2011-09-22

読書の昂奮極まれり/『歴史とは何か』E・H・カー


 ・読書の昂奮極まれり

『歴史とはなにか』岡田英弘
『世界システム論講義 ヨーロッパと近代世界』川北稔

世界史の教科書
必読書リスト その四

 1961年の1月から3月にかけて行われた連続講演を編んだもの。その2年後に生まれた私が、ちょうど50年後に読んだことになる。

 数ページをパラパラとめくったところで「名著!」という文字が極太ゴシック体で点滅する。脳内ではシナプスが次々と発火し、それまではつながらなかった回路を連続的に形成する。長い間、どんよりと疑問に思ってきたことが氷解し、疑問にまで至っていないモヤモヤしたものまでが一掃された。まさしく天才本(てんさいぼん)といってよい。

 歴史とは「物語化された時間」である。物語は時系列に沿って進行するため歴史的であることを免れない。時間は過去から未来へと一直線上を進むためだ。

 生老病死というリズムが人生の前提である以上、人間そのものが歴史的存在といえる。

「歴史とは何か」という問題に答えようとする時、私たちの答は、意識的にせよ、無意識的によせ、私たちの時代的な地位を反映し、また、この答は、私たちが自分の生活している社会をどう見るかという更に広汎な問題に対する私たちの答の一部分を形作っているのです。

【『歴史とは何か』E・H・カー:清水幾太郎〈しみず・いくたろう〉訳(岩波新書、1962年)以下同】

 歴史は事実そのものではない。歴史家の目に映ったものが歴史として綴られるのだ。つまり、あらゆる歴史は歴史家の立ち位置に束縛されている。写真はカメラマンの位置からしか撮影することができない。

 魚が魚屋の店先で手に入るように、歴史家にとっては、事実は文書や碑文などのうちで手に入れることが出来るわけです。歴史家は事実を集め、これを家へ持って帰り、これを調理して、自分の好きなスタイルで食卓に出すのです。

 とすると、素材を知ることなくして歴史という料理を味わうことはできない。更に用いられなかった材料をも見抜き、その理由を察知することが求められよう。それができなければ、与えられた歴史を鵜呑みにするしかない。

the history of history

 現代のジャーナリストなら誰でも知っている通り、輿論を動かす最も効果的な方法は、都合のよい事実を選択し配列することにあるのです。事実というのは、歴史家が呼びかけた時にだけ語るものなのです。いかなる事実に、また、いかなる順序、いかなる文脈で発現を許すかを決めるのは歴史家なのです。ビランデルロの作品中のある人物であったかと思いますが、事実というのは袋のようなもので、何かを入れなければ立ってはいない、と言ったことがあります。1066年にヘスティングスで戦闘が行なわれたことを知りたいと私たちが思う理由は、ただ一つ、歴史家たちがそれを大きな歴史的事件と見ているからにほかなりません。シーザーがルビコンという小さな河を渡ったのが歴史上の事実であるというのは、歴史家が勝手に決定したことであって、これに反して、その以前にも以後にも何百万という人間がルビコンを渡ったのは一向に誰の関心も惹かないのです。

 ある出来事に意味を吹き込むのが歴史家の仕事であるならば、歴史家は神と同じ場所に位置するものと考えてよい。捏造(ねつぞう)、偽造、割愛、削除を自由に行えるのだ。ま、数百年後に出されたジャンケンみたいなものだろう。

 また当たり前のことではあるが、大衆の平凡な営為に歴史的価値はなく、平均値としてのみ記録される。

 歴史的事実という地位は解釈の問題に依存することになるでしょう。この解釈という要素は歴史上のすべての事実の中に含まれているのです。

 これが一つ目の急所だ。「歴史とは解釈である」。実は政治も宗教も科学も芸術も解釈である。脳機能の根幹を成すアナロジーは解釈そのものだ。すなわち思考とは解釈の異名である。

アナロジーは死の象徴化から始まった/『カミとヒトの解剖学』養老孟司

 E・H・カーに導かれてはたと気づく。「言葉は解釈を超えられない」ことを。解釈とは説明である。「自分」というフィルターを通した逆理解である以上、解釈はバイアス(歪み)を避けられない。そもそも認知そのものにバイアスが掛かっている(認知バイアス)以上、進歩・進化・昇華・脱構築といったところで、情報の書き換えにすぎないのだ。結局、「上書き保存」ということだ。

 てにをはのレベルであればどうってことはないのだが、「大虐殺はあったのか、なかったのか」なんて次元になると国家間でぶつかり合う羽目となる。議論の内容は細密を極め、さほど関心のない人から見ると、まるで量子世界のように映る。

