2012-12-22

Bird on Glass


 鳥は教えてくれる。傷つけ合う世界にいても静かに佇(たたず)むことができると。そして翼を持った精神のみが飛翔を可能にするのだ。

コピーに関する覚え書き


 ってなわけで、早速引用させてもらおう。

・即時性(Immediacy) コピーよりも速いこと
・個人化(Personalization) 個人に最適化されていること
・解釈(Interpretation) コピーの価値を上げるための付加価値を持つ情報
・信憑性(Authenticity) コピーを手に入れるときの特別な体験
・アクセスしやすいこと(Accessibility) 取りやすく見やすいこと
・具体化(Embodiment) 情報に実体を持たせること
・後援(Patronage) 作者との関係性
・見つけやすいこと(Findability) 目につく場所に情報を存在させること

「情報のコピーが無料になった中で、コピーできない8つの価値」Heartlogic

 ここから我が「宗教OS論」に結びつけることを目論んだのだが、如何せん思索不足である。というわけで中途半端な解説となることを許されよ。

 生命連鎖という歴史の主役は遺伝子だ。つまり生命の営みは遺伝子複製を目的としている。そして文化・文明は学習という名のコピーで維持されるわけだ。子は親のコピーであり、人類は神のコピーなのだ。宗教行為を見よ。コピーそのものではないか。

 人間の脳は凄まじいポテンシャルを秘めている。

脳という宇宙
「世界の全情報処理能力」は「ヒトの脳」に匹敵

 しかしながら実際は思考速度が遅いため、情報量は限られている。

脳の情報量とコンピュータの情報量について計算してみました
情報過剰は思考を駄目にする
人間の脳は限界に達しているのかも!?

 仮に17.5GBあったとしても、私の場合は明らかにメモリ不足だ。加齢が上書き更新を困難にしつつある。忘却とは忘れ去ることなり。

 レイ・カーツワイルはイノベーション(技術革新)が「記憶のダウンロード&アップロード」を可能にするだろうと告げている。

 では、わたしとは誰なのか? たえず変化しているのだから、それはただのパターンにすぎないのだろうか? そのパターンを誰かにコピーされてしまったらどうなるのだろう? わたしはオリジナルのほうなのか、コピーのほうなのか、それともその両方なのだろうか? おそらく、わたしとは、現にここにある物体なのではないか。すなわち、この身体と脳を形づくっている、整然かつ混沌とした分子の集合体なのではないか。
 だが、この見方には問題がある。わたしの身体と脳を構成する特定の粒子の集合は、じつは、ほんの少し前にわたしを構成していた原子や分子とはまったく異なるものなのだ。われわれの細胞のほとんどがものの数週間で入れ替わり、比較的長期間はっきりした細胞として持続するニューロンでさえ、1か月で全ての構成分子が入れ替わってしまう。微小管(ニューロンの形成にかかわるタンパク質繊維)の半減期はおよそ10分である。樹状突起中のアクチンフィラメントに至っては約40秒で入れ替わる。シナプスを駆使するタンパク質はほぼ1時間で入れ替わり、シナプス中のNMDA受容体は比較的長くとどまるが、それでも5日間で入れ替わる。
 そういうわけで、現在のわたしは1か月前のわたしとはまるで異なる物質の集合体であり、変わらずに持続しているのは、物質を組織するパターンのみだ。パターンも又変化するが、それはゆっくりとした連続性のある変化だ。「わたし」とはむしろ川の流れが岩の周りを勢いよく流れていくときに生じる模様のようなものなのだ。実際の水の分子は1000分の1秒ごとに変化するものの、流れのパターンは数時間、時には数年間も持続する。
 つまり、「わたし」とは長期間持続する物質とエネルギーのパターンである、と言うべきだろう。だが、この定義にもまた問題がある。いずれこのパターンをアップロードし、オリジナルとコピーが見分けられないほど正確に、自分の身体と脳を複製できるようになるからだ(そうなると、わたしのコピーが、「レイ・カーツワイル」を見分けるチューリングテストに合格しかねない)。

【『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル:井上健監訳、小野木明恵、野中香方子〈のなか・きょうこ〉、福田実訳(NHK出版、2007年)】

 福岡伸一が同じことを言っている。「生命とは動的平衡にある流れである」(『生物と無生物のあいだ』)、「ミクロのレベルではたまたまそこに密度が高まっている分子の、ゆるい『淀み』でしかない」(『もう牛を食べても安心か』)と。つまり自我を支えているものは「記憶という情報」なのだ。

 では実際に私がコピーされたとしよう。一体全体どちらの私が本物であるのか?

