2011-10-08

大田俊寛の中沢新一批判を「私怨」と決めつけた佐藤剛裕の言いわけ


 大田俊寛と佐藤剛裕のツイートをまとめた。オブジェクトの埋め込みが上手くいかないので、テキストをそのままコピーさせてもらう。@ujikenorioさんからのRTで知った。



【大田俊寛】▼コミックナタリー編集長の唐木元さん(@rootsy)、文化人類学者の佐藤剛裕さん(@goyou)に対し、公開で質問させていただきます。お二方は、昨日10月5日のツイートにおいて、私がこれまで発した中沢新一氏への批判に対し、「私怨」に基づく「売名行為」ではないかと述べています。

【大田俊寛】▼具体的な経緯は以下の通り。まず唐木さんが佐藤さんに対し、「サイゾーの、太田という人はそんなに筋が悪くないのに、中沢先生をああも敵視するのはなんなのか、不思議に思えた。なんかうらみでもあんのかしらね。」とツイートしました。

【大田俊寛】▼これに対して佐藤さんは、「東大のグノーシス研究の人でしょう?彼、山口瑞鳳とか島田裕巳とかの私怨に満ちた言説を引き継いじゃってるんだよね。ただの売名行為なのか嫉妬なのかしらないけれど。」と返答し、唐木さんは「やっぱ私怨に見えるよねw。」と応じています。

【大田俊寛】▼私は中沢氏との個人的接触は一切なく、その批判が「私怨」に基づくものであるということはありません。『オウム真理教の精神史』でも述べたように、オウム事件を学問的にあらためて総括し、ひいては宗教学を再構築するというのが私の目標であり、中沢批判はその文脈に位置しているものです。

【大田俊寛】▼また、山口瑞鳳先生、島田裕巳氏による中沢批判についても、大枠としては、元オウム信者の高橋英利氏による「僕と中沢新一さんのサリン事件」(『宝島30』1996年2月号)という記事に基づくものであり、それを「私怨に満ちた言説」と捉えるのは当たらないと考えます。

【大田俊寛】▼唐木元さんや佐藤剛裕さんは、私を含むこれらの人々の中沢批判を、なぜ「私怨」から発するものと考えるのでしょうか。その根拠を提示していただきたいと思います。そしてその根拠が提示できない場合、発言を撤回していただきたいと思います。

【大田俊寛】▼唐木さんや佐藤さんが私のツイートを読む可能性は低いと思いますので、お二方とフォロー関係にあるという方がいらっしゃれば、私の質問に対して応答するように伝えていただけないでしょうか。どうぞよろしくお願いいたします。

【佐藤剛裕】知らんぷりしようと思っていたんだけれど、わざわざRTしてくれる人もいるのでちょっと書こうかな。

【佐藤剛裕】@t_ota 大田さん、わざわざリプライをありがとうございます。大田さんが宗教学理論を再構築するという高い志を掲げているのに、私怨くさいという印象を持ったのはきっと僕の誤読だったのでしょう。いつか大田さんの著作を読んで詳細な議論をみれば、また見解が変わるのかもしれません。

【佐藤剛裕】@goyou @t_ota 僕は宗教学理論を再構築するというような高い志を掲げて中沢新一を批判的に乗り越えようというような研究ならば、ぜひ読んでみたいと思っているんですよ。中沢のハイデガーの解釈のここがおかしい!とか、あの贈与経済学仮説にはここに不備がある!とかね。

【佐藤剛裕】@goyou @t_ota オウム事件についてなら週プレの「オウム信者への手紙」や別冊Imagoの「尊師のニヒリズム」、『緑の資本論』の「シュトックハウゼン事件」の批判などはなかなか出てこない。とくに事件直後の「オウム信者への手紙」では師弟間の癒着の問題の指摘もなされているのに。

【佐藤剛裕】@goyou @t_ota 揚げ句の果てに主な論拠として出てくるが、あの一連の宝島30の記事だというのならば、およそ議論の本筋からは遠く離れた感情的なものになっているのではないかというのが正直な印象なのです。

