2011-06-06

自閉症者の可能性/『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン


『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ

 ・宗教の原型は確証バイアス
 ・自閉症者の可能性

『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」がうまれたとき』山極寿一、小原克博
『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
『AIは人類を駆逐するのか? 自律(オートノミー)世界の到来』太田裕朗

 順番だと、レイ・カーツワイル著『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』を書くはずなのだが、今日はそれほどの体力がない。万全の体調でなければ歯が立たない代物だ。そこで『ポスト・ヒューマン誕生』と併読すべき本書を紹介することにした。

 実は全く畑違いの本ではあるが、知性という一点において恐るべき共通性がある。テンプル・グランディンは自閉症の動物学者だ。知能は優れていることから、アスペルガー障害と思われる。彼女は幼い頃から動物の気持ちを理解することができた。

 私は動物はどんなふうに考えているかわかるのだが、自閉症でない人は、それがわかった瞬間はどんな感じだったときまってたずねる。直感のようなものがひらめいたと思うらしい。(中略)
 子供のころは、自分が動物と特別な結びつきがあるとは思ってもいなかった。動物は好きだったが、小さい犬は猫ではないのだということを理解するだけでも苦労した。これは人生の一大事だった。私が知っていたいのはどれもみな、とても大きかったから、犬は体が大きいものだと思っていた。ところが近所の人がダックスフントを買ってきて、さっぱりわけがわからなくなった。「なんでこれが犬なの?」といいつづけ、謎を解こうとしてダックスフントをじっくり観察した。ダックスフントがうちのゴールデンレトリーバーと同じ種類の鼻をしていることに気づいて、ようやく納得した。

【『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン:中尾ゆかり(NHK出版、2006年)以下同】

 本書が凄いのは、自閉症と動物心理という別次元の話を何の違和感もなく縦横に織り込んでいるところだ。この文章からはカテゴリー化に苦労していることがわかる。つまり自閉傾向がある人は細部を中心に見るのだ。

 そのしかけが目にとまったとたんに、私はおばに車を停めてもらい、車から降りて見物した。締めつけ機の中にいる大きな牛から目がはなせなくなった。こんなに大きな金属製の工作物でいきなり体を締めつけられたら、牛はさぞかしおびえるだろうと思うかもしれないが、まったく逆だ。牛はじつにおとなしくなる。考えてみればわかるのだが、だいたい誰でもじわりと圧力をかけられると気持ちが落ち着く。マッサージが心地いいのも、じわりと圧力を感じるからだ。締めつけ機で締められると、新生児が産着(うぶぎ)に包まれたときやスキューバダイバーが水にもぐったときに感じる、おだやかな気持ちになるのだろう。牛は喜んでいた。

 少女時代のエピソードである。言われてみればなるほどとは思うものの、そこまで動物を観察することは難しい。羊水に浮かぶ胎児や抱っこされる赤ん坊を思えば、締めつけられることが心地いいというのは納得できる。

 馬はとりわけ10代の子どもに好ましい。マサチューセッツ州で精神科医をしている友人は、10代の患者をたくさん診(み)ているが、乗馬をする子には、かくべつの期待をかけている。同じ程度の障害で同じ問題をもつふたりの子供のうち、ひとりは定期的に乗馬をし、もうひとりは乗馬をしない場合、最後には、乗馬をする子のほうがしない子よりも改善が見られるというのだ。ひとつには、馬をあつかうときに大きな責任がともなうため、世話をしている子は好ましい性格を発達させるということがある。だが、もうひとつ、乗馬は見た目とちがって、人が鞍に腰かけて、手綱を引いて馬に命令するものではないということもある。ほんものの乗馬は、社交ダンスがてらのフィギュアスケートによく似ている。おたがいの関係で成り立っているのだ。

 これなんかは、自閉症のお子さんがいるならば試すべきだと思う。たぶん情愛ではなく、システマティックな関係となっているのだろう。それでも関係性を広げることは大切だ。

 マーク・ハッドン著『夜中に犬に起こった奇妙な事件』の主人公である少年もアスペルガー障害だが、彼は表情があらわすサインを読み解くことができない。人間関係のトラブルを防ぐために、感情別の顔マークが書かれたカードを持ち歩いていた。

