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2015-07-17

特集『KANO 1931海の向こうの甲子園』馬志翔(マー・ジーシアン)監督


『海角七号 君想う、国境の南』魏徳聖(ウェイ・ダーション)監督
『セデック・バレ』魏徳聖(ウェイ・ダーション)監督

 ・『KANO 1931海の向こうの甲子園』馬志翔(マー・ジーシアン)監督

『台湾を愛した日本人 土木技師 八田與一の生涯』古川勝三

 ウェイ・ダーション(プロデュース、脚本)がマー・ジーシアンを監督に起用したようだ。マー・ジーシアンは『セデック・バレ』の主要キャストだった。実に不思議なことだが近藤兵太郎〈こんどう・ひょうたろう〉が監督に就任した1931年は霧社事件が起こった翌年に当たる。











台湾コメディの快作/『海角七号 君想う、国境の南』魏徳聖(ウェイ・ダーション)監督


 ・台湾コメディの快作
 ・フィナーレ

『セデック・バレ』魏徳聖(ウェイ・ダーション)監督
『KANO 1931海の向こうの甲子園』馬志翔(マー・ジーシアン)監督

 ウェイ・ダーション監督が『セデック・バレ』の資金を集めるために制作した映画である。ウェイ・ダーションが関わった最新作は『KANO 1931海の向こうの甲子園』(馬志翔〈マー・ジーシアン〉監督)でいずれも日本統治時代の台湾が背景となっている。


『海角七号 君想う、国境の南』をまだ観ていない人は絶対にネット上で情報を検索してはならない。Wikipediaもダメだ。映画の重要な仕掛けがあちこちで紹介されているためだ。

 町長が経営するリゾートホテルで日本人ミュージシャン(中孝介〈あたり・こうすけ〉)が台湾でコンサートを行う。そこへ次期町長を狙う町議会の議長が横槍を入れる。議長は地域の発展だけを願うコテコテの保守政治家である。「地元メンバーによる前座を起用しなければコンサートを潰す」と脅した。モデル崩れの友子が通訳兼コーディネーターを務める。前座バンドの中心となるのは阿嘉(アガ)という夢破れたミュージシャンで彼は郵便配達をしていた。「海角七号」という古い住所が記された宛先不明の郵便物が現れる。そこには戦争に引き裂かれた日本人男性と台湾人女性を巡る悲しい恋の物語が記されていた。

 最初の30分ほどはやや忍耐を要する。だが教会のシーンあたりから突然コミカル度が急上昇する。牧師(※台湾キリスト教の最大勢力は長老教会なので多分プロテスタントだろう。カトリックだと「神父」)とピアノを演奏する少女の対比に大笑い。この冷めた少女が前座バンドのキーボートを担当するが終始一貫して面白い。

 やはり日本映画と比べるとキャスティングが際立つ。甘いマスクの阿嘉(アガ)と元特殊部隊だった警官でルカイ族のローマーは、どこか『プリズン・ブレイク』の主役兄弟を思わせる雰囲気が漂う。

「海角七号」宛てのラブレターはナレーションで随所に挿入される。もちろん日本語だ。台湾で公開された時リピーターが多かったのも頷ける。観客はラブレターの内容を確認したかったのだろう。

 60年前と現在が交錯し、友子と友子が交錯し、台湾人と日本人が交錯する。アガと友子は夢破れて傷つく二人であった。映画はクライマックスに向かって二人の再生を描く。構成の妙。

 アガと友子のラブシーンが唐突で興醒めするが、ま、構わない。そもそもコメディや風刺というものは常識を基準としており、そのステレオタイプが理解できないと笑えない。きっと感情は陳腐なものを好むのだろう。

 練習の時はドタバタバンドっぽかったのが本番となると音が変わる。2曲目のバラードは「海角七号」との題名で60年前の友子と現在の友子を歌ったものだ。ここから畳み込むようにドラマが展開され、最後の最後であっと驚くひとひねりが挿入されている。エンディングも秀逸。

 監督に力みがなかった分だけ映画の完成度が高い。作品の構成という点では『セデック・バレ』よりも優れている。友子役を演じたのは田中千絵という女優で、たまたま彼女の中国語ブログを見た監督が起用したという。「8か月の留学を終えて、日本に帰ろうとしていた二週間前に、この映画の話が舞い込んできた」(台湾で活躍する日本人7『田中千絵』インタビュー)。役どころと本人までもが交錯していたことになる。