【佐藤剛裕】@goyou @t_ota 印象だけで語るのもなんですから、とくに山口瑞鳳氏の言説が資料として不適切だということについては、やや専門的な話になるのですが僕の見解を示しておきます。

【佐藤剛裕】@goyou @t_ota 近代チベット学の発展初期には、ゲルク派のセラ寺メ学堂に属する僧侶達を主な情報源とする帝政ロシア下のペテルスブルグ学派が一定の影響力を持っていました。セラ寺メ学堂はニンマ派を敵視する傾向の強い、ダライ・ラマ13世とは対立する政治集団の最大の本拠地でした。

【佐藤剛裕】@goyou @t_ota 中央チベットのウ地方とツァン地方を治める氏族たちの古代から連綿と続く対立が原因となり、東チベットやモンゴル諸部族を巻き込んだ闘争が、ゲルク派の保守強硬派の極端な反ニンマ派的傾向を産みだしました。思想的発端も中世の古代史解釈にまで遡る根深いものです。

【佐藤剛裕】@goyou @t_ota 山口瑞鳳氏はそのようなゲルク派の反ニンマ派プロパガンダ言説を極端な形で受け継いで、ニンマ派の密教は全て性瑜伽だというような誤謬に満ちた主張を行っていました。そこに中沢新一がネパールでニンマ派の調査をして帰ってきたので、当然面白く思ってなかったようです。

【佐藤剛裕】@goyou @t_ota 宗教研究一般において、先行研究の成果というものは、情報提供者の政治的立場による偏向を読み取り補正してながら利用しなければならないものです。中沢新一批判という文脈で山口瑞鳳氏の言説を取り扱うのは、「ニンマ派って何?」という程度の知識では難しいはずです。

【佐藤剛裕】@goyou @t_ota また、チベット学界における山口瑞鳳氏の研究全般の評価についての例として、1994年に書かれた批判論文をひとつご紹介します。福田洋一「日本のチベット学10年、−山口瑞鳳博士の研究を中心に−」『佛教學』36号 http://ci.nii.ac.jp/naid/40004207632

【佐藤剛裕】@goyou @t_ota 島田氏は大学時代の柳川ゼミの先輩・後輩の仲でもあり、あの事件に関連して大学を辞職させられるという辛いご経験をされて、中沢先生に対して個人的に複雑な感情が入り交じっていることはご本人も吐露している通りですから、その部分は考慮しなければならないでしょう。

【佐藤剛裕】@goyou @t_ota もちろん中沢新一先生と師弟関係にある僕の意見も批判的にお読みくださいね。中沢が反原発を掲げる環境保護政党を立ち上げようとしている時期だから、ネット上で中沢擁護の論戦を張ろうとしているに違いない!とか思って下さってもけっこうです(大爆笑)

【佐藤剛裕】@goyou @t_ota ちなみに僕がサンガ・ジャパン第五号・第六号に寄稿した論考は、山口瑞鳳氏がしてきたようなゲルク派の立場からのニンマ派批判に対する反駁であり、同時にオウム真理教のグルイズムに対する批判でもあります。御笑覧下さい。『サンガジャパン Vol.5(2011Spring)

【大田俊寛】★佐藤剛裕(@goyou)さん、ご回答有難うございました。しかし佐藤さんの回答は、腑に落ちないところがあります。佐藤さんは「文化人類学者」という立場にもかかわらず、私の言論に対して公開の形で中傷を行ったのですから、まず最初に、そのことを率直に詫びるべきではないでしょうか。

【大田俊寛】★また、山口瑞鳳先生にしても、島田裕巳氏にしても、中沢氏から何か個人的に被害を受け、それに恨みを抱いて中沢批判を行っているというのではまったくないのですから、それを「私怨」と捉えるのは、やはり当たっていないと考えます。

【大田俊寛】★今回特に、私が佐藤さんの発言に抗議しなければならないと思ったのは、山口瑞鳳先生の中沢批判、さらには、山口先生との対談が収められた高橋英利氏の「僕と中沢新一さんのサリン事件」(以下、高橋論考と略)までもが、「私怨に満ちた言説」の一言で切り捨てられているように感じたからです。

