・ただひとりあること~単独性と孤独性
・三人の敬虔なる利己主義者
・僧侶、学者、運動家
・本覚思想とは時間論
・本覚思想とは時間的有限性の打破
・一体化への願望
・音楽を聴く行為は逃避である
・『生と覚醒のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 2』J・クリシュナムルティ
・『生と覚醒のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 3』J・クリシュナムルティ
・『生と覚醒のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 4』J・クリシュナムルティ
先日、三人の敬虔な利己主義者が私のところにやってきた。一人は、〈サンニャーシ〉、世俗を断念した人物であった。二番目は、東洋学者(オリエンタリスト)であり、同朋愛の熱烈な支持者であった。三番目は、すばらしいユートピアの実現を確信している活動家であった。三者はそれぞれ、各自の仕事を熱心に務めていたが、他の二人の心的傾向や行動を見下(くだ)しており、各自の確信によって身を固めていた。いずれもその特定の信念形態に激しく執着しており、三人とも奇妙な具合に他人に対する思いやりが欠けていた。
かれら三人は――ユートピア主義者は殊にそうであったが――自分の信ずることのためであれば、自分自身だけでなく友愛をも犠牲にする覚悟がある、と私に言った。かれら三人は――同朋愛の士はとりわけそうであったが――温厚な様子であったが、そこには心の硬さと、優秀な人間特有の奇妙な偏狭さがあった。自分たちは選ばれた人間であり、他人に説明して聞かせる人間であった。かれらは知っており、確信を持っているのであった。
【『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1984年)】
大衆とは労働者の異名である。ビジネスパーソンと言い換えれば颯爽とした印象を受けるが、所詮形を変えた奴隷にすぎない。こうした搾取に抵抗する立場が僧侶、学者、運動家であろう。温度やアプローチ方法は異なるが彼らは一様に社会改革を目指す。
「三人の敬虔な利己主義者」は「他の二人の心的傾向や行動を見下(くだ)しており、各自の確信によって身を固めていた」――絶妙な表現だ。彼らは「自分こそが正しい」と考える人々であった。普通の頭を持っていれば「自分以外はすべて誤っている」という思い込みが幼稚な傲慢であることに気づく。しかし彼らは気づかない。「自分たちの理想を疑う」ことを知らないためだ。理想の奴隷と化した彼らは必然的に他の人々を手段化する。過激な原理に彩られた政治・宗教を見よ。随所に様々な様相をした自爆テロが見受けられる。
三人はそれぞれクリシュナムルティを説得したに違いない。自分たちの側にクリシュナムルティを引き入れようと試みた可能性もある。だがクリシュナムルティはただ彼らをじっと見つめ、あるがままの姿を観察していた。賛否や評価から離れた筆致が玲瓏(れいろう)な月光を思わせる。【続く】
・『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ
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