『スター・トレック』の転送装置で、星の地上にいる人が宇宙船の中にビームで転送されるとき、何をやっているかというと、その人のいる地上の空間の素粒子状態、つまり情報状態を全部スキャンしているのです。そしてそのスキャンした状態を宇宙船の中に移動させているわけです。
 簡単にいえばコピーするということでしょうか。もちろん、思考も記憶も全部一緒にコピーをしています。それを移動と呼んでいるだけなのです。
 ただし、コピーだけでは移動ではありません。ただの複製になってしまうため、オリジナルの消去もあわせて行っているのです。
 スコッティーが転送してくれたときに、たまたま宇宙船が攻撃されて、オリジナルの消去ができなかったとしたら、オリジナルとコピーが同時に存在することになります。
 そして、しばらくしてからスコッティーに、「ごめん、あなたの転送は終わった。したがってこれからあなたを消去します」といわれてしまうわけです。
 では、どちらが本物か。
 それは、移動した方が本物なのです。それがインテンショナリティ、つまり意思という考え方です。
 移動するという意思が反映されているのは移動後のほうです。
 理論上は、寸分たがわず、魂まで含めた完全コピーではあります。しかし、移動という意思は複製された側にあるわけですから、結果として、オリジナルのあなたは消去されるべき存在になってしまうのです。

【『苫米地英人、宇宙を語る』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(角川春樹事務所、2009年)】

「コピーという意思」に軍配が上がるというのだ。だから親が先に死ぬのか(笑)。私の完全コピーが100体あったとすれば、100番目のコピーが本物となる。ただし、これは「自我の固有性」にまつわる問題であって、各コピーの環境が異なるわけだから当然それぞれの人生は別物だ。

移動(コピー)した方が本物

 社会にも進化にも常にコピーという同調圧力が働いている。コピーし損なった者は弾かれる。美しいコピーを競うのが「受験」だ。

 彼は一瞬私を優しく見つめ、それから言った。「あなた――あなたの身体、感情、思考――は、過去の結果です。あなたの身体はたんなるコピーなのです。例えば羨望や怒りなどのどんな感情も、過去の結果なのです。羨望について、それを抑圧したり、それを何かあるいは何らかの行為にしようとするなど、あなたが何をしようと、それもまた過去の結果なのです。そのように、あなたはたんに経験の輪のなかを動いているだけなのです」

【『私は何も信じない クリシュナムルティ対談集』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(コスモス・ライブラリー、2000年)】

 コピーは「過去への依存」である。自我の大半は親や教師、友人、本、メディアによって書き込まれたものだろう。真の悟りとは意味から離れ、時間から離れ、自我を白紙に洗い戻す営みに違いない。これが「即時性」だ。

ポスト・ヒューマン誕生―コンピュータが人類の知性を超えるとき苫米地英人、宇宙を語る私は何も信じない―クリシュナムルティ対談集

パソコンが壊れた、死んだ、殺した
移動(コピー)した方が本物
レイ・カーツワイル
苫米地英人

2012-12-18

ケビン・カーター「ハゲワシと少女」


 1993年3月26日付のニューヨーク・タイムズに掲載され、1994年のピュリッツァー賞に輝いた。スーダンの飢餓を捉えた一枚の写真は、「報道か人命か」というセンセーショナルな議論に発展した。受賞から1ヶ月後、ケビン・カーターは自動車内に排気ガスを引き込んで自殺した。

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1枚の写真が招いた騒動
「ハゲワシと少女」のカメラマン自殺~“人命か報道か”の論議の中で
「ハゲワシと少女」~報道のエゴ

 ・ウガンダの飢餓
 ・暴力と欲望に安住する世界/『既知からの自由』J・クリシュナムルティ

ピュリツァー賞 受賞写真 全記録