2009-10-10

世界銀行の副総裁を務めた日本人女性/『国をつくるという仕事』西水美恵子


田坂広志『なぜ、我々は「志」を抱いて生きるのか』

 ・世界銀行の副総裁を務めた日本人女性

『エコノミック・ヒットマン 途上国を食い物にするアメリカ』ジョン・パーキンス

 面白かった。国際社会が政治力学のみで動いているわけではないことがわかる。西水美恵子はサザエさんそっくりだ。性格はもとより顔つきまで似ている。ただし、この人は良家の出。これが読み始めた際の印象を悪くした。途中で一度挫けそうになったことを白状しておこう。本書のタイトルも同様で、「フン、金貸し風情が随分と大きく出たもんだ」と思わざるを得ない。

 ただ、こうした違和感は上流階級の文化に基くものであり、所詮は庶民のひがみなのだろう。鼻につく表現が時折見られるが、それは西水が育ってきた環境を形成している文化であって、私は彼女の人間性を批判するつもりはない。

 西水はイギリス人男性と結婚。夫はIMF(国際通貨基金)に勤務し、本人はプリンストン大学の助教授をしていた。

 チェネリー副総裁は、そんな不真面目な私を笑いながら、契約にひとつの条件を出した。
「一国でもいい。発展途上国の民の貧しさを、自分の目で見てくるように……」
 プリンストンの修士課程を終えて世銀で活躍していた教え子が、それならエジプトがいいと誘ってくれた。彼が率いる開発5カ年計画調査団に同行して、首都カイロへ飛んだ。
 週末のある日、ふと思いついて、カイロ郊外にある「死人の町」に足を運んだ。邸宅を模す大理石造りの霊廟がずらりと並ぶイスラムの墓地に、行きどころのない人々が住み着いた貧民街だった。
 その街の路地で、ひとりの病む幼女に出会った。ナディアという名のその子を、看護に疲れきった母親から抱きとったとたん、羽毛のような軽さにどきっとした。緊急手配をした医者は間にあわず、ナディアは、私に抱かれたまま、静かに息をひきとった。
 ナディアの病気は、下痢からくる脱水症状だった。安全な飲み水の供給と衛生教育さえしっかりしていれば、防げる下痢……。糖分と塩分を溶かすだけの誰でも簡単に作れる飲料水で、応急手当ができる脱水症状……。
 誰の神様でもいいから、ぶん殴りたかった。天を仰いで、まわりを見回した途端、ナディアを殺した化け物を見た。きらびやかな都会がそこにある。最先端をいく技術と、優秀な才能と、膨大な富が溢れる都会がある。でも私の腕には、命尽きたナディアが眠る。悪統治。民の苦しみなど気にもかけない為政者の仕業と、直感した。
 脊髄に火がついたような気がした。

【『国をつくるという仕事』西水美恵子〈にしみず・みえこ〉(英治出版、2009年)】

 ナディアの死が西水の人生を変えた。不正が罪なき人を殺す現場に遭遇した瞬間、それまでは自分のものであった人生を、彼女は貧しい人々に捧げることを決意した。

 本をどう読むかは、「人をどう見るか」、「人生をどう生きるか」といった次元に連なっている。そこに如何なる価値を見出し、反価値(マイナス価値)を見定めるか――物語を読み解く営みの本質はこの一点にある。手放しの称賛は目を曇らせる。頭ごなしの批判は目を閉じさせる。仏像が半眼(はんがん)であるのは、あの世とこの世を見つめているとされているが、結局のところは“正視眼”(せいしがん)の肝要さを示しているのだろう。

 本書は西水の経験に即して書かれており、世界銀行という存在の正当性については全く触れられていない。例えば、ブッシュ政権で国防副長官を務めたポール・ウォルフォウィッツが、その後世界銀行の総裁に就任している。彼は「米国で最も強硬なタカ派政治家」だよ。タカ派というのは、舌禍(ぜっか)でもって世論に波風を立て、センセーショナルな言動をぶちまけて世論を誘導しようと目論む。石原慎太郎のように。エゴが国家の名をまとうと、何となく説得力を持ってしまう。さしたる考えもなしで、「やっぱり、俺も日本人だからなあ」と頷いてしまう。ここが恐ろしい。

愛国心への疑問/『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆

 チト、余談が過ぎた。ま、そんなわけで物足りなさを感じはするものの、西水というサザエさんは本気で仕事をした。副総裁となった彼女が接する相手は国家元首クラスの連中だ。彼等の前で常識を説くことが、どれほど勇気を要することか。だが、胸にナディアを抱く西水は、真っ直ぐな言葉を浴びせる。

 決して一筋縄ではいかない国際舞台で、一人の日本人女性が必死で貧しい人々の側に立って、与えられたポジションを最大限に利用し、奮闘した足跡が綴られている。悪しき権力者に対して、西水の筆鋒は鋭さを増す。遠慮するところが全くない。その意味で本書は、「権力の正しい使い方」を描いた作品といってよい。