【付記】前座バンドによる乗りのいい曲はザ・ガスライト・アンセム「The '59 Sound」のパクリっぽい。尚、「『野玫瑰』(野ばら)は日本統治時代の小学校での代表的な唱歌であり、台湾が日本統治を離れた後も、中国国民党軍政権に排斥された日本文化の中で、ドイツのフランツ・シューベルトの作曲ということで、かろうじて日本統治世代に受け継がれてきたもので、日本と台湾を結び付ける象徴となっている」(Wikipedia)とのこと。

海角七号/君想う、国境の南 [DVD]
(DVDが何と927円)

2015-07-15

藤原美子に惹かれて/『劒岳 点の記』木村大作監督


 2009年公開。藤原美子〈ふじわら・よしこ〉著『夫の悪夢』(文藝春秋、2010年/文春文庫、2012年)で知った。義父の新田次郎原作なので、軽い調子で監督に「息子を出させてもらえませんか?」と言ったところ、「坊主頭にするならOK」との返事。何と藤原美子まで出演することとなった。尚、試写会には皇太子殿下が訪れ、藤原夫妻と懇談されている。藤原正彦は驚くべきことに皇太子の前でも平然と冗談を放つ。

 ま、藤原美子のエッセイに惹かれて、その勢いで観てしまったのだが、やはり感情に任せたのが失敗であった。舞台となるのは北アルプスの立山連峰である。見たこともないような景色が次から次へと出てくる。特徴を一言でいってしまえば風景映画である。

 剱岳(つるぎだけ)の標高が2999メートルで三等三角点が2997メートルに位置する。暴風雨のシーンもあるがとにかく凄まじい。3000メートル級でこれほど苛酷な世界なのだから、エベレスト(8848メートル)を始めとする8000メートルともなれば異次元の世界と言ってよいのだろう。

 藤原は役所広司の妻役でワンシーンだけ登場。科白(せりふ)が棒読みのところを見ると、嘘をつくのが下手なタイプのようだ。

 山の映画であるにもかかわらずヤマ場がない。ストーリーの起伏を欠くこともさることながら、役所広司以外はミスキャストとしか思えない。仮に芸能プロダクションの意向を呑んだとしても酷すぎる。シナリオもおよそ明治時代に似つかわしくない言葉づかいが目立ち、惨憺たる結果となっている。



劒岳 〈点の記〉 (文春文庫)夫の悪夢 (文春文庫)

2015-07-11

荒ぶる魂、ほとばしる生命力/『セデック・バレ』魏徳聖(ウェイ・ダーション)監督


『海角七号 君想う、国境の南』魏徳聖(ウェイ・ダーション)監督

 ・荒ぶる魂、ほとばしる生命力

セデック族に聞く! 霧社事件はなぜ起こったか?
『KANO 1931海の向こうの甲子園』馬志翔(マー・ジーシアン)監督
『台湾を愛した日本人 土木技師 八田與一の生涯』古川勝三
『街道をゆく 40 台湾紀行』司馬遼太郎
『台湾高砂族の音楽』黒沢隆朝

 twitterで教えてもらった台湾映画『セデック・バレ』(「真の人」という意味)を観た。凄まじい映画であった。「一部 太陽旗」「二部 虹の橋」で4時間36分の長尺。日本統治下で起こった霧社事件(1930年/昭和5年)を描く。

Difang(ディファン/郭英男)の衝撃

 監督の名前はウェイ・ダーシェンという表記もある。英語名が「Wei Te-Sheng」なので正確には「ウェイ・テシェン」という発音か。この作品に掛けた監督の本気は並々ならぬものがある。最初にウェイ・ダーションは600万円の私費を投じて以下のデモ映像をつくる。


 次に監督は資金集めの目的でまったく別の映画『海角七号 君想う、国境の南』(2008年)を制作する。


 口コミで人気が高まり、『タイタニック』に次ぐ興行成績を収めた。それでも資金は足りなかったようで、ビビアン・スーは格安のギャラで出演した上、資金提供も行っている(資金援助も話題に 「セデック・バレ」で台湾先住民演じたビビアン・スー)。尚、彼女の母親はタイヤル族であり、セデック族は最近になって公認された部族でタイヤル族系である。

『セデック・バレ』の国際的な評価は惨憺(さんたん)たるものである。

抗日映画「セデックバレ」に各国メディア酷評!「残酷」「過度の民族主義」―ベネチア映画祭

 個人的には魔女狩りで同胞を殺戮し、黒人を奴隷にし、インディアンを虐殺し、世界中を植民地化した挙げ句に惨殺・強姦を行ってきた白人に文句を言われたくはない。とはいえ、第一部を見ながらどうしても行き詰まってしまうのはやはり「首狩り」(出草/しゅっそう)である。つまり、首狩りをどのように理解するかでこの映画の評価は分かれる。