 彼らは我々と異なる世界で生きているのだ。まずそれを認めることから始める必要があろう。異なる価値観ではなく異なる世界を認めること。そうすれば、無理に「こちらの世界」へ引きずり込もうとする努力も不要になる。

 自閉症をもつ人は動物が考えるように考えることができる。もちろん、人が考えるようにも考える――そこまでふつうの人とちがううわけではない。自閉症は、動物から人間へいたる道の途中にある駅のようなものだ。そのおかげで、私のような自閉症の人は「動物のおしゃべり」を通訳する絶後の立場にある。私は、動物の行動のわけを飼い主に説明できる。
 好きだからこそ、自閉症を抱えていながら成功できたのだと思う。

 とすると自閉症は前頭葉の機能障害なのかもしれない。「障害」というべきかのかどうかも微妙だ。なぜなら自閉傾向の強い人は増えていて、発達障害、LD(学習障害)、ADHD(注意欠陥・多動性障害)、更にはパーソナリティ障害などの症例で知られている。

 ってことはだよ、ひょっとすると進化している可能性もあるのだ。都市部の人口密度の高さ、満員電車、高速道路の渋滞、汚れた空気、ジャンクフードなどの環境リスクを回避するために、脳機能が変化したと考えても不思議ではない。

『迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来たのか』シャロン・モアレム、ジョナサン・プリンス

 動物はサヴァン自閉症の人に似ている。それどころか、動物は、じつはサヴァン自閉症だとさえいえるのではないだろうか。自閉症の人がふつうの人にはない特殊な才能をもっているのと同じように、動物もふつうの人にはない特殊な才能をもっている。たいていの場合、動物の才能は、自閉症の人の才能があらわれるのと同じ理由であらわれると私は考えている。自閉症の人と動物に共通してみられる脳のちがいだ。

九千冊の本を暗記する男 サヴァン症候群とは

 私は会話の中の特定の言葉や文章をほとんどおぼえていないから、なにをきかれたか記憶にない。自閉症の人は絵で考えるからだ。頭の中では、まったくといっていいほど、言葉はめぐっていない。次から次へとイメージが流れているだけだ。だから、質問の内容はおぼえていないが、質問をされたということだけはおぼえている。

 これを直観像記憶(映像記憶)という。手っ取り早く言ってしまおう。彼らはたぶん物語を必要としないのだ。だからこそ感情や意味を読み解くことができないのだろう。豊かな感情=善ではない。行き過ぎた恋愛感情が刃傷沙汰(にんじょうざた)に発展することは珍しくない。生真面目な人が精神疾患となりやすいのも、相手の感情を考えすぎることが原因になっているような気がする。ステップを相手に合わせよう合わせようと努力して主体性を喪失する羽目となる。

 テンプル・グランディンは自らの自閉症を通して、動物の世界を我々に見せてくれる。私は本書を読むまで少なからず、動物を知能の劣った人間みたいに考えていた。

 世界とは世界観を意味する。世界観とは何らかの情報に基づいたシステム(系)のことだ。それが直観像だろうと感情だろうと世界であることに変わりはないし、何の問題もない。ただ、一般人とのコミュニケーションに齟齬(そご)をきたすことがあるというだけの話だ。

 自閉症の世界は決して貧しい世界ではない。むしろ人間の別の可能性を示す豊かな世界であるといってよい。

 私が設計した「中央トラック制御システム」は北アメリカのおよそ半分の向上に設置されている。

 マクドナルドも彼女のシステムを導入している。動物の気持ちがわかる彼女ならではの見事な社会貢献だ。



テンプル・グランディン:世界はあらゆる頭脳を必要としている
自閉症者の苦悩
サヴァン症候群~脅威の記憶力
ラットにもメタ認知能力が/『人間らしさとはなにか? 人間のユニークさを明かす科学の最前線』マイケル・S・ガザニガ
野生動物が家畜化を選んだ/『家畜化という進化 人間はいかに動物を変えたか』リチャード・C・フランシス
カーゴカルト=積荷崇拝/『「偶然」の統計学』デイヴィッド・J・ハンド

