演技とは、からだ全体が躍動することであり、意識が命令するのではなく、からだがおのずから発動し、みずからを超えて行動すること。またことばとは、意識がのどに命じて発せしめる音のことではなく、からだが、むしろことばがみずから語り出すのだ。
【『ことばが劈(ひら)かれるとき』竹内敏晴(思想の科学社、1975年/ちくま文庫、1988年)】
・噴火する言葉/『大野一雄 稽古の言葉』大野一雄著、大野一雄舞踏研究所編
「田忌(でんき)将軍のご気性からすると、善を喜び、悪を憎むことがどちらもはげしい。それをけむたがる者は、善の仮面をつけて悪をおこなう」
【『孟嘗君』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(講談社、1995年/講談社文庫、1998年)以下同】
斉(せい)の貴族のなかで、いや、中国の貴族のなかで、食客(しょっかく)をかかえはじめたのは、田嬰(でんえい)が最初であろう。
――人には他人にいえぬことがある。
それをことばではなく、心でわかることが、ほんとうにわかるということではないのか。真意というものはことばにすると妄(うそ)になる。だから、いわない。黙っていることが真実なのである。
「文(ぶん)どのはよい声をしておられる。じつにすがすがしい。天と地とが和したような声だ。億万人にひとりの声だ、と申しておこう」
――外交は目でするものではない。耳でするものだ。
それが田嬰(でんえい)のかけひきの秘訣(ひけつ)であった。