2011-08-02

卑弥呼の「鬼道」はシャーマニズムではなく道教


 卑弥呼は「鬼道」を事とし、「男弟」がこれを補佐し、「婢千人」がその周辺に侍(はべ)るばかりでなく、「宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人有り、兵を持して守衛す」るまさに初期王権の王者であったといってよい。
「鬼道」については、これをシャーマニズムと解釈する説が多いけれども、「鬼道」はたんなるシャーマニズムではなかった。かつて指摘したとおり、「鬼道」の用辞は『倭人伝』だけではなく、『三国志』の『蜀書』(蜀志)劉焉伝や『魏志』張魯伝にもあって、それはすべて道教を意味する。したがって『三国志』をまとめた陳寿の書法に従えば、卑弥呼の宗教を道教に類するものとみなしての「鬼道」であったと理解すべきであろう。

【『古代日本のこころとかたち』上田正昭(角川叢書、2006年)】

古代日本のこころとかたち (角川叢書)

東京イルミネーション

Tokyo, Japan at Night (NASA, International Space Station, 01/09/11)

See something or say something: Tokyo

東京の夜景は残業でできている

2011-08-01

少年兵は殺人者であり犠牲者でもある


 チェマ神父は言います。
「子どもたちを救わなければいけません。本当に平和を願うのなら、兵士だった子どもたちへの見方を変えなくてはいけません。
 確かに、彼らは罪をおかしたかもしれません。でも、彼らは同時に犠牲者なんです。子どもたちは強制されて兵士になったのです。人殺しが好きな子なんて、どこにもいないのです。」
 わたしは、アンプティ・キャンプで出会った右手と両耳を失ったサクバーさんとの会話を思い出しました。わたしが、
「もし、今、子ども兵士が目の前にいたら、言いたいことは何かありますか?」
 とたずねた時のことです。
 サクバーさんは答えました。
「おれはこう思うよ。彼らはまだ幼い子どもだし、何も知らずに兵士として使われたんだろう。
 もし、その子がおれの目の前にいたとしても、おれは彼を責めない。たとえ、そいつが知っている子だったとしても、おれは何もしやしない。
 おれたちはこの国に平和がほしいんだ。何よりも平和なんだ。それがすべてさ。
 彼らを許さなきゃいけない。でも、絶対に忘れることはできない。答えはいつも同じだよ。
 理由は、この右腕さ。
 朝起きると、おれはどうしてもこの切られた右腕を見てしまう。いやでも見えるからな。もともとおれには、2本の手があったんだ。だから彼らを許せても、絶対に忘れはしない。」

【『ダイヤモンドより平和がほしい 子ども兵士・ムリアの告白』後藤健二(汐文社、2005年)】

ダイヤモンドより平和がほしい―子ども兵士・ムリアの告白