デイヴィッド・ベニオフ


 1冊挫折。

 挫折25『卵をめぐる祖父の戦争』デイヴィッド・ベニオフ/田口俊樹訳(ハヤカワ・ポケット・ミステリ、2010年)/120ページで挫ける。文章は大層巧みなのだがプロットが肌に合わず。主人公が卑屈すぎて、コーリャとの対比が残酷さを帯びている。たぶん作品の問題というよりは、私が年をとりすぎていることに原因があるのだろう。注目すべき作家であることは間違いない。

2011-06-05

スイス政府


 1冊挫折。

 挫折24『民間防衛 あらゆる危険から身をまもる』スイス政府編/原書房編集部訳(原書房、1995年)/スイス政府が国民に配布しているハンドブックである。戦争や災害に対する備えは、永世中立国であることの緊張度を示している。核攻撃を受けた場合の対処法まで書かれている。多分「一家に一冊」常備すべき本なのだろうが、如何せん本の作りがよくない。レイアウトから構成に至るまで全部ダメだ。原書房の怠慢を戒めたい。版型を四六版にして、フォントサイズも大きくすべきだ。更には縦書きが望ましい。私は横書きのテキストが苦手なのだ。

40代後半の人口構成が景気を左右する/『最悪期まであと2年! 次なる大恐慌 人口トレンドが教える消費崩壊のシナリオ』ハリー・S・デント・ジュニア


「歴史は繰り返す」と喝破したのは古代ローマの歴史家クルティウス=ルーフスであった。人間の愚かさをものの見事に衝いている。更に人間が過去に束縛されることをも示している。

 歴史とは権力者の事跡である。私が結婚したとか、ウチの親父が死んだとかは全く関係がない。これが文化や学問、宗教などの場合は「権威の移り変わり」と見ればよい。つまり過去の権力者の政治手法、経済体制、軍事行動を学んでいるうちに思考がパターン化してしまうのだろう。将棋でいえば定跡だ。

 歴史は繰り返すとなれば、そのサイクルに注目するのは当然の流れだ。ハリー・S・デント・ジュニアは人口トレンドによって景気サイクルを読み解こうとしている。

【だが、人間はやがて、世の中のいろいろな場面で一定のパターンが繰り返されていることに気がついた。そして、そのサイクルを理解することで将来を予測する能力を高め、以前よりも人生をコントロールできるようになった。社会が複雑になり、人口が増えて都市化が進み、コンピューターやナノテクノロジーが発達し、グローバル化が進むようになっても、この過程は続いている。】

【『最悪期まであと2年! 次なる大恐慌 人口トレンドが教える消費崩壊のシナリオ』ハリー・S・デント・ジュニア:神田昌典監訳、平野誠一訳(ダイヤモンド社、2010年)以下同】

 一言でいえば「お金のコントロール」である。貯蓄を始め、保険や投資によって人生の経済リスクをコントロールできるようになった。戦後、先進国においては避妊によって出産も制限可能となった。

【つまり私は、長期的な成長とサイクルの変化を生み出しているのはシンプルなトレンドであること、そして事業や経済のトレンド予測では人口と科学技術(テクノロジー)のサイクルが決定的に重要であることをこの仕事で学んだのである。】

 補足しておくと著者は、全体の複雑さはシンプルなサイクルが数多く集まって形成されているとしている。トレンドとは傾向や趨勢(すうせい)を意味する言葉であるが、川の流れに例えるとわかりやすい。中央の流れは速く岸辺は遅い。上と下でも速度や温度が微妙に異なる。しかし川全体としては海を目指して下ってゆくのだ。