 日本においても武士は合戦で敵の首級(しゅきゅう)を挙げるという伝統があった。戦が終わると首実検が行われ、論功行賞が確定する。ま、我々の先祖も首狩り族と見てよい。首級は「しるし」とも読む。すなわち首はメディアであった。高砂族(たかさごぞく/台湾原住民の総称)の殆どは文字を持たなかった。首狩りは証拠保全の一つと考えられよう。

 それでも「なぜ首狩りが始まったのか?」という疑問が払拭できない。本作品の致命的な失敗は首狩りの必要性・根拠をまったく示していないところにあり、これによってストーリーが破綻(はたん)を来(きた)している。第一部を観ながら「首狩りとは何ぞや?」と私の脳はフル回転をした。

 ストーリーを追うとどうしてもついてゆけなくなる。そこで私は論理を司る左脳のスイッチを落とした。途端にわかった。かつて人間は「もの言う存在」であったのだろう。白川静は漢字の口部を「■(サイ)」と見抜いた(『白川静の世界 漢字のものがたり』別冊太陽)。■(サイ)は祝詞(のりと)を入れる箱であるが、書かれた文字の重みは元々言葉が持っていた重みであったのだろう。文字が生まれる前は論理や思考よりも、直観や閃(ひらめ)きが優位であったことと想像する。これを古代社会の宗教性と言い換えてもよい。神は右脳に御座(おわ)し(『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ)、サードマン現象も右脳で発生する(『サードマン 奇跡の生還へ導く人』ジョン・ガイガー)。首は脳や顔よりも、口を奪うところに目的があったと私は考える。

 首狩りがセデック族の荒ぶる魂の象徴とすれば、山谷を駆ける姿がほとばしる生命力を表す。「走る映画」といえば真っ先に『ポストマン・ブルース』が思い出されるがその非ではない。彼らは岩場ですらものともしない。たぶん、ランボーより強いよ。


 彼らの足は手のように開いている。霧社事件から11年後、大東亜戦争で高砂義勇隊が結成される。高砂族は日本人となってフィリピン、ニューギニアで大活躍をするが、当初は却下されていたものの戦局が行き詰まると「靴を脱ぐ」ことを許された。彼らの足は手のように大地をつかむことができたことだろう。

 出演者の殆どが台湾原住民と日本人で実は中国語が使われていない。しかも主役のモーナ・ルダオを始めとする主要キャストの大半が映画初出演である(公式サイト:キャスト)。明らかに日本人キャストが見劣りする。学芸会レベルにしか見えなかった。

 そしてやはり注目すべきはセデック族の「歌」である。時に優しく時に勇壮な歌声が不思議なほど血液の温度を上げる。彼らの顔は琉球とそっくりで、入れ墨や口琴(こうきん)、衣服の意匠はアイヌを思わせ、踊る姿は縄文人さながらである。もちろんインディアンとも酷似している。尚、台湾原住民はオーストロネシア語族であるが、かつてはインドネシア・フィリピン方面から渡ってきたと考えられてきたが、現在は台湾から南下したと判断されている。




 更にモーナ・ルダオが大地を踏みしめる舞は相撲の四股(しこ)とよく似ている。

 首狩りは勇気の証(あかし)であった。我々は首狩りをやめた。そして資本主義文明のもとで「カネ狩り」を行っている。経済的に見れば「カネは命」である。だから借金を苦にして自殺する人や、カネを奪うために殺人に手を染める者が出てくるのだ。これが「長期的な時間をかけた首狩り」でなくて何であろう? そして文明は知恵に重きを置き、知恵は知識となって共有される。「我々が行う首狩り」に勇気は認められない。きっと文明の進歩は人類から勇気を奪ってしまったのだろう。

 狩猟民族にとって狩場の死守は民族の存亡に関わるものゆえ、首狩りを女たちが喜んだのは当然だ。子孫の生存率が高まるわけだから。

 映画における最大の脚色はセデック族が日本軍を殺害するシーンである。実際の死者は「日本軍兵士22人、警察官6人、のみであった」(Wikipedia)。尚、モーナ・ルダオの妻やそれ以外の女性たちの振る舞いは史実に基いている。

 冒頭シーンの声とラスト近くの子供の声が信じらないほど美しく優しく響く。涙が込み上げくるほどだ。この声を聴くだけでも視聴に値する。

 霧社事件を通して少年たちが戦士へと変貌する。セデック族が夢見た「虹の橋」を超える理想を我々は持たない。彼らの首狩りと比べれば、映画や漫画の暴力シーンはあまりにも安っぽい。失った勇気を取り戻すためにもこの映画は広く見られるべきだ。