 紀元前5世紀のギリシアがアテナイ市民にとってどう見えていたか、それは私たちはよく知っていますけれども、スパルタ人にとって、コリント人にとって、テーベ人にとって――ペルシア人のこと、奴隷のこと、アテナイの住民であっても市民でない人々のことまで持ち出そうとは思いませんが――どう見えていたかということになりますと、私たちは殆ど何も知らないのです。私たちが知っている姿は、あらかじめ私たちのために選び出され決定されたものです、と申しましても、偶然によるというよりは、むしろ、意識的か否かは別として、ある特定の見解に染め上げられていた人たち、この見解を立証するような事実こそ保存する価値があると考えていた人たちによってのことであります。それと同様に、中世を取扱った現代の歴史書のうちで、中世の人々は宗教に深い関心を抱いていた、と書いてあるのを読みますと、どうしてそれが判るのか、本当にそうなのか、と私は怪しく思うのです。

 あらゆる分野で古い解釈と新しい解釈とが争い合っている。こうした議論は必ず資料に依存する。「書かれたもの」が正義としてまかり通るのだ。誤っている可能性はこれっぽっちも考慮されない。

History

 信心深い中世人という姿は、それが真実であっても、真実でなくとも、もう打ち壊すことはできません。なぜなら、中世人について知られている殆どすべての事実は、それを信じていた人たち、他の人々がそれを信じるのを望んでいた人たちが私たちのためにあらかじめ選んでくれたものなのですから。そして、恐らくその反対の証拠になったであろうと思われる別の沢山の事実は失われていて、もう取り戻すに由ないのですから。死に絶えた幾世代かの歴史家、記録者、年代記作家の永代所有権によって過去というものの型が決定されてしまっていて、もう裁判所に訴える余地も残されておりません。

 歴史とは加工された記録なのだ。古(いにしえ)の権力者が暦(こよみ)を支配してきた事実を思えば、更に意味合いが深まる。

現在をコントロールするものは過去をコントロールする/『一九八四年』ジョージ・オーウェル

 すべての歴史は「現代史」である、とクローチェ(1866-1952、イタリアの哲学者)は宣言いたしました。その意味するところは、もともと、歴史というのは現在の眼を通して、現在の問題に照らして過去を見るところに成り立つものであり、歴史家の主たる仕事は記録することではなく、評価することである、歴史家が評価しないとしたら、どうして彼は何が記録に値いするかを知り得るのか、というのです。

 過去を「見る」ことはできても、過去へ「行く」ことはできない。

 コリングウッドの見解は次のように要約することが出来ます。歴史哲学は「過去そのもの」を取扱うものでもなければ、「過去そのものに関する歴史家の思想」を取扱うものでもなく、「相互関係における両者」を取扱うものである。(この言葉は、現に行なわれている「歴史」という言葉の二つの意味――歴史家の行なう研究と、歴史家が研究する過去の幾つかの出来事――を反映しているものです。)「ある歴史家が研究する過去は死んだ過去ではなくて、何らかの意味でなお現在に生きているところの過去である。」しかし、過去は、歴史家がその背後に横たわる思想を理解することが出来るまでは、歴史家にとっては死んだもの、つまり、意味のないものです。ですから、「すべての歴史は思想の歴史である」ということになり、「歴史というのは、歴史家がその歴史を研究しているところの思想が歴史家の心のうちに再現したものである」ということになるのです。歴史家の心のうちにおける過去の再構成は経験的な証拠を頼りとして行なわれます。しかし、この再構成自体は経験的過程ではありませんし、事実の異なる列挙で済むものでもありません。むしろ、再構成の過程が事実の選択と解釈とを支配するのです。すなわち、正に、これこそが事実を歴史的事実たらしめるものなのです。

 これが2番目のホシ(急所)だ。歴史の相対性理論、あるいは歴史の縁起観ともいうべきか。過去と現在を往来する眼差しの中に歴史は立ち上がる。

 下界は見えるが山頂の見えない登山のようなものか。

 歴史家は過去の一員ではなく、現在の一員なのです。

 歴史修正主義を見れば一目瞭然だ。

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 まだまだ書き足りないのだが、ひとまず結論を述べよう。既に二日がかりで書いている。

 ここで、歴史における叛逆者あるいは異端者の役割について少し申し上げなければなりません。社会に向って反抗する個人という通俗的な姿を描き出すのは、社会と個人との間に、偽りの対立を再び導き入れることになります。どんな社会にしろ、全く同質的ということはありません。すべての社会は社会的闘争の舞台であって、既存の権威に向って自分を対立させている個人も、この権威を支持する個人に劣らず、その社会の産物であり、反映であります。

