2012-08-14
幼児期の虐待、うつ病のきっかけになる可能性 米研究
子どもの頃に虐待されたり、虐待の場面を目撃すると、脳の構造が変化し、その後の人生でうつ病を患ったり、薬物を乱用する恐れが出てくるとの論文が、1日の英学術誌「Neuropsychopharmacology(神経精神薬理学)」に掲載された。
研究を発表したのは、米テキサス大学(University of Texas)サウスウエスタン医療センター(Southwestern Medical Centre)、先進画像化研究センター(Advanced Imaging Research Centre)のハオ・ホアン(Hao Huang)氏ら。身体や情緒の発達および脳の成熟で極めて需要とされる青年期の段階での早期発見や予防的カウンセリングに期待がかかる。
ホアン氏がAFPに語ったところによると、MRI(磁気共鳴映像法)を利用し、幼児期の虐待を経験している青年の脳を調べたところ、神経繊維の束からなる脳の白質の特定の場所で、微細な構造の乱れが確認された。
調査は10歳前に肉体的もしくは性的に虐待されたか、6か月間以上家庭内暴力を目撃した経験を持つ青年19人のグループと、こうした経験がない青年13人のグループを、半年ごとに最大5年間比較対照する方法で行われた。虐待被害にあったグループは平均16歳の調査開始当時、肉体も精神も共に健康で、アルコールや薬物への依存も見られなかった。
その後、虐待被害者グループの19人中5人がうつ病を発症した一方、虐待被害のないグループの発症者は1人にとどまった。薬物依存症についても、虐待被害者グループの4人に対し、虐待被害のないグループはわずか1人。さらに両方に当てはまった者は虐待被害者グループから2人出た。
幼児期に虐待の被害にあった青年と後年うつ病を発症した青年、双方の脳を調べたところ、白質の効率性を示すFA値が著しく低かったという。
ホアン氏は「脳のスキャンは、こうした症状を患うリスクが高い若者を特定し、早期予防に有効だと考えている」とコメントした。ただ白質が阻害されるメカニズムについてはまだ解明されていないため、さらなる研究が必要だという。
【AFP 2012-08-13】
・マレーシアで、レイプされて生まれてきた我が子を虐待する動画
2012-08-13
賽は投げられた
ルビコン川を渡らんとするまさにその時カエサルは叫んだ。「ここを渡れば人間世界の悲惨、渡らなければわが破滅。進もう、神々の待つところへ! 我々を侮辱した敵の待つところへ! 賽(さい)は投げられた!」と。あとは決まった運命を確認しにゆくだけだ。
我々の脳は「因果という物語」に支配されている。サイコロの目は幸運と不運とに書き換えられる。ま、キリスト教の運命も仏教の宿命も似たようなものだ。どちらも形を変えた決定論と考えてよかろう。
サイコロは物理的法則によって動くわけだがそれだけではない。必ず何らかの不確実性が働く。因果が絶対的なものであると考えるのは信仰者だけだ。
全知全能の神様はラプラスの悪魔となり、ハイゼンベルクの不確定性原理がこれを打ち砕いた。
賽は投げられた――しかし、どの目が出るかは神様にもわからない。
俵万智~子を連れて西へ逃げる母を歌う
いま出ている「歌壇」九月号(本阿弥書店)に巻頭作品二十首「ゆでたまご」が掲載されています。震災で避難したころの心境を、初めて短歌にしました。「子を連れて西へ西へと逃げてゆく愚かな母と言うならば言え」
— 俵万智さん (@tawara_machi) 8月 16, 2011
・子を連れて西へ西へと逃げて行く…俵万智さんの歌と母の愛に感動
2012-08-12
「哲学:切り開くために」茂木健一郎(第1回応用哲学会、京都大学)
質疑応答で茂木が激昂する場面がある。茂木は質問に込められたプロ市民的な意図を撃った。また、それ以前の質問がとにかく冗長で、一様に「自分」を語っている。茂木の怒りは「コミュニケーションの欠落」に向けられたものだと思う。司会者に「会を司る」緊張感がなく、登壇者に甘えた姿勢が会全体を台無しにしている。
2012-08-11
ニーチェ的な意味のルサンチマン/『道徳は復讐である ニーチェのルサンチマンの哲学』永井均
ルサンチマンの本質
定義的にいうと、ルサンチマンとは、現実の行為によって反撃することが不可能なとき、想像上の復讐によってその埋め合わせをしようとする者が心に抱き続ける反復感情のことだ、といえますが、このルサンチマンという心理現象自体がニーチェの問題だったわけではありません。ルサンチマン自体についても、最後に問題にするつもりではありますけど、ニーチェの問題は、ルサンチマンが創造する力となって価値を産み出すようになったとき、道徳上の奴隷一揆が始まるということであり、そして【実際にそうであった】、ということなのです。つまり我々はみなこの成功した一揆でつくられた体制の中にいて、それを自明として生きている、ということがポイントなのです。この点を見逃すか無視してしまうと、ニーチェから単なる個人的な人生訓のようなものしか引き出せなくなってしまいます。
さて、ルサンチマンに基づく創造ということに関してまず注目すべき点は、初発に否定があるという点です。つまり、他なるものに対する【否定から出発する】ということが問題なのです。価値創造が否定から始まる、だからそれは本当は創造ではなく、本質的に価値転倒、価値転換でしかありえないのです。
狐と葡萄の寓話でいうとこうなります。狐は葡萄に手が届かなかったわけですが、このとき、狐が葡萄をどんなに恨んだとしても、ニーチェ的な意味でのルサンチマンとは関係ありません。ここまでは当然のことなのですが、重要なことは「あれは酸っぱい葡萄だったのだ」と自分に言い聞かせて自分をごまかしたとしても、それでもまだニーチェ的な意味でのルサンチマンとはいえない、ということです。狐の中に「甘いものを食べない生き方こそが【よい】生き方だ」といった、自己を正当化するための転倒した価値意識が生まれたとき、狐ははじめて、ニーチェが問題にする意味でルサンチマンに陥ったといえます。(「星の銀貨」のもつ特別な価値も、この観点から理解すべきです。)
【『道徳は復讐である ニーチェのルサンチマンの哲学』永井均〈ながい・ひとし〉(河出書房新社、1997年/河出文庫、2009年)】
ルサンチマンというキーワードの覚え書きとして保存しておく。
この言葉自体はキェルケゴール(1813-1855年)が確立した後、ニーチェ(1844-1900年)が鼓吹(こすい)し、マックス・シェーラー(1874-1928)が宣揚したとのこと。とすればナポレオン(1769-1821年)が近代の扉を開けて、ちょっと廊下を進んだあたりに「自我の台頭」があったと見ていいだろう。生が死によって逆照射されるように、自我は抑圧を覚えることで芽生えるのだ。
・E・H・カー「民衆は、歴史以前の民衆と同じことで、歴史の一部であるよりは、自然の一部だったのです」
永井はああでもないこうでもないと言葉をこねくり回しているが、ルサンチマンとは「劣情を正当化する物語の書き換え作業」といって構わないだろう。
ナポレオン法典(フランス民法典)の影響も見逃せない。つまりそれまでは道徳が手を縛っていたわけだが、法律が足をも縛ったわけだ。人々は問題解決の最終手段である「暴力」を奪われた。
簡単に結論を述べてしまおう。ルサンチマンを抱くのは「暴力を振るえない」人々である。正義と暴力には親和性がある。否、正義とは形を変えた暴力といってよい。
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