 ここにいたって私は、経済の最大の原動力は「人口トレンド」であると、そしてその経済の基礎を変えるのが「画期的な新技術」であり、そうした事実は「革新(イノベーション)─成長─淘汰─成熟」という4段階から成るライフサイクルに従うことを理解しはじめた。また消費者がしだいに裕福になってきた結果、消費者の行動が経済に及ぼす影響は昔よりはるかに大きくなっており、それを背景に人口統計学的な要因が新技術の革新と普及をますます推進しているように見えることにも気がついた。

 人口トレンドとは消費者数で、イノベーションは消費性向を示す。「新しいものが欲しい」というストレートな欲望が景気を上昇させる。例えばミシン、自動車、ラジオ、三種の神器(じんぎ/白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機)など。最近だと携帯電話やパソコン、ゲーム機器といったところ。そして高度情報化社会となりメディアが視聴者を扇動し、広告会社が人々の欲望に火を点ける。

 過去のバブル・ブームから教訓を学ぶとしたら、それは「すべての資産が値下がりして銀行が巨額の不良債権を抱え込み、それが償却されることで不況になるというパターン」でかならず終わるということである。

 不況とは供給過剰によって物価が下落することだから必ず不良債権が発生する。というよりは、むしろ「債権の不良化」が進むと見るべきなのだろう。物の価値が下がるので相対的にお金の価値は上がる。しかし賃金も下がるのでお金は貯蓄に回される。で、みんなが買い物をしなくなるからデフレスパイラルに陥る。

 若者たちは何かとコストがかかるうえに、たいした生産活動は行わないため、現代社会ではそれをもたらす最大の要因になっている。一方、40代後半の働き盛りは先進国では最も生産性が高く支出も多いため、生産性向上や経済成長のけん引役となっている。
 米国のベビーブーム世代のように人口の多い新世代は、年を重ねるごとに世帯所得や支出、生産性といった予測可能なサイクルを押し上げ、好況を長期化させる。1942年から68年にかけての好況の背景にはボブ・ホープ世代がいたし、1983年から2008年までの好況期にはベビーブーム世代がいる。

 これが骨子となっている。つまり40代後半の人口構成が景気を左右するというのだ。単純にいってしまえば、大学生の子を持つ親と考えてよろしい。

 日本のバブル景気を支えたのも実は団塊の世代(1947-1949年生まれ)であった。だからハリー・S・デント・ジュニアの予測は当たっている。

 米労働省の調べによれば、平均的な世帯がポテトチップスに最もお金を使うのは、親が42歳のときである。なぜか。平均的に言えば、親は28歳の時(ママ)に第一子をもうける。そして複数の研究によれば、子どものカロリー摂取量は14歳のときにピークを迎える。したがって、子どもは親が42歳のときに最も多くため、親の財布に最も大きなダメージを与える傾向があるのだ。

 技ありのネタ(笑)。ま、エンゲル係数的視点といってよい。

 本書の後半において世界各国の未来予想図が描かれている。一人っ子政策を実施してきた中国は翳(かげ)りを見せ始め、2050年に向けて世界を牽引(けんいん)するのはインドとブラジルらしいよ。また世界経済は2023年まで不況と予測している。長期的視野に立てば、人口が多いアジア・アフリカ地域に発展の可能性があるとも。

 このイノベーションと人口トレンドという視点は、歴史を分析する場合にも有効だと思う。

2011-06-04

行間に揺らめく怒りの焔/『自動車の社会的費用』宇沢弘文


『記者の窓から 1 大きい車どけてちょうだい』読売新聞大阪社会部〔窓〕
『交通事故鑑定人 鑑定暦五〇年・駒沢幹也の事件ファイル』柳原三佳

 ・行間に揺らめく怒りの焔
 ・新自由主義に異を唱えた男

『交通事故学』石田敏郎
『「水素社会」はなぜ問題か 究極のエネルギーの現実』小澤詳司

必読書リスト その二

「生きた学問」は偉大なる感情に裏打ちされている。そのことを思い知った。宇沢は1964年にシカゴ大学経済学部教授に就任した人物。門下生の中にジョセフ・E・スティグリッツがいる(2001年ノーベル経済学賞受賞)。市場原理主義の総本山で、宇沢はシカゴ学派を批判した。気骨の人という形容がふさわしい。