 人間は社会的動物であるというよりも社会の産物なのだ。文化や価値観といったところで、最終的には言語と思考に収斂(しゅうれん)される。つまり言葉を親から教わる時点で否応(いやおう)なく社会と関わりを持ってしまうのだ。

 歴史における偉人の役割は何でしょうか。偉人は一個の個人ではありますけれども、卓越した個人であるため、同時に、また卓越した重要性を持つ社会現象なのであります。

 偉人は一個の存在であると共に社会現象なのだ。これは凄い。凄すぎる。

 私が攻撃を加えたいと思うのは、偉人を歴史の外に置いて、突如、偉人がどこからともなく現われ、その偉大さの力で自分を歴史に押しつけるというような見方、「ビックリ箱よろしく、偉人が暗闇から奇蹟の如く立ち現われて、歴史の真実の連続性を中断してしまう」というような見方にほかなりません。今日でも、私は、次に掲げるヘーゲルの古典的な叙述は完璧なものだと考えております。

「ある時代の偉人というのは、彼の時代の意志をその時代に向って告げ、これを実行することのできる人間である。彼の行為は彼の時代の精髄であり本質である。彼はその時代を実現するものである」

 E・H・カーの指摘は複雑系科学とも完全に一致している。特定の個人に光を当てれば当てるほど、その人物は一般人から懸け離れた存在となる。ブッダやイエスを考えるとわかりやすい。彼らをヒューマンファクターとして捉えるのか、それとも現象として捉えるのかという問題だ。大雑把にいえば神はヒューマンファクターで、仏は現象といえる。

歴史が人を生むのか、人が歴史をつくるのか?/『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン

 近代世界における変化というのは、人間の自己意識の発展にありますが、これはデカルトに始まると言えるでしょう。

 ここからクライマックスに至る。

 現世的社会は教会によって形作られ、組織されていたもので、それ自身の合理的生命を持つものではありませんでした。民衆は、歴史以前の民衆と同じことで、歴史の一部であるよりは、自然の一部だったのです。近代の歴史が始まったのは、日増しに多くの民衆が社会的政治的な意識を持つようになり、過去と未来とを持つ歴史的実体としてその各自のグループを自覚するようになり、完全に歴史に登場して来た時です。社会的、政治的、歴史的意識が民族の大部分に広がり始めるなどというようなことは、僅かな先進諸国においてさえ、精々、最近200年間のことでした。

 私の意識は吹っ飛んだ。気がついた時はリングの上で大の字になっていた。いや本当の話だよ。

 すなわちデカルトが自我を発明(『方法序説』1637年)し、それ以前の民衆は「歴史の一部であるよりは、自然の一部だった」と喝破(かっぱ)している。

 歴史とは自覚的なものなのだ。

 自我と経済が結びついて近代の扉は開かれた。産業革命~資本主義、市民革命~国民国家という構図だ。

 そうすると民主主義という概念は、歴史の主体者であることを民衆に吹き込む思想なのだろう。しかしながら我々は「現象」であることを免れないのだ。カーの見識は自由意志のテーマにも深く関わってくる。

 読書の昂奮極まれり、という一書である。

E・H・カーの『歴史とは何か』再読



歴史という物語を学ぶための教科書
世界史は中国世界と地中海世界から誕生した/『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』岡田英弘
コロンブスによる「人間」の発見/『聖書vs.世界史 キリスト教的歴史観とは何か』岡崎勝世
自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』 養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他
物語の本質~青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
新約聖書の否定的研究/『イエス』R・ブルトマン
ニーチェ的な意味のルサンチマン/『道徳は復讐である ニーチェのルサンチマンの哲学』永井均
宗教は人を殺す教え/『宗教の倒錯 ユダヤ教・イエス・キリスト教』上村静
宗教と言語/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
歴史という名の虚実/『龍馬の黒幕 明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン』加治将一
あたかも一角の犀そっくりになって/『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
大衆は断言を求める/『エピクロスの園』アナトール・フランス

2011-09-21

せめて「小銭か微笑みを」


「ペニーか微笑みを」と書かれた段ボールを持つホームレスの男性。1ペニーは1/100ポンドである。現在、円高が進んでおり1ポンドは120円だ。道行く人々は急いでいる。道端に座った男には目もくれないで歩く。少しばかりの善意も当てにできないような世界であれば、彼の心に犯罪の火が点(とも)ってもおかしくはない。見知らぬ人を助けることが、まるでリスクでもあるかのように我々は考えている。無残な世界で人々は、より残酷になることを奨励される。

penny

乞い人
地に臥して乞う者

2011-09-20

どの時代にも転換点がある


「どの時代にも、転換点がある。世界の一貫性を見る、そして、表現する新たな仕方がある」(ジェイコブ・ブロノフスキー)

