・『動乱はわが掌中にあり 情報将校明石元二郎の日露戦争』水木楊
・『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』石光真人
・『守城の人 明治人柴五郎大将の生涯』村上兵衛
・白虎隊の落し児、柴五郎
・『日露戦争を演出した男 モリソン』ウッドハウス暎子
・『辛亥革命とG・E・モリソン 日中対決への道』ウッドハウス暎子
・『國破れてマッカーサー』西鋭夫
・日本の近代史を学ぶ
白虎隊の落し児、柴五郎
交民巷の要・王府の防衛は、籠城者全員の命にかかわる。この大役を柴が担い、日本軍は度胸をすえた。そこへ、イタリア軍がのこのこ入ってきた。このイタリア兵と日本兵の組合せが実に奇妙で、イタリア兵は心ならずも日本兵の引立て役を演ずることになってしまった。それについては、外国人の口から語ってもらおう。以下は、ピーター・フレミングの著書『北京籠城』の一節である。
「戦略上の最重要地・王府では、日本兵が守備のバックボーンであり、頭脳であった。日本を補佐したのは頼りにならないイタリア兵で、日本を補強したのはイギリス義勇兵であった。
日本軍を指揮した柴中佐は、籠城中のどの国の士官よりも有能で経験も豊かであったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。当時、日本人とつき合う欧米人はほとんどいなかったが、この籠城を通じてそれが変わった。日本人の姿が模範生として、みなの目に映るようになったからだ。日本人の勇気、信頼性そして明朗さは、籠城者一同の賞賛の的となった。籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも間接的にも、一言の非難も浴びていないのは、日本人だけである」
P・C・スミス嬢の前述の書における柴観は次の通り。
「柴中佐は小柄な素晴らしい人です。彼が交民巷で現在の地位を占めるようになったのは、一に彼の智力と実行力によるものです。なぜならば、第1回目(6月21日)の朝の会議では、各国公使も守備隊指揮官も別に柴中佐の見解を求めようとはしませんでしたし、柴中佐も特に発言しようとはしなかったと思います。でも、今(7月2日)では、すべてが変わりました。柴中佐は王府での絶え間ない激戦で怪腕を奮(ママ)い、偉大な将校であることを実証したからです。だから今では、すべての国の指揮官が、柴中佐の見解と支援を求めるようになったのです」
スミスの記述にはだんだん熱が入り、柴から日本兵へ、そしてイタリア兵へと及んでいく。
「彼(柴中佐)の部下の日本兵は、いつまでも長時間バリケードの後に勇敢にかまえています。その様子は、柴中佐の下でやはり王府の守護にあたっているイタリア兵とは大違いです。北京に来ているイタリア兵はイタリア本国の中でも最低の兵隊たちなのだ、と私はイタリアの名誉のためにも思いたいくらいです」
清帝国海関勤めのイギリス人下級職員、23歳のB・レノックス・シンプソン(ペンネームはパットナム・ウイール)は、籠城中、義勇兵となり、柴のもとに派遣されて戦った。彼は当時の日記を、1907年になって出版した。『率直な北京便り』というその題が示すように、実に遠慮のない日記である。彼の6月21日付日記をみよう。
「数十人の義勇兵を補佐として持っただけの小勢日本軍は、王府の高い壁の守護にあたった。その壁はどこまでも延々と続き、それを守るには少なくとも500名の兵を必要とした。しかし、日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。公使館付武官・柴中佐である。彼は他の日本人と同様、ぶざまで硬直した足をしているが、真剣そのもので、もうすでに出来ることと出来ないこととの見境をつけていた。ぼくは長時間かけて各国受持ちの部署を視察して回ったが、ここで初めて組織化された集団をみた。
この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめ込んでいた。彼は自分の注意を要する何千という詳細事を処理することに成功していた。彼は部下たちを組織化し、さらに、大勢の教民を召集して前線を強化した。実のところ、彼はなすべきことはすべてした。ぼくは自分がすでにこの小男に傾倒していることを感じる。ぼくは間もなく、彼の奴隷になってもいいと思うようになるだろう」
このように、ウイール青年は籠城第1日目にして、柴にほれこんでいる。
【『北京燃ゆ 義和団事変とモリソン』ウッドハウス暎子(東洋経済新報社、1989年)】
柴五郎 pic.twitter.com/xmiIJz6o1x
— 小野不一 (@fuitsuono) 2015年12月19日
ウッドハウス暎子はジョージ・アーネスト・モリソン(タイムズ紙特派員/1862-1920年)の研究者である。著作はすべてモリソンに関するもので、ジャーナリストが歴史を見つめ、歴史を動かしゆく様を実証的に描く。カテゴリーを「自伝・評伝」としたが学術書である。
日清戦争(1894-95年)後、義和団という白蓮教(びゃくれんきょう)の秘密結社が貧困に喘ぐ農民を糾合して戦闘に至ったのが義和団事変(北清事変/1900-01年)である。
義和団は清国各地で外国人やクリスチャンを襲撃した。言うなれば帝国主義・キリスト教宣教に対する攘夷運動である。北京にあった列国大公使館区域に襲いかかり、西太后がこれを支持したことで戦争状態に突入した。最終的には日本を含む8ヶ国の連合軍が出動して鎮圧したが、公使館区域での籠城(ろうじょう)は2ヶ月間に及んだ。
阿片戦争(1840-42年)からの100年は中国大陸にとって蹂躙(じゅうりん)の季節だった。結局、清朝は亡び、中華民国は台湾へ追いやられた。鬱屈したエネルギーが共産主義革命の原動力となったに違いない。
阿片戦争は日本の進路をも変えた。明治維新の直接的なきっかけとなったのは黒船来航(1853年)だが、指導層や知識人の問題意識は阿片戦争によって生まれた。
大航海時代(15世紀半ば-17世紀半ば)を通して帝国主義が生まれ、ヨーロッパ人はキリスト教宣教の旗をなびかせながら有色人種を殺戮(さつりく)し、あるいは奴隷にした。逸(いち)早くそれに気づいた日本は鎖国(1639-1854年)をして侵略から防いだ。そのおかげで戦乱とは無縁の平和な時代が200年にも渡った。
選民思想はユダヤ教に基づくものだがキリスト教もこれを受け継いでいる。神を理解せぬ者は虫けら以下の扱いを受ける。我々のような「一寸の虫にも五分の魂」という情緒は彼らに通用しない。虫に魂を認めないのが西洋の流儀である。血塗られた思想は20世紀に入りナチズムと共産主義の母胎となった。
薩長の陰謀によって逆賊とされた会津藩出身の柴五郎がヨーロッパ人からの信頼を勝ち得たことに妙味を覚えてならない。しかも事変が起こった翌日は柴の40歳の誕生日であった。北京籠城を共にしたモリソンの報道や、イギリス公使クロード・マクドナルドの柴に対する篤い信頼が、やがて日英同盟(1902年)として花開く。1822年から「光栄ある孤立」を貫いてきたイギリスが初めての同盟国に選んだのが日本であった。
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