生活保護は行政法上、申請されたら受け付けなければならず、「申請拒否」という手続は存在しない。それを、各地の福祉事務所は舞鶴のように違法に「受付けません」「あなたはダメです」と追い返していた。この対応が今まで「生活保護は厳しかった」と言われる所以。厳正だったんじゃない。違法だった。
— 徳武 聡子(司法書士)さん (@Satoko_Tokutake) 6月 19, 2012
・騰奔静想~司法書士とくたけさとこの「つれづれ日記」
・生活保護
生活保護は行政法上、申請されたら受け付けなければならず、「申請拒否」という手続は存在しない。それを、各地の福祉事務所は舞鶴のように違法に「受付けません」「あなたはダメです」と追い返していた。この対応が今まで「生活保護は厳しかった」と言われる所以。厳正だったんじゃない。違法だった。
— 徳武 聡子(司法書士)さん (@Satoko_Tokutake) 6月 19, 2012
1:1太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。 1:2この言は太初に神とともに在り、 1:3萬の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。 1:4之に生命あり、この生命は人の光なりき。 1:5光は暗黒に照る、而して暗黒は之を悟らざりき。
【大正改訳聖書 - ヨハネ傳福音書】
ヒューマニズム的に人間を見る、即ち人間がその素質の中に、あるいは理想を実現すべき定めの故に、自己の中に神性や、あるいは神との親近性を持つかのように見るのは、イエスには全く無縁である。【かくてイエスには普遍主義なるヒューマニズム的概念は異質である】。
【『イエス』R・ブルトマン:川端純四郎、八木誠一訳(未來社、1963年)以下同】
神の支配が奇蹟的終末論的なものであるように、それに入るべく定められた人も、人間であるからそうなのではなくて、神から召されたからそうなのである。召されたのは先ずユダヤ民族である。
同じように一切のヒューマニズム的個人主義も拒否される。召されるのは個人ではなくて教団であり、教団には約束が与えられるのである。個人が神の支配の中で、賦与された規定を実現し、人格を完成して幸福に到るというのではない。【神】がその支配を現出せしめ、神の意志が成り、教団への約束が果たされるということ、これが神の支配の実現なのである。勿論個人もやはり救いに到達するのであるが、「人格」としてではなく、終末の教団へと召されている一人としてなのである。
人間は選ばれた者となるか、棄てられた者となるか、いずれにせよ、神の支配に対する決断によって、実存全体を規定される。従って現在と将来との関係は、神の国は歴史内のものとして現在始まり将来完成する、という具合ではなく、また神の支配の現在への介入は、人格的資質や心霊的状態等、内面的精神的なものを持っているところに見られるのであって、その完成はまだ将来のことあのだ、という具合でもない。そうではなく、神の支配は真の将来なのである。なぜなら神の支配は何か形而上学的本体、一つの状態、ではなくて、どんな意味でも現在的所与にはなり得ない、将来の神の行動だからである。しかし、それにもかかわらず、この将来は人間の現在を規定し、まさにそのゆえに真の将来なのである。「どこか」や「いつか」ではなく、人の上にやって来て決断を迫るものなのである。
【服従】、これがユダヤ教倫理の本質である。
ゆえに【神の意志】がイエスにとって社会的政治的プログラムではないのは、それが人間や人類の理想像から発する倫理体系、あるいは価値倫理ではないのと同様である。イエスは人格性や徳の概念を知らない(またイエスはそもそもこの単語を用いない。これはヘレニズム的キリスト教内ではじめてあらわれた)。
イエスの愛の要求は全然別様に基礎づけられている。すなわち性格の強さや人格的品位の思想にではなく、服従の思想、自己主張の断念という思想に基礎づけられている。