【『エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する』ブライアン・グリーン:林一、林大訳(草思社、2001年)】

エレガントな宇宙―超ひも理論がすべてを解明する

光と闇、赤と青


 光と闇がせめぎ合い、世界を赤と青に染め上げる。立ち込める霧が沈黙を支配する。手前の木の緑色が辛うじて生の痕跡をとどめている。そして山並みの背後から光の合唱が沸き起こるのだ。

* 2's mt blue breaking *

コミュニケーションの可能性/『逝かない身体 ALS的日常を生きる』川口有美子


『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』渡辺一史
『往復書簡 いのちへの対話 露の身ながら』多田富雄、柳澤桂子

 ・コミュニケーションの可能性

必読書リスト その二

 ALS(筋萎縮性側索硬化症)は神経細胞が徐々に死んでゆく病気(神経変性疾患)で、筋力低下により身体が動かなくなる。進行が早く3年から5年で死に至る。今現在、有効な治療法はない。素人の目には筋肉が死んでいくような症状に見え、筋ジストロフィーと酷似している。

 生老病死(しょうろうびょうし)が倍速で進むのだから、本人にとっても家族にとっても過酷な病気である。

 母の身体だけではなく、私の人生の歯車も狂いだしているとぼんやりと感じられもした。実際、その日(※母から国際電話があった日)を境に私の関心は、子どもたちから日本の母へと移らないわけにはいかなくなった。

【『逝かない身体 ALS的日常を生きる』川口有美子〈かわぐち・ゆみこ〉(医学書院、2009年)以下同】

 川口一家は夫の赴任先であるイギリスで暮らしていた。母親が難病となった以上、帰国しなければならない。自分の負担もさることながら、家族にも新たな負担をかけることになる。子供たちはまだ幼かった。

 ロックトイン・シンドロームという名称は医学用語ではなく、状態を示す言葉である。なかでも、まったく意思伝達ができなくなる「完全な閉じ込め状態」はTLSという別名を与えられていた。

 TLSとは「トータリィ・ロックトイン・ステイト(Totally Locked-in State=TLS)」のこと。私は本書で初めて知った。精神活動が閉じ込められることを意味するのだろう。

 ALSの場合だと最後の砦は瞬(まばた)きや目の動きである。それが失われると次に訪れるのは呼吸停止である。人工呼吸器を装着したとしても最終的に心臓が止まる。意外と見落としがちだが、心臓も筋肉で動いているのだ。

 病いの物語に多数の伏線が生じるのは病人のせいばかりではないし、母ではなく私の物語りも始まってしまうのは仕方がないことなのだ。病人たちの傍らにいるうちに、私の物の見方が変化したために夫が離れていったのである。夫の専業主婦だった私が「変わった」のは間違いではないが、夫も妻の体験にはいっさい興味をもたなかった。

 介護における夫婦の擦れ違いは決して珍しいことではない。熱意があるほど心理的なギャップが生じる。まず現実の問題として時間が奪われる。当然、介護のために別の何かが犠牲となる。その犠牲に対して齟齬(そご)が生じるのだ。例えば子供にとっては弁当を作ることや、参観日に来ることなどが切実な問題と化すケースがある。川口夫妻は後に離婚する。

 強気で生きてきた母親が少しずつ弱音を吐くようになる。

 こうして思い返してみると、母は口では死にたいと言い、ALSを患った心身のつらさはわかってほしかったのだが、死んでいくことには同意してほしくはなかったのである。

 病気自体がそもそも矛盾をはらんでいる。因果関係に思いを馳せ、「どうして私が」「なぜ今なのか」となりがちだ。難病や重病になるほど本人が放つメッセージも混乱することが多い。矛盾した言葉から本人の気持ちをすくい取ることは想像以上に難しい。

 筋力が低下する様相を母親はこう語る。

「地底に沈み込むような感じ」
「体が湿った綿みたい」
「重力がつらい」
「首ががくんとする」

 知覚から恐怖が忍び寄る。沈みゆく船の中でじっと浸水を見つめているような心境であろう。そして言葉を失った後の領域を我々は知ることができないのだ。24時間続く金縛り状態、これが「閉じ込め症候群」だ。

 神経内科医のもっとも重要な仕事のひとつに、家族をいかにその気にさせられるか、ということがある。「できる」と思わせるか、それとも「できない」と思わせるかは、その医師の心掛けしだいなのだが。