 映画の基調としては反日色が濃い。「よい日本人も描いている」との評価は甘い。ステレオタイプの威張り散らす日本人が殆どで、描き方としては拙劣だ。霧社事件には長年にわたる複雑な背景があり、文明移行期に生じた真空と解釈すべきだろう。単純な抗日行為ではなく、モーナ・ルダオ自身の政治的思惑もあったはずだ。その意味で私は幕末期に起こった会津戦争と霧社事件は似た性質があったと考える。セデック族は白虎隊であった。
セデック・バレ 第一部:太陽旗/第二部:虹の橋【豪華版 3枚組】[DVD]餘生~セデック・バレの真実 [DVD]セデックバレ(賽德克.巴萊) OST (台湾盤)

霧社事件
モーナ・ルダオの遺骨
恋愛茶番劇/『ラスト・オブ・モヒカン』マイケル・マン監督
会津戦争の悲劇/『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』石光真人

2015-07-03

観ることでビンラディン暗殺に加担させられる/『ゼロ・ダーク・サーティ』キャスリン・ビグロー監督


 タイトルは「深夜零時半」の意味。米軍の軍事用語らしい。ウサマ・ビンラディン暗殺に至るCIAの暗闘を描いた作品である。観終えた後で女性監督と知り、ちょっと驚いた。しかもキャスリン・ビグローは美形で身重が182cmとのこと。元モデル、元ジェームズ・キャメロン監督夫人という過去の持ち主。主役の女性CIA分析官を演じるのはジェシカ・チャステインで、生まれたばかりの鳥みたいな顔をしている。監督が男性であれば、このキャスティングはなかったことだろう。彼女の風貌が強いリアリティを生んでいる。

 映画はアルカイダメンバーの拷問シーンから始まる。殴打と水責め。ウォーターボーディングについて「アメリカでは短期的な適用は身体的は損傷を起こさないため拷問ではなく尋問であると主張され、水責め尋問禁止法案が民主党主導で上下両院を通過したがブッシュ大統領が拒否権を発動して廃案となった」(Wikipedia)。その後オバマ大統領が禁止したために、CIAは法律を遵守(じゅんしゅ)すべく、グァンタナモ収容所など国外で拷問を行っている。もちろん中東での拷問も国内法は適用されない。

 優秀な諜報員の執念がビンラディンの居場所を突き止める。同僚を殺害され、彼女は変貌する。CIAの上司にも歯向かう。確たる証拠がないため、彼女の情報は数年間にもわたって無視され続けた。

 正義はさほど感じない。ある集団の内部で一人の人間が感情に駆り立てられ、信念のまま突っ走り、願望を実現したというだけの物語である。冷めた目で見れば、悲しいまでにサラリーマン的な姿である。「相手を殺す」という目標だけ見れば、テロリストと完全に同じ次元で仕事をしていることがよくわかる。つまりテロリストの側にカメラを置けば――森達也監督『A』のように――まったく同じドラマを作成することが可能となる。

 観ることでビンラディン暗殺に加担させられる。そんな映画だ。



2015-01-24

秀逸な文体を味わう/『ダニー・ザ・ドッグ』ルイ・レテリエ監督


『名探偵モンク』のような秀作を見ると、他のドラマを見る気が失せる。元々、『ブレイキング・バッド』は数回見て挫け、『パーソン・オブ・インタレスト 犯罪予知ユニット』はシーズン2の途中でやめ、『プリズナーズ・オブ・ウォー』、『Dr. HOUSE』、『メンタリスト』、『チョーズン:選択の行方』、『ALPHAS/アルファズ』と挫折が続いた。

「カネをかけてヒット作を狙う」あざとい精神がリアリティを見失っているのだろう。視聴者をただ驚かせようとしていて、共感を排除する傾向が顕著だ。

 疲れ果てた私が思い出したのは映画『ダニー・ザ・ドッグ』であった。


「超映画批評」の前田有一氏が秀逸なレビューを書いている。

『ダニー・ザ・ドッグ』20点

「我が意を得たり」という批評である。それでも尚、面白いものは面白いのだ。私が映画作品を二度見ることは滅多にない。

『ダニー・ザ・ドッグ』は荒唐無稽なストーリーを秀逸な文体(脚本)で描いた作品だ。しかも場面展開が速いので最後まで飽きることがない。

 はっきりと書いておくが最大の問題は有色人種であるダニー(ジェット・リー)を犬扱いしていることで、拭い難い人種差別意識に蔽(おお)われている。ダニーを救うサム(モーガン・フリーマン)は黒人だが、娘のヴィクトリア(ケリー・コンドン)と血のつながりはない。そしてダニーの首輪を外したのがヴィクトリアである事実を思えば、やはり抑圧された人種を救う白人という構図が浮かんでくる。尚且つ、ダニーは文化と無縁という設定になっている。

