2011-10-14
大田俊寛と佐藤剛裕の議論から浮かんでくる宗教の危うさ
その後、まだ続いていた。
・大田俊寛の中沢新一批判を「私怨」と決めつけた佐藤剛裕の言いわけ
・中沢新一批判をめぐる論争:togetter
宗教の議論というのは大抵こんな展開となる。学術的な根拠に基づき、専門性の高い詭弁を弄して一般人から懸け離れてゆくのだ。まるで訳知り顔のオールスター戦だ。彼らが言いたいことはただ一つだ。「自分だけが真理を知っている」。ブッダはそれを「我慢偏執」(がまんへんしゅう/我慢=我〈われ〉慢ずる)と切り捨てた。togetterはさしずめ「我慢編集」といったところ。
宗教者は「自分の正義」に取りつかれている。それゆえ彼らは人の話を聴くことができない。彼らが望むコミュニケーションは「私の教えを聴きなさい」ということに尽きる。
「宗教こそが世界中で争いを生んでいる」と主張に対して、「政治が宗教を利用しているにすぎない」という宗教側からの反論がある。
歴史をありのままに見つめれば、世界を股にかけたキリスト教の宣教行動は「思想的征服-支配」を目指すものだ。西洋の白人は有色人種を「劣った者」と決めつけた。もともと理性とは「神が創ったこの世界を合理的に考え理解していく能力」を意味した(参照:「解読新書」 Shuya Takemoto Official Blog)。伝統的なヨーロッパ・キリスト思考は、神を信じない人々を動物として認識し、良心の呵責を覚えることもなく殺戮(さつりく)に次ぐ殺戮を行ってきた。そもそも「人間の定義」が違うのだ。
宗教行為は教える人と教えられる人から成る。つまり宗教は必ず組織化する。そして教団は自分たち以外の信仰は全て悪だと断じる。悪を憎むことは人間にとって自然な感情だ。すなわち教団は「憎悪生産装置」といえる。
彼らが研鑚するのは真理を求めるためではなく、教団の正義を補強する材料を探しているだけだ。ま、耐震強化みたいなもんだ。リフォームという言葉も何か関連がありそうな気がする。
宗教が教団の専売特許となり、教団が正義を規定するのであれば、宗教は必ず国家を目指す。そして果てしない戦争を繰り返してゆくに違いない。なぜならば「敵」は滅ぼすべき対象であるからだ。
組織化、制度化された宗教は既に宗教たり得ない。それは純粋な意味での政治である。だからこそクリシュナムルティは教団を解散したのだ。
平和主義も民主主義も争っている。いずれも現代の宗教といってよい。
元々は佐藤が詫(わ)びれば済んだ話だ。実際に佐藤が謝罪したのは大田の指摘から6日後のことであった。
書き留められた言葉の“死んだ会話”
ソクラテスは、ホメーロスの一節から政治問題、たったひとつの単語に至るまで、あらゆるものに対して、その元になっている思考の核心が明らかになるまで問いかけを続けることを要求した。目標は常に、その思考が社会の最も深遠な価値観をどこまで反映しているか、あるいは反映できていないかを理解することにあり、対話のなかでの弟子との問答は指導の媒体であった。
【『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?』メアリアン・ウルフ:小松淳子訳(インターシフト、2008年)以下同】
ソクラテス式問答法の根底には、言葉に対する独特の考え方がある。指導すれば、真実と善と徳の探究に結びつけることができる、あふれんばかりの命あるもの、それが言葉なのだ。ソクラテスは、書き留められた言葉の“死んだ会話”とは違って、話し言葉、つまり“生きている言葉”は、意味、音、旋律、強勢、抑揚およびリズムに満ちた、吟味と対話によって一枚ずつ皮をはぐように明らかにしていくことのできる動的実体であると考えた。それに反して、書き留められた言葉は反論を許さない。書かれた文章の柔軟性に欠ける沈黙は、ソクラテスが教育の核心と考えていた対話のプロセスを死すべき運命へと追いやったのである。
・歴史的真実・宗教的真実に対する違和感/『仏教は本当に意味があるのか』竹村牧男
・宗教と言語/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
登録:
投稿 (Atom)