中では、現実と出会うのはなかなか難しい。私たちが「これが現実だ」と言うとき、他人とのあいだで共通認識が取り結べ、必ず頭が理解できる程度のものになっているからだ。いわば【頭の理解に基づく社会的な現実】と言っていい。それは【体にとっての現実】とは違う。
体の現実とはつかの間、感覚的にのみ垣間見えるものかもしれない。たとえば火にかけた薬缶(やかん)に触れてパッと手を離すとき、のんびりと「熱い」などと認識していないはずだ。手を離す行為と感覚が現実の出来事にぴたりと合っていて、そこに「熱い」という判断の入る余地はない。
それでも私たちは「熱いと感じて、思わず手を離した」と自分や他人に向けて言う。それは常に後から振り返った説明なのだ。「感じた」と言葉で言ってしまえるのは、リアルタイムではなく、認識された過去の出来事にすぎない。というのは、現実は「~してから~した」といった悠長な認識の流れで進んではいないからだ。「間髪を入れず」というように、髪の毛ほどの隙間もないのが現実だ。
つまり私たちにとっての現実は、常に言葉にならない感覚の移ろいでしかない。わずかにその変化を掴むことで、現実の一端を知ることができる。
【『体の知性を取り戻す』尹雄大〈ユン・ウンデ〉(講談社現代新書、2014年)】
入力しながら気になったのだが一般的には「手放す」と書くので「手を離す」は誤字かと思いきや、そうではなかった(
「離す」と「放す」 - 違いがわかる事典)。
尹雄大〈ユン・ウンデ〉はスポーツ選手のインタビュアーを生業(なりわい)としているが、格闘技や武術を嗜(たしな)んでいるので思考の足がしっかりと地についている。全体的には社会に対する違和感を体の緊張として捉え、哲学的に読み解こうとしている。
「頭の理解に基づく社会的な現実」や「認識された過去の出来事」といった表現に蒙(もう)を啓(ひら)かれる思いがする。脳は妄想装置である。その最たるものが政治や軍事におけるリアリズムであろう。民意や国際合意の捉え方次第でクルクル動く現実だ。認識が過去であるならば
唯識は現在性を見失っていることになる。識とは受信機能である。しかも知覚は常に遅れを伴う(『
ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ)。
悩みは過去であり、希望は未来である。どちらも現在性を見失った姿だ。人は過ぎ去った過去と未だ来ない未来を想像し苦楽を味わう。存在しないものを信じるという点では一神教の神とよく似ている。信ずる者は掬(すく)われる。足元を。
おしなべて思考のトレースがわかりやすい言葉で書かれていて着眼点も鋭い。必読書に入れようと思ったのだが「あとがき」に余計な一言があったのでやめた。