 ケリー・コンドンは17歳という設定だが実に可愛い。まるで「赤毛のアン」さながらである。決して美人ではないのだが、髪型やファッション(モーガン・フリーマンもそうだがカーディガンが非常によい)はもとより目尻の皺まで愛らしく見える。

 ジェット・リーのアクションも見もので、『ボーン・アルティメイタム』のトイレでの格闘シーンは明らかに本作品のパクリである。


 尚、ボーン・シリーズのサイドストーリーとして『ボーン・レガシー』という映画があるが、ほぼ『ボーン・アルティメイタム』の焼き直しとなっている。

 そういえば「記憶の欠如」という点でもこれらの映画は似ている。要は自分探しと救いの物語である。

 モーガン・フリーマンとケリー・コンドンという善人に対抗するのが、バート(ボブ・ホスキンス)で、この悪役ぶりが秀逸だ。特に彼の「善意を装った言葉」が悪を際立たせている。

 デタラメなストーリーであるにもかかわらず面白い作品を私は「文体映画」と呼びたい。例えばポール・フェイグ監督の『アイ・アム・デビッド』など。

 ストーリーと文体が一致した稀有な作品には『アメリ』や『ドッグヴィル』、『善き人のためのソナタ』、『灼熱の魂』などがある。

2014-12-29

映画『ミュンヘン』を見て/『標的(ターゲット)は11人 モサド暗殺チームの記録』ジョージ・ジョナス


 ・読後の覚え書き
 ・映画『ミュンヘン』を見て

『暗殺者』ロバート・ラドラム
『子供たちは森に消えた』ロバート・カレン

 スティーヴン・スピルバーグ監督に関しては特に思い入れもなければ、さしたる偏見もない。映画そのものの出来は悪くないと思う。確か封切りを観たはずなのだが、殆ど憶えていなかった。ただしジョージ・ジョナスの原作を100点とすれば、映画は65点程度と言わざるを得ない。つまり及第点以下だ。

 致命的なのは「父と子の物語」が欠落している点である。アフナー(映画ではアブナー)の父親もまたモサド・エージェントであった。かつては英雄と称賛されながらも、不遇な晩年を過ごし、廃人同然になってゆく。

 映画では冒頭にミッション(特命)を伝えるシーンがあり、ゴルダ・メイア首相役のリン・コーエンが本物そのままの雰囲気を漂わせていて、鬼気迫るものがあった。それだけにこれ以降、どうしても原作との違いに目が向いてしまう。

 次にアフナーも父親も自分の仕事の内容を家族には教えていない。後は推して知るべしである。観客に「わかりやすく」伝える手法が仇となり、原作の香気が失われている。

 とはいうものの私が2回以上見る映画作品は極めて数が限られているので、それなりに評価すべき作品なのだろう。

 原作は細部が際立っており、その辺に転がっているスパイスリラーが逆立ちしてもかなわないほどの臨場感に溢れている。アフナーがジェイソン・ボーン(『暗殺者』ロバート・ラドラム)と化せば完璧だった。

 

2013-11-24

ホアキン・フェニックスとフィリップ・シーモアの二人芝居/『ザ・マスター』ポール・トーマス・アンダーソン監督・脚本


 最初から最後に至るまで二人の演技力だけでストーリーを引きずってゆくという怪作。完全な二人芝居。にもかかわらずカットが素晴らしい。サイエントロジーがモデルになっているようだが宗教性はまったく描けていない。っていうか描く気ないだろ?(笑)

 ホアキン・フェニックスを初めて知ったがまあ凄いね。スペイン人あるいはイタリア人を思わせる陰影の濃い顔つき。激情に翻弄される落ち着きのない男を見事に演じている。一方フィリップ・シーモアは宗教家というよりは艶福家(えんぷくか)といった印象を受けた。たぶん成功を象徴しているのだろう。

 結局この作品はドロップアウトした若者と新興宗教教祖との出会いを通して「父と子」の物語を描いたのだろう。アメリカ映画によく見られるパターンだ。父はもちろん神の暗喩である。「父と子と精霊の御名(みな)においてアーメン」ってわけだよ。

 個人的にはプロセシシングと名づけられたカウンセリング療法が興味深かった。厳格なプロテスタント国家アメリカは一方でプラグマティズムを生みながらも、他方で心理療法を必要とする人々を生んでいるのだ。スクラップ・アンド・ビルド。物質も精神も。

The Master 1

 序盤は上下を意識した映像が多く、それから航海が続く。この垂直から水平にシフトするところに物語の鍵があるのだろう。まるで十字架だ。主人公はオートバイに乗ったまま荒れ果てた地平線から消えてゆく。転落の余韻を残しながら。