 民主党政権は西水を閣僚に起用すべきだった。

 尚、余談となるが田坂広志の「解説」が薄気味悪い。まるで新興宗教の教祖みたいだ。

国をつくるという仕事
西水 美恵子
英治出版 (2009-04-07)
売り上げランキング: 272,385

モンサント社が開発するターミネーター技術/『自殺する種子 アグロバイオ企業が食を支配する』安田節子
ソフィアバンク
ガバナンス・リーダーシップ考:西水美恵子

2009-10-04

現在をコントロールするものは過去をコントロールする/『一九八四年』ジョージ・オーウェル


『すばらしい新世界』オルダス・ハクスリー:黒原敏行訳

 ・現在をコントロールするものは過去をコントロールする
 ・修正し、改竄を施し、捏造を加え、書き換えられた歴史が「風化」してゆく

『華氏451度』レイ・ブラッドベリ

必読書リスト その五

 ディストピア小説の傑作が新訳で蘇った。信じ難いほど読みやすくなっている。高橋和久が救世主に思えるほどだ。世界を読み解く上で不可欠の一書である。舞台設定を未来にすることで、権力の本質が管理・監視・暴力にあることを描き切っている。一見、戯画化しているように思われるが、むしろ細密なデフォルメというべき作品だ。

 それにしてもこんなに面白かったとは! 私は舌なめずりしながらページをめくった。権力は、それを受け容れる人々を無気力にし、自由を求める者には容赦なく暴力を振るう。暴力を振るわなければ維持できない性質が権力にはある。

 優れた小説は人間精神の深奥に迫る。そして精神の力は、肉体に加えられる暴力によって試される。アラブ小説が凄いのは、「想像力としての暴力」ではなく、「現実の暴力」に立脚しているためだ。

 もう一つの太いテーマは、「歴史と記憶」である。権力者は歴史を修正し改竄(かいざん)する。なぜなら、権力の正当性は常に過去に存在するからだ。過去は現在という一点に凝縮され、その現在は未来をも包摂している。つまり、過去と未来は現在を通してつながっているのだ。このため、過去に異なる情報が上書きされると、現在の意味が変質し、未来までもが権力者にとって都合のいいように書き換えることが可能となる――

 党は、オセアニアは過去一度としてユーラシアと同盟を結んでいないと言っている。しかし彼、ウィンストン・スミスは知っている、オセアニアはわずか4年前にはユーラシアと同盟関係にあったのだ。だが、その知識はどこに存在するというのか。彼の意識の中にだけ存在するのであって、それもじきに抹消されてしまうに違いない。そして他の誰もが党の押し付ける嘘を受け入れることになれば――すべての記録が同じ作り話を記すことになれば――その嘘は歴史へと移行し、真実になってしまう。党のスローガンは言う、“過去をコントロールするものは未来をコントロールし、現在をコントロールするものは過去をコントロールする”と。それなのに、過去は、変更可能な性質を帯びているにもかかわらず、これまで変更されたことなどない、というわけだ。現在真実であるものは永遠の昔から真実である、というわけだ。実に単純なこと。必要なのは自分の記憶を打ち負かし、その勝利を際限(さいげん)なく続けることだ。それが〈現実コントロール〉と呼ばれているものであり、ニュースピークで言う〈二重思考〉なのだ。

【『一九八四年』ジョージ・オーウェル:高橋和久訳(ハヤカワepi文庫、2009年/吉田健一・龍口直太郎訳、文藝春秋新社、1950年/『世界SF全集10 ハックスリイ オーウェル』村松達雄・新庄哲夫訳、早川書房、1968年新庄哲夫訳、ハヤカワ文庫、1972年)】

 恐ろしいことに記憶よりも記録が歴史を司る。そして、記録が抹消されれば過去の改竄はたやすく行われる。移ろいやすく変質しやすい記憶は、記録によって塗り替えられる。

「過去をコントロールするものは未来をコントロールし、現在をコントロールするものは過去をコントロールする」という党のスローガンはこの上なく正しい。民衆をコントロールできる権力者は、歴史をもコントロールできるのだ。

 仏教では権力者の本質を「他化自在天」(たけじざいてん)と説いた。「他を化(け)すること自在」というのだ。しかも、人界の上の天界が住処となっているから、上層で君臨している。本書に照らせば、「他」というのは「他人の記憶」までもが含まれることになる。

 二重思考(ダブルシンク)は人間の業(ごう)ともいうべき性質である。例えば理性と感情、分析と直観、意識と無意識など我々はいつでもどこでも二重性に取り憑かれている。なぜなら、人間の脳が二つ(右脳と左脳)に分かれているからだ。そう考えると、人間は元々分裂した状態にあると考えることも可能だ。

 そして権力者は人々を分断する。自他の間に懸隔をつくり出す。悪の本質はデバイド(割り→分断)にある。

 オーウェルが象徴的に描き出したビッグ・ブラザーは社会のそこここに存在する。それにしてもオーウェルはとんでもない宿題を残してくれたもんだ。

【問い】ビッグ・ブラザーのような権力者とあなたはどのように戦えるかを答えなさい。制限時間は死ぬまで。

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)
ジョージ・オーウェル
早川書房
売り上げランキング: 989

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