【大田俊寛】★私が高橋論考を読んだのは、遅ればせながら昨年の夏のことでしたが、私はこの論考から、いくつものことを教えられました。まずその一つは、二〇歳前後までは私も熱心なファンであった中沢新一という人物が、本質的にどのような人間性を備えているかということについてです。

【大田俊寛】★中沢新一氏は地下鉄サリン事件後、オウム信者を「本気で引き受ける」と発言し、高橋英利氏を含む元オウム信者は、オウムがどこで道を踏み外したのかということを、中沢氏に質問しました。それに対して中沢氏は、どのように答えたか。

【大田俊寛】★詳しくは高橋論考を実際に読んでいただきたいのですが、それは「サリン事件の被害者が一万人とか二万人の規模だったら別の意味合いがあった」「坂本事件の犯人はオウムではない」「オウム事件の背後には大きな謀略がある」といった、耳を疑うような発言の数々だったのです。

【大田俊寛】★その答えに納得できない高橋氏は、「それはどういう意味か」と中沢氏に問い質しましたが、中沢氏はそれには回答せず、高橋氏の行動や人格を非難・侮辱する発言を繰り返した挙げ句、最後には一方的に「絶交」を宣言したのです。

【大田俊寛】★ここから分かるのは、中沢氏の思考が、きわめて濃密な幻想によって覆われているということです。こうした人間は、自分の幻想を共有してくれる人々に対しては、海のように深い優しさや包容力を示しますが、その人間が自分の幻想を否定していると分かるやいなや、態度を大きく豹変させます。

【大田俊寛】★そしてその際には、最初の人格とは正反対の人格、すなわち、陰湿な攻撃性や、混乱した感情に満ちた人格が現れてくるのです。率直に申し上げて、私はここに、「カルトの教祖」に類似したと言って過言ではない、特異な精神性の存在を感じ取らざるを得ません。

【大田俊寛】★第二に、中沢氏のチベット密教研究が、信頼に値しないものであるということです。もちろん、中沢氏を批判する山口瑞鳳氏のチベット密教理解もまた、一定の偏りや単純化が見られるものであるというのは、おそらくその通りだろうと思います。

【大田俊寛】★しかし、高橋氏のように、中沢氏の『虹の階梯』に真理性を見出してオウムに入信したという人間にとって、山口氏という専門家から中沢氏への苛烈な批判を聞かされたこと、また、仏教やチベット密教についての違った視点を与えられたことは、大きな意味があったのではないでしょうか。

【大田俊寛】★福田洋一氏の「日本のチベット学10年」も拝読しました。この論考は、チベット学の権威としての山口氏の業績を認めた上で、まさにそれを批判的に継承しようとしたものです。山口氏が盲目的に崇拝されていないという点で、日本のチベット学の学問的健全性を示していると感じました。

【大田俊寛】★それに比して気になるのは、中沢新一氏は、日本においておそらくもっとも著名なチベット密教研究者でありながら、この論文では一顧だにされていないということです。福田洋一氏もまた、山口氏と同じく、中沢氏の研究は学問的には「論外」であると見なしているのではないですか。

【大田俊寛】★また、手元に『サンガジャパン Vol.6』を持っていたので、佐藤さんの「ダライ・ラマの慈悲とチベットの大地母神」を読みましたが、これのどこが山口批判やオウム批判になっているのか、門外漢の私にはよく分かりませんでした。もっと直接的な批判的論考を、別に書くべきではないでしょうか。

【大田俊寛】★中沢氏の「シュトックハウゼン事件」(『緑の資本論』所収、2002年)にも目を通しました。率直に申し上げて、唾棄すべき愚劣な論考、というのが私の印象で、これまで私が言ってきたとおり、中沢氏にはそもそもオウム事件を反省しうるだけの知的能力がないという事実を再確認させられました。

【大田俊寛】★音楽家シュトックハウゼン氏の舌禍事件と、宗教学者である中沢氏のオウム礼賛は、根本的に水準の違うものであり、両者を比較しても意味がありません。そして何より気になるのは、中沢氏がこの論考において、宗教の本質が「聖なる狂気」にあるという見解を繰り返していることです。