「人工呼吸器といってもメガネのようなものです」との言葉で装着を決意する。やはり命に関わる仕事には、物語を紡ぐ力が求められる。メガネという軽い言葉の裏側に生命を重んじる態度が窺える。しかしながら、これは結構勇気のある発言で、あとあと「メガネと違いますよね?」とケチをつけられるリスクを含んでいるのだ。それ相当の責任感がなければ言えるものではない。

 それは予想をはるかに超えた重労働であった。介護疲れとは、スポーツの疲労のように解消されることなどない。この身に澱(おり)のように溜まるのである。

 看護師を雇えば、1ヶ月400万円を超す作業を川口は妹と二人で行っていた。介護や看病は労多くして報われることが少ない。実際、「子供なんだから親の面倒をみるのは当然」と考えている親も多く、認知症が絡んでくると虐待に至ることも珍しくない。閉ざされた空間に自分を見失う機会はいくらでも転がっている。介護をしている人たちにも何らかのケアが必要なのだ。

 もっとも重要な変化は、私が病人に期待しなくなったことだ。治ればよいがこのまま治らなくても長く居てくれればよいと思えるようになり、そのころから病身の母に私こそが「見守られている」という感覚が生まれ、それは日に日に重要な意味をもちだしていた。

 諦(あきら)めには2種類ある。達観と無気力だ。後者は関係性を断絶する。我々の価値観は生産性に支配されている。教育も政治も効果が問われる。実際問題として治る見込みのない病人は病院を追い出され、よくなる見通しの立たない障害者のリハビリ治療は打ち切られる。私はこれを「悪しきプラグマティズム」と名づける。

 効用を重んじるあまり、我々はコミュニケーション不能となり、生の重みを見失ったのだ。

 川口の達観は一種の悟りといってよい。わけのわからない哲学よりも遥かな高みに辿り着いている。

 たとえ植物状態といわれるところまで病状が進んでいても、汗や表情で患者は心情を語ってくる。
 汗だけでなく、顔色も語っている。

 私は頬を打たれたような衝撃を受けた。川口が示しているのはコミュニケーションの可能性であったのだ。「コミュニケイト」は「つながっている」ことを意味する。その状態とは理解-共感である。これは理解から共感に至るのではなくして同時であらねばならない。すなわち理解即共感であり共感即理解なのだ。

 コミュニケーションは情報交換から始まる。通常であれば言葉や声のイントネーション、目つき、仕草、顔色、態度、その他諸々をひっくるめた情報を受け取る。ところが川口は「汗」でわかるというのだから凄い。

 やはり、「見る人が見ればわかる」のだ。私の目はまだまだ節穴であることを痛感した。

 そう考えると「閉じ込める」という言葉も患者の実態をうまく表現できていない。むしろ草木の精霊のごとく魂は軽やかに放たれて、私たちと共に存在することだけにその本能が集中しているというふうに考えることだってできるのだ。すると、美しい一輪のカサブランカになった母のイメージが私の脳裏に像を結ぶようになり、母の命は身体に留まりながらも、すでにあらゆる煩悩から自由になっていると信じられたのである。

 母は病身を通して娘をここまで育てたのだろう。コミュニケーションとはかくも荘厳なのだ。そして理解-共感という悟性がこれほど人生を豊かにするのだ。

 実は証拠がある。

「閉じ込め症候群」患者の72%、「幸せ」と回答 自殺ほう助積極論に「待った」

 健常者からすれば「不自由な身体」に見えるが、実際は精神が身体に束縛されているのかもしれないのだ。自由と不自由は紙一重である。川口は介護という不自由の中から自由な境地を開いた。何と偉大なドラマだろう。12年間に及んだ修行といってよい。

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「沈黙の身体が語る存在の重み 介護で見いだした逆転の生命観」柳田邦男
植物状態の男性とのコミュニケーションに成功、脳の動きで「イエス」「ノー」伝達
パソコンが壊れた、死んだ、殺した
ストレスとコミュニケーション/『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
いちばん大切なことは、コミュニケーションがとれるということ/『紙屋克子 看護の心そして技術/別冊 課外授業 ようこそ先輩』
対話とはイマジネーションの共有/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
コミュニケーションの第一原理/『プロフェッショナルの条件 いかに成果をあげ、成長するか』P・F・ドラッカー
死線を越えたコミュニケーション/『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
孤独感は免疫系統の力を弱める/『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
チンパンジーの利益分配/『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
コミュニケーションの本質は「理解」にある/『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムーティ
言葉によらないコミュニケーションの存在/『あなたは世界だ』J・クリシュナムルティ
現代人は木を見つめることができない/『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ
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