 最終的に二人の演技はストーリーを押しのけるところまで進む。それどころか観客まで突き放されてしまう。さしたる説明も教訓もないまま映画は終わる。残されたのは抜けない棘(とげ)、喉に引っ掛かった魚の小骨、腑に落ちないモヤモヤした感情、ざらついたままの皮膚感覚だ。

ザ・マスター [DVD]

2013-11-17

不条理ゆえに我生きる/『灼熱の魂』ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督・脚本


 これは凄かった。レビューの禁句ではあるが「凄い」としか言いようがない。ワジディ・ムアワッド(レバノン出身)の戯曲『焼け焦げるたましい』(原題:Incendies、火事)を映画化した作品だ。レバノン内戦を描いているところから察するとタイトルの意味は「焦土」か。

 冒頭で幼い少年たちが兵士の手で丸刈りにされる。カメラはある少年の踵をクローズアップする。そこには三つの点を描いた刺青が施されていた。このシーンの意味は最後で明らかとなる。

 母親が不可解な遺書をのこして死んだ。双子の姉弟が知らされていなかった父と兄を探し出して、手紙を渡すことを命じる内容だった。物語はロードムービーになるかと思いきや、カットバックで母親の越し方が挿入され、過去と現在が同時進行する。更に後半では兄の人生が加えられる。三重奏が描くのは「謎」だ。もうね、見ている側はプロレス技の卍固めをかけられたような状態となる。

 映像が緊張を強いる。ハンディカメラの手振れが効果を発揮している。そして思いも寄らぬ場面で突発的に暴力シーンが現れる。紛争地帯の日常とはそういうものなのだろう。

 姉弟はカナダから中東へ飛ぶ。母親はかつて政治犯であった。彼女は度重なる拷問に屈することなく13年間を耐え忍んだ。監獄では「歌う女」と呼ばれていた。

 姉弟の出自が明らかとなり、続いて二人がプールで泳ぐ場面が秀逸だ。胎内への回帰。水(プール)が重要なモチーフとして何度も出てくる。

 弟が姉に言う。「1+1=1があり得るか?」と。少し間を置いて姉は過呼吸に陥ったような音を立てる。直後にすべての謎が明らかとなる。

 不条理ゆえに我生きる――これが母親の人生だった。彼女はいくつかの罪を犯した。長男を育てることができなかった。そしてバスの中で出会った子供を救うこともできなかった。拷問は贖罪(しょくざい)であった。そしてその後の人生は更なる贖罪であった。死の直前に母親は真相を知った。そして死の床にあってそれを許した。

「三界は安きことなく、なお火宅の如し」(『法華経』譬喩品)――これこそがタイトルの意味だった。「家は火事です。あちらの家だと思っているのですが、ここなのです」(クリシュナムルティ)。この残酷極まりない世界では「穏やかに生きる者」のみが真の勝者であることを思い知らされた。

ドッグヴィル』の衝撃と『善き人のためのソナタ』のドラマ性を併せ持った稀有な作品である。

灼熱の魂 [DVD]

2013-07-13

ラース・フォン・トリアーが観客に与えるのは、余韻ではなく激痛だ/『ドッグヴィル』

『ドッグヴィル』ラース・フォン・トリアー監督・脚本  ・ラース・フォン・トリアーが観客に与えるのは、余韻ではなく激痛だ/『ドッグヴィル』






【映画】ドッグヴィル / DOGVILLE(日本語字幕)

2009-02-12

忘れていた何かを思い出させてくれるオムニバス/『それでも生きる子供たちへ』監督:メディ・カレフ、エミール・クストリッツァ、スパイク・リー、カティア・ルンド、ジョーダン・スコット&リドリー・スコット、ステファノ・ヴィネルッソ、ジョン・ウー


『ダイヤモンドより平和がほしい 子ども兵士・ムリアの告白』後藤健二
『戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だった』イシメール・ベア
『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』レヴェリアン・ルラングァ

 ・忘れていた何かを思い出させてくれるオムニバス

 予告編を観てピンと来るものがあった。七つの短篇はいずれも素晴らしい作品に仕上がっている。


『タンザ』メディ・カレフ監督(ルワンダ)

 DVDに収められているプロダクションノートを見てルワンダであることを知った。シエラレオネの少年兵の実態(後藤健二著『ダイヤモンドより平和がほしい 子ども兵士・ムリアの告白』汐文社、2005年)より悲惨さは少ないが、それでもやはり映像の迫力は凄い。長い間の取り方が否応(いやおう)なく緊迫感を高める。チョークに込められたのは学ぶことへの憧れであり、爆弾の擬声が戦闘に対する無自覚を示している。ラストで静かに流れる少年兵の涙が過酷な現実を雄弁に物語っている。