【大田俊寛】★宗教や芸術の本質は「聖なる狂気」にあり、それは場合によっては、圧倒的暴力や破壊に行き着くこともある。それを理解しない一般社会は、宗教家や芸術家の崇高な行為を妨害し、彼らを不当に貶めるための陰謀を張り巡らしている…。中沢氏の思考回路は、オウム事件以前と何ら変わっていないのです。

【大田俊寛】★今回中沢氏が、緑の党を結成して政治進出する意志を発表したことについて、私は中沢氏が、約二万人に及ぶ犠牲者を出したことで東北地方の「霊的磁場」が変わり、そこに救済者として降臨するという幻想でも抱いているのではないかという危惧を覚えずにいません。これは私の根拠のない妄想でしょうか。

【大田俊寛】★幻想やオカルトにしか触れたことのないロマン主義的思想家が、現実社会に不満を覚えて政治参加を志すとき、それがどれだけの惨禍を引き起こしてきたかを、私たちはもう知っているはずなのです。今の日本社会は、こうした幻想家に関わり合う余裕はもうないはずだというのが、私の考えです。(終)

【唐木元】@t_ota 大田さんはじめまして。ツイート拝読したのでまずはそのことをお知らせしますね。ご質問ですが、あとでメールでお返事する形にさせてください。その文面を公開なさるかどうかはお任せします。OKなら空メールで結構ですのでgen@rootsy.netまで1通投げてください。



 相手に読まれることが十分想定されるにもかかわらず佐藤剛裕は「知らんぷりしようと思っていたけれど」と前置きし、「私怨くさいという印象を持ったのはきっと僕の誤読だったのでしょう」と他人事みたいにとぼけている。完全に罪悪感が欠如しており境界性人格障害傾向が窺える。

人格障害(パーソナリティ障害)に関する私見

 唐木に至っては、悪口雑言をtwitterで垂れ流しておきながら「メールを寄越せ」と返信している。彼の辞書に礼節という語はないのだろう。言いわけは非公開で、ってのは随分と都合がよすぎやしないか?【※私の誤読であった】

 今後、佐藤剛裕と唐木元の名前を見つけたら、私はその本を極力読まないようにする。

自ら「グル」になろうとした中沢新一ら研究者たちの罪と罰
中沢新一批判をめぐる論争:togetter
岩上安身×宮崎哲弥 ぼくらの「オウム」戦争(『宝島30』1996年6月号)
大田俊寛と佐藤剛裕の議論から浮かんでくる宗教の危うさ
山形浩生 の「経済のトリセツ」

オウム真理教の精神史―ロマン主義・全体主義・原理主義 グノーシス主義の思想―“父”というフィクション サンガジャパン Vol.7(2011Autumn)

シンプル・イズ・ベスト


 私は世の中がゴテゴテしたもので溢れていることを本能的に悟った。だから簡潔で、それでいて洗練されたスタイルを目指すことに決めたの。

スリム・キース

"Slim" Keith, 1945

Slim Keith

女子割礼(女性器切除)禁止に直面するマサイ、遠い道のり ケニア


 ケニア南西の町ナロク(Narok)にある小さな教会では、女子割礼(女性器切除)から逃れてきたマサイ人(Maasai)の少女十数人が保護されている。女子割礼はマサイ人の古くからのしきたりだが、ここにきて、健康上の懸念や新法の制定により伝統にほころびが生じつつある。
 マサイの長老たちは女子割礼を文化だとして強く擁護している。そんな中、この教会の牧師ら一部のマサイ人たちは伝統に背を向け、2007年、ナロクに少女たちの「駆け込み寺」として教会直属の保護センター「マサイの少女たちの希望(Hope for the Maasai Girls)」を設立した。
 だが、運営はスムーズではない。怒った男たちがしばしば設立メンバーを脅迫したり、逃げ込んだ娘を親が勘当したりするためだ。