 宇沢の怒りが青い焔(ほのお)となって行間で揺らめいている。本物の怒りは静かなものだ。熱い怒りは長続きしない。読み手はおのずから襟を正さずにはいられなくなる。

 しかし、このように歩行者がたえず自動車に押しのけられながら、注意しながら歩かなければならない、と言うのはまさに異常な現象であって、この点にかんして、日本ほど歩行者の権利が侵害されている国は、文明国といわれる国々にまず見当たらないと言ってよいのである。

【『自動車の社会的費用』宇沢弘文〈うざわ・ひろぶみ〉(岩波新書、1974年)以下同】

 文明が人間を押しのける。我々はテクノロジーの前にひれ伏す。昔であればきれいに舗装されたばかりの道路を歩くと、何となく遠慮がちになったものだ。

 日本における自動車通行の特徴を一言にいえば、人々の市民的権利を侵害するようなかたちで自動車通行が社会的に認められ、許されているということである。(中略)ところが、経済活動にともなって発生する社会的費用を十分に内部化することなく、第三者、特に低所得者層に大きく負担を転嫁するようなかたちで処理してきたのが、戦後日本経済の高度成長の家庭のひとつの特徴でもあるということができる。そして、自動車は、まさにそのもっとも象徴的な例であるということができる。

 これが本書のテーマである。社会的費用とは公害や環境破壊などにより社会が被る損失を意味する。

「低所得者層に大きく負担を転嫁するようなかたち」とは、国が税金でカーユーザーを経済的に支援してきたということであろう。

 ま、普通に道路を歩いていれば誰もが実感していることだ。歩行者優先は掛け声だけで、実際は邪魔だといわんばかりにクラクションを鳴らされる。

 近代市民社会のもっとも特徴的な点は、各市民がさまざまなかたちでの市民的自由を享受する権利をもっているということである。このような基本的な権利は、単に職業・住居の選択の自由、思想・信条の自由という、いわゆる市民的自由だけでなく、健康にして快適な最低限の生活を営むことができるという、いわゆる生活権の思想をも含むものである。このような基本的権利のうち、安全かつ自由に歩くことができるという歩行権は市民社会に不可欠の要因であると考えられている。
 近代市民社会の特徴はさらに、他人の自由を侵害しないかぎりにおいて、各人の行動の自由が認められるという基本的な原則が守られているということであるが、自動車通行によってまさにこの市民社会における最も基本的な原則を破られている。

 生活権という言葉に目から鱗(うろこ)が落ちる思いがする。そして、この国がいかに法の精神を蔑ろにしてきた実体がよく見えてくる。

 時折、真夜中にオートバイの爆音が聞こえると私は殺意を抱く。前もって来る時間がわかっていれば、バットか木刀を持って待ち受けるところだ。彼らは自分の好き勝手のために、病人や障害者に迷惑をかけている自覚すらないのだろう。っていうか、大体どうしてあんな騒音を撒(ま)き散らす物の販売が認められているのか? バイクショップやメーカーに規制をかけるべきだと思う。それから病人の生活権を守るために、オートバイの免許取得は30歳以上に引き上げるべきだ。

 カーユーザーの自由のために、他の人々の自由が損なわれている。その原因はどこにあるか?

 というのは、近代経済学の理論的支柱を形成しているのは新古典派の経済理論であるが、新古典派の理論的フレームワークのなかでは、一般に社会的費用を発生するような経済現象を斉合的に分析することは、その理論的前提からの制約によってすでに不可能であると言ってもよいからである。

 経済理論に穴が空いていたのだ。それでも人の健康や命に重い価値を置いていれば、賠償請求によって社会は軌道修正してゆくことができるはずだ。つまり、この国は人間を軽んじているのだ。それゆえ国策に乗じた大手企業は絶対に潰れることがない。原発や製薬会社を見れば一目瞭然だ。特に製薬会社は名前を変えて生き残っている。石井部隊の末裔(まつえい)は断じて死なない。