『ブルー・ジプシー』エミール・クストリッツァ監督(セルビア・モンテネグロ)

 監督はサラエボ生まれとなっているが、フランス映画のような軽妙さがある。完成度も高い。父親に窃盗を強要され、時に激しい暴力を加えられる少年が主人公。少年院の内側の方が主人公にとっては安心できる世界だった。少年院での歌の練習シーンなどは爆笑もの。窃盗団が奏でる音楽が人々の心を奪うというアイディアもグッド。

『アメリカのイエスの子ら』スパイク・リー監督(アメリカ)

 子供に隠れて麻薬を常習する両親。それでも愛情に嘘はなかった。その上、親子はHIVに感染していた。学校でいじめられる少女。「私は生きたいのよ!」と叫ぶ声が悲惨を極める。これもラストシーンが鮮やか。深刻な問題を抱えても「私は私」というメッセージが込められている。

『ビルーとジョアン』カティア・ルンド監督(ブラジル)

 実はこの作品に期待していた。カティア・ルンド(※カチア・ルンジという表記もある)は『シティ・オブ・ゴッド』(フェルナンド・メイレレス監督)の共同監督を務めた人物。多分この作品も多くの素人を起用していることだろう。躍動的なカメラワークと子供達の逞しい姿は『シティ・オブ・ゴッド』を彷彿とさせる。幼い兄と妹が家計を助けるために空き缶やダンボールを拾い集める。店先や業者とのやり取りは大人顔負け。「フライドポテトは明日買ってあげるよ」という兄の言葉が、未来に向かって生きる二人の姿を象徴している。スラムの後ろに巨大なビル群がそびえ立つ映像も忘れ難い。

『ジョナサン』ジョーダン・スコット&リドリー・スコット監督(イギリス)

 最初の効果音が凄い。お見事。戦場カメラマンが神経症のような症状を発祥する。森で見かけた子供達を追い掛けているうちに、男も少年になっていた。ファンタジックなストーリー。戦場の現実を再確認して、男は再び家に戻る。

『チロ』ステファノ・ヴィネルッソ監督(イタリア)

 少年が自分の影と戯れる最初のシーンが秀逸。大人達の矛盾に戸惑いながらも、少年は逞しく生きる。窃盗という手段で。犬に追い掛けられるシーンは、サブ監督の『ポストマン・ブルース』さながら。綿飴を買うシーンや遊園地の幻想的な場面も巧い。少年が倒れるシーンに至っては詩的ですらある。

『桑桑(ソンソン)と子猫(シャオマオ)』ジョン・ウー(中国)

 裕福な少女と貧しい少女の運命が、美しい人形を介して交錯する。身寄りのない子供達が強制的に花を売らされる。売り上げがなければご飯を食べさせてもらえない。二人の少女も大人のエゴイズムの犠牲者だ。貧しい少女が裕福な少女に花をあげる。限りない豊かさが画面いっぱいに横溢(おういつ)する。

 いずれの作品も『それでも生きる子供たちへ』というタイトルに相応しい内容。随分と長く感じたと思っていたら、何と170分という長尺ものだった。世界の子供達が置かれている現実、そして苛酷さを極めるほど逞しく生きる姿。歳をとって忘れていた何かを思い出させてくれるオムニバスだ。最後に流れる歌がまた素晴らしい。

2006-02-07

これが私のいる世界なのか?/『ホテル・ルワンダ』テリー・ジョージ監督


 ・これが私のいる世界なのか?

『それでも生きる子供たちへ』監督:メディ・カレフ、エミール・クストリッツァ、スパイク・リー、カティア・ルンド、ジョーダン・スコット&リドリー・スコット、ステファノ・ヴィネルッソ、ジョン・ウー
『生かされて。』イマキュレー・イリバギザ、スティーヴ・アーウィン
『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』レヴェリアン・ルラングァ
『なぜ、世界はルワンダを救えなかったのか PKO司令官の手記』ロメオ・ダレール
『ルワンダ ジェノサイドから生まれて』写真、インタビュー=ジョナサン・トーゴヴニク
『戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だった』イシメール・ベア
『メンデ 奴隷にされた少女』メンデ・ナーゼル、ダミアン・ルイス

『ホテル・ルワンダ』を見てきた。いやはや、立川のシネマシティ/City2は凄い。これほど、スクリーンを大きく感じたのは生まれて初めてのこと。前から4列目に陣取ったのだが、真正面にスクリーンがある。音響もパーフェクト。