早ければ9歳から、割礼が根付いた社会

 マサイ社会の伝統では、少女は結婚する前にまず割礼を済ませなければならない。そして親にとって娘を嫁に出すことは、婚資(夫方から妻の実家への贈り物)をもらえることを意味する。婚資はたいてい、牛数頭。半遊牧民のマサイにとっては大きな財産だ。
「未割礼の少女を嫁にもらうと、男の価値が下がるとみなされます。割礼を受けていないと参加できない儀式もあるのです」と、保護センターを運営するマーティン・オロロイゲロさんは説明した。
 学校が休みに入ると、マサイの少女たちは早ければ9歳で、大人への通過儀礼として割礼を受ける。これは自動的に、はるかに年配の男性のもとへ嫁がされる状態になったことを意味する。
「マサイは他の部族とは違って、割礼を済ませてもいないような娘を嫁には出さない。割礼が済めばその娘は成人だ。男に嫁ぐことができるんだから良いことだ」と、ナロクのある長老は語った。
 保護センターにいる少女たちに、割礼から逃げた経緯について聞いてみた。15歳のマリーさんは、「両親が死んだあと私を引き取った保護者が私を結婚させようとしたから、ここに逃げてきたの」と語った。「割礼されて結婚させられた女の子は、苦しい生活を送ることになる。わずかな収入を得るために卑しい仕事もせざるを得なくなるから」
 同じく15歳のサラさんも同意した。「割礼されたら、出産がとても困難になる。だから割礼を拒否したんです。それに、嫁ぐ相手はおじいさんで、もし死んでしまえば残された女の子は生き延びるために大変な苦労をしなければならなくなる」

ファーストレディーも廃止に意欲

 女子割礼の風習があるのはマサイだけではない。ケニアの他の部族も行っている。割礼では陰核を時には外陰部と一緒に切除するが、使われる刃物は消毒していないことも多く、麻酔なしに行われることも少なくない。その結果、合併症を起こしたり、出血多量で死亡する例もあり、NGOやケニア政府からは批判の対象となっている。
 ケニア議会は先に、女性器切除(FGM)禁止法案を可決し、法制化した。違反者には禁錮7年または罰金5000ドル(約40万円)が科され、相手が死亡した場合は終身刑となる。
 同国のルーシー・キバキ(Lucy Kibaki)大統領夫人は9月、この新法の厳格な適用を呼び掛けた。「これらの罰則は、効果的に実施されれば十分な抑止力になる。FGMが一般的な地域では出産時の母親と新生児の死亡率が高いが、一因はFGMだ」
 とはいえ、マサイ社会では女子割礼がいまだに広く行われており、支持する人も多い。保護センターのオロロイゲロさんは次のように話した。「すぐに廃止にはならないでしょう。時間がかかります。私たちは地域社会を混乱させたいわけではありません。私たちもその一員なのですから。徐々に変わることが望ましいのです」

AFP 2011-10-07

 女子割礼(女性器切除)は宗教と似ている。たとえ誤っていたとしても、後の時代に「伝えられたもの」が正当化される仕組みとなっているからだ。「歴史とは書かれたもの」で「伝統とは伝えられたたもの」なのだ。

歴史の本質と国民国家/『歴史とはなにか』岡田英弘

 学校教育をよくよく吟味すると、社会に隷属させる目的で行われていることに気づく。とすると真の教育とは「懐疑する精神」を陶冶(とうや)することなのだろう。合理的な批判精神を欠けば、我々は伝統や風習のコピー媒体と化してしまう。

 実に情けない話だが、以下の動画を私は怖くて視聴することができなかった。

女子割礼
女子割礼
女子割礼に警鐘を鳴らすアムネスティのポスター
動画
閲覧注意:動画
閲覧注意:動画

自己欺瞞


 彼らは立派なことを公言していることに束縛され、また過大な名声の重みに苦しみながら、自分の意志というよりも、むしろ名誉感によって自己欺瞞を続けているのである。

【『人生の短さについて』セネカ:茂手木元蔵〈もてぎ・もとぞう〉訳(岩波文庫、1980年/大西英文訳、2010年)】

人生の短さについて (1980年) (岩波文庫)生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

Seneca the Younger (c. 3 BC – 65 AD)