 自動車の普及のプロセスをたどってみると、そのもっとも決定的な要因のひとつとして、自動車通行にともなう社会的費用を必らずしも内部が負担しないで自動車の通行が許されてきたということがあげられる。すなわち自動車通行によって、さまざまな社会的資源を使ったり、第三者に迷惑を及ぼしたりしていながら、その所有者が十分にその費用の負担をしなくてもよかったということである。

 道路・信号・標識・横断歩道と排気ガス・騒音など。本来であれば、自動車税やガソリン税をもっと高くすべきなのだろう。結果的に自動車所有者が得をする仕組みになっていたわけだ。持てる者と持たざる者の間にアスファルトの道路が存在する。

 自動車の普及を支えてきたのは、自動車の利用者が自らの利益をひたすら追求して、そのために犠牲となる人々の被害について考慮しないという人間意識にかかわる面と、またそのような行動が社会的に容認されてきたという面とが存在する。

 利便性と所有欲が人間を犠牲にしてきたという指摘だ。そして車を所有できない人々は沈黙を強いられてきた。

 要するに、ホフマン方式によって交通事故にともなう死亡・負傷の経済的損失額を算出することは、人間を労働提供して報酬を得る生産要素とみなして、交通事故によってどれだけその資本としての価値が減少したかを算定することによって、交通事故の社会的費用をはかろうとするものである。
 このホフマン方式によるならば、もし仮りに、所得を得る能力を現在ももたず、また将来もまったくもたないであろうと推定される人が交通事故にあって死亡しても、その被害額はゼロと評価されることになる。また、こう所得者はその死亡の評価額が高く、低所得者は低くなることも当然である。したがって、老人、身体障害者などが交通事故にあって死亡・負傷したときにはその被害額は小さくなるのである。

 このような急速方法が得られるのは、人間をひとつの生産要素とみなすからである。労働サーヴィスを提供して、生産活動をおこない、市場で評価された賃金報酬を受取る、という純粋に経済的な側面にのみに焦点を当てようとする考え方が、その背後には存在する。この考え方はじつは、人間のもつさまざまな社会的・文化的側面を捨象して、純粋に経済的な側面に考察を限定し、希少資源の効率的配分をひたすらに求めてきた新古典派の経済理論の基本的な性格を反映するものである。

 蒙(もう)が啓(ひら)かれる。真の学問は光を発して周囲の世界を照らす。GDP(国内総生産)という発想も同様であろう。国家が最も必要とするのは労働者と兵隊である。生産要素とは納税者の異名でもある。すなわち国家は国民を搾取対象と見なすのだ。

 官僚が経済論を基準に法律を作成し、政治家が業界の意向を汲んで修正を加え、法律ができあがる。そこに人権への配慮はない。こうやって法の精神は魂を抜かれ、試験のために記憶するだけの条文と化すのだろう。

 法律が本当に機能しているのであれば、国家賠償訴訟などで世の中がよくなっているはずだ。しかしそんな気配は微塵もない。そもそも法律や憲法なんぞは宗教の教義みたいなもので、信じる人々の間で有効に働く程度の代物であろう。いつの時代にもアウトローは存在する。

 本当なら、大学が最後の砦(とりで)として世の中を正してゆくべきだと思うが、既に産学協同で大学は企業の下部組織となりつつある。「一緒にポーカーをやろうぜ」ってわけだよ。大学は優良企業へ就職するための通過点にすぎない。

 資本主義経済は人の命にまで値段をつけて差別をするのだ。経済学が欺瞞(ぎまん)の笛を鳴らし、国家はそれに合わせて踊るという寸法だ。世界経済を牽引(けんいん)するアメリカも中国も恐るべき格差社会となっている。極端な集中が崩壊の引き金となる。先行投資として社会保障を手厚くしておかなければ大変な事態に陥る。

 このままグローバリゼーションの波に乗っていれば、日本の優良企業や一等地はアメリカと中国に買われてしまうことだろう。

「パックス・アメリカーナの惨めな走狗となって」宇沢弘文