 インターネットでの署名活動によって、やっと公開にこぎつけた作品。1994年にアフリカのルワンダで100万人が殺戮された実話に基づいている。

「力」とは一体、何なのか――映画館を出た今も頭の中を去来する。街中で起きているチンピラ同士の喧嘩なんぞとは桁違いの軍隊による暴力。そして、それをコントロールする権力。更に、大量虐殺を放置したり、放置させたりする国際間のパワー・オブ・バランス。

 元々同じ種族でありながら、ベルギー人によって、“鼻の形の違い”でツチ族とフツ族に分けられ、いがみ合い、殺し合うアフリカの民。相手の種(しゅ)を絶つために、子供まで殺す徹底ぶりだ。

 政変が起こるまで、金の力で成り上がった主人公は、家族を守るために必死の行動をとる。それだけの内容で、私は全く感動を覚えなかった。それどころか、「自分の家族さえ助かればいいのか?」と嫌な気持ちにさせられたほどだ。

「これが私のいる世界なのか?」――この一点を思い知るために見るべき作品だ、と私は思う。

 見ている最中から、猛烈な無力感に苛(さいな)まれる。私に何ができるのだ? どうせ、何もできない。否、しようともしないだろう。

 それでも、見るべきなのだ。中国から廉価で輸入された鉈(なた)で殺される人々を。虫けらみたいにビストルで撃たれる人々を。殺される前に陵辱される女性達を……。

 何もしなくていい。ただ、罪もなく殺されていった100万の人々の無念を知れ。

2004-09-28

苦痛を味わう/『ダンサー・イン・ザ・ダーク』ラース・フォン・トリアー監督


 ・苦痛を味わう

『イノセント・デイズ』早見和真
『ドッグヴィル』ラース・フォン・トリアー監督・脚本

・監督、脚本:ラース・フォン・トリアー
・出演:ビョーク、カトリーヌ・ドヌーヴ

 一度見て度肝を抜かれた。いずれの方向にせよ人の心が動くことを感動というのであれば確かな感動があった。だがその一方で二度と見ることはないだろう、とも思った。この衝撃は一度見れば十分なもので何度も鑑賞する類いの作品ではない。

 所感を記そうとネット上の情報を物色していたところ、阿部和重がパンフレットに書いた一文に遭遇した。予想もつかない視点から物語を解き、映像の奥深くに込められたメッセージを鮮やかに読み取っていた。私は頭を殴られたようなショックを受けた。

 ネットで見つけた阿部のテキストは一部だったので、それからというもの、パンフレットを入手するまでに3ヶ月ほどを要した。

 そして、私はパンフレットを座右に置き、再びビデオを見た。阿部が汲み取ったものを見逃すまい、と。ビデオが終わって、パンフレットを初めて開いた。やっぱり負けた(笑)。

 二度目ではあったが、予想に反して、私は画面に釘づけとなった。カットの一つ一つが、しっかりと物語を構成していた。

 冒頭、シミのようなものが浮かび、図と地の区別がつかなくなる。

 ハンディカメラで撮影されていて、画面が常にブレている。ブレた分だけ見ている側に緊張感を強いる。あたかも人の視線に入り込んだような感覚にとらわれる。ライトも当てられず、極端な効果音やBGMもない。こうして、揺れる画面は自分の眼となり、観客は無理矢理、映画の中に引きずり込まれる。

 40分ほどが経過してリズムが奏でられ、主人公セルマが踊り出す。場面がミュージカルとなると、映像はピタリと揺れなくなる。現実は揺れ動き、空想は完成された世界だ。

 セルマは歌う。「もう見るべきものはない。何もかも見た」と。

 セルマは踊る。「ミュージカルでは恐ろしいことは起こらないわ」と。

 シナリオはメッセージを主張することなく、見る者に思索を強要する。

 空想シーンであるミュージカルと現実がラストで一致する。セルマは獣のような声で叫び歌う。「これは、最後の歌じゃない!」。

 現実の世界でセルマがステップを踏むと、彼女は宙に舞う。真っ直ぐな姿勢で。運命と戦い、病苦(主演女優の名前とダブって仕方がない)と戦い、世の中の矛盾と戦ったセルマは、遂に自由を手に入れた。

【付記】余談になるが、二度目の方が私は泣けた。特に、獄中のセルマと面会するジェフの姿は、私が知る限りでは、究極のラブシーンである。また、セルマの同僚がカトリーヌ・ドヌーヴであることも後から知った。大女優であることを気づかせないほどの抑制された名演である。また、ミュージカルの曲が好評を博しているようだが、私の趣味とは全く合わないものだ。それでも、お釣りがくるほど堪能できた。尚、パンフレットに掲載されている阿部和重の「反転する世界」は類い稀なレビューである。そっくり紹介したい気持ちに駆られるが、やはり、少々苦労はしても、直接、入手された方がよろしい。