2冊挫折。
『思想としての仏教入門』末木文美士〈すえき・ふみひこ〉(トランスビュー、2006年)/試みはよいと思うが、古い枠組みから脱却できていない。がっかりするほどダメだ。こんなレベルでパスカル・ボイヤーなどに太刀打ちできるわけがない。
『原始仏教入門 釈尊の生涯と思想から』水野弘元〈みずの・こうげん〉(佼成出版社、2009年/同社、1993年『釈尊の思想と生涯』新装改題版)/良書。特筆すべきは著者によるパーリ語仏典訳が多数挿入されていること。ただし、ティク・ナット・ハンの『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』の後では読む必要がない。
2012-05-05
湯殿川を眺める
・川はどこにあるのか?
・阿呆陀羅經さん 死後に関する無記のタターガタは衆生 2004,6,13,
・湯殿川
・湯殿川を眺める
・『川と人類の文明史』 ローレンス・C・スミス
・『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門 豊かな人生の技法』ウィリアム・ハート
天気がよかったので湯殿川(ゆどのがわ)を見にゆく。川岸のコンクリートで結跏趺坐(けっかふざ)を組み、全身を耳と化す。
右手の下流からせせらぎが聴こえる。金色の風が静かにたなびく。生え放題の雑草を風が撫でているが音はしない。ただ気配だけが動いている。耳を澄ますと左側の上流からもせせらぎの低い音がする。遠くで雀が鳴き、どこかのベランダで何かがカタンと音を立てた。二つ向こうにある橋から自動車の騒音がかすかに流れてくる。
あらん限りの注意を払う。しかしパレスチナ人の叫び声は聞こえない。「なぜだろう?」といつも思う。
昨日の土砂降りのせいか、豊かな水量が澱(よど)みなく流れる。水はまさに来たり、間髪を入れずに去りゆく。
仏の別名を如来(にょらい/タターガタ)という。真如(=真理)より来(きた)りし者との意である。これに対して如去(にょこ)あるいは好去(こうこ)という呼称(スガタ)もある。十号の善逝(ぜんぜい)がこの意であろう。「善く逝く」とは輪廻(りんね)からの解脱(げだつ)を表す。
因(ちな)みにティク・ナット・ハンが仏典に基づいて描いた傑作『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』では「タターガタ」を両方の意味で使っている。
「来る」という語は何となく来迎(らいごう)を思わせる。Wikipediaに「如去は向上自利であり、如来は向下利他である」とあるが、如来にはやはり大乗的な臭みがある。
川を真横から見る。我々は未来を知る術(すべ)をもたない。川上に向かって立てば水は如来と感じるかもしれないが、実際に確認できるのは流れた後だけである。つまり水は流れ去り、時もまた流れ去るものとして知覚される。諸行無常という変化相を思えば、やはり「滅び去る」という実感が湧く。
涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)とは煩悩(ぼんのう)を吹き消した状態である。すなわち煩悩から離れ去るのだ。私という自我から離れる行為でもある。
ふと疑問が起こった。川はなぜ一定の水量で流れているのだろうか? 雨で多少の変化はあっても、目の前の流れは常に一定だ。「不思議だ、不思議だ」と目を丸くしながら私は川に見入った。
少したってから気づいた。水量は一定ではないことに。一定に見えるのは1日を24時間と感じる私の感覚で捉えているからだ。例えば1000年という単位で見れば、川は次々と変化しているはずだ。
私という存在も一定に見えて一定ではないはずだ。我々は一生という単位時間に支配されている。そして可能な限り生にしがみつき、朝露の如き存在となることを極端に恐れる。挙げ句の果てには墓石に名を刻んで、自我を末永くこの世に留(とど)め置こうとする。
去ることは死ぬことだ。どう抗(あらが)ったところで死ぬことだけは避けようがない。生は流れ、過去も流れている。過去を死なせ、自我を滅した時、諸法無我が現れる。
・来ては去っていくもの/『覚醒の炎 プンジャジの教え』デーヴィッド・ゴッドマン編
2012-05-04
2012-05-03
2012-05-02
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