・『勝海舟』子母澤寛
・『青い空』海老沢泰久
・『氷川清話』勝海舟
・百年の後に知己を待つ
・『新訂 海舟座談』巌本善治編、勝部真長校注
世に具眼(ぐがん)の士があるから、それから笑はれるからネ。あンな事に同じやうに騒いでいると言はれるのが、いやだ。
玄徳だってさうだ。たツた、孔明一人を見抜いて、「あれに」といふので、ヤイヤイ引張り出した。孔明でも、一人で出て行つて、どうか、かうか、やったぢやアないか。昔から、みンな、同じ事で、チヤンときまつているよ。百年の後に、知己を待つのだ。なにが、わかるものか。昔から、大功の有つた人は、人が知らないよ。久しうして後にわかるのだ。それが、大変好きで、昔から、それを守つたよ。ナニ、忠義の士といふものがあつて、国をつぶすのだ。己のやうな、大不忠、大不義のものがなければならぬ。
ナアニ、維新の事は、己と西郷でやつたのサ。西郷の尻馬にのつて、明治の功臣もなにもあるものか。自分が元勲だと思ふから、コウなつたのだ。
江戸の明け渡しの時は、スツカリ準備がしてあつたのサ。イヤだと言やあ、仕方がない。あつちが無辜(むこ)の民を殺す前に、コチラから焼打(やきうち)のつもりサ。爆裂弾でも大層なものだつたよ。あとで、品川沖へ棄てるのが骨サ。治(おさま)つてから、西郷と話して、「あの時は、ひどい目にあはせてやらうかと思つてた」と言つたら、西郷め、「アハハ、その手は食はんつもりでした」と言つたよ。
ナアニ、己の方よりか西郷はひどい目にあつたよ。勝に欺(だま)されたのだと謂(い)つて、ソレワソレワ、ひどい目にあつたよ。
【『海舟語録』勝海舟〈かつ・かいしゅう〉:江藤淳〈えとう・じゅん〉・松浦玲〈まつうら・れい〉編(講談社学術文庫、2004年)】
「己」は「おれ」と読む。因みに乃公(だいこう、ないこう)も「おれ」と読む。促音・拗音(ようおん)の表記については1月2日14:00以降のツイートを参照せよ。
底本:本書は講談社文庫『海舟語録・付 海舟歌集抄』(1975年刊)を底本とし、「海舟詩歌集抄」については割愛した。
【『海舟語録』(勝海舟,江藤淳,松浦玲):講談社学術文庫|講談社BOOK倶楽部】
『氷川清話』と比べると発言が生々しすぎて読みにくい。文字通り聞き書きの体裁である。その息遣いを感じることができれば面白いのだろうが、私の感覚は追いつけなかった。
勝海舟は好き嫌いの大きく分かれる人物で、その饒舌が災いしたと見る向きも多い。例えば上記の談話においても、江戸開城の最大の功労者である山岡鉄舟について触れていない。
・その人間性は、西郷隆盛をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛させた。
・致仕後、勲三等に叙せられたが、拒否している。勲章を持参した井上馨に、「お前さんが勲一等で、おれに勲三等を持って来るのは少し間違ってるじゃないか。(中略)維新のしめくくりは、西郷とおれの二人で当たったのだ。おれから見れば、お前さんなんかふんどしかつぎじゃねえか」と啖呵を切った。
【Wikipedia > 山岡鉄舟】
東京は山の手と下町では風土が大きく異なる。もともと道産子の私が下町の亀戸(かめいど)で過ごして山の手に嫌悪感を抱くほどである。古今亭志ん生の落語を聴いてもわかる通り、江戸っ子はしみったれが多い。小さなことに、やいのやいのと言うのが下町の気風だ。人情とお節介と悪口がごたまぜになっている世界だ。ただ、嘘がないことは確かだ。口が悪いのはもっと確かだが。
勝海舟の話は大勢の聴衆に向かってなされたものではない。ゆえにそれを以て大法螺(おおぼら)とするのは行き過ぎだろう。床屋で語られた歴史証言と受け止めるのが正しいと思う。
勝海舟は明治32年(1899年)に75歳で没した。果たして百年を経てどのくらいの知己がいるだろうか?
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