2013-09-08
野口健、宮城谷昌光、アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉、岸田秀、他
10冊挫折、4冊読了。
『性と呪殺の密教 怪僧ドルジェタクの闇と光』正木晃(講談社選書メチエ、2002年)/前置きが長すぎる。
『偶然とは何か その積極的意味』竹内啓〈たけうち・けい〉(岩波新書、2010年)/まどろっこしい。
『確率と統計のパラドックス 生と死のサイコロ』スティーヴン・セン:松浦俊輔訳(青土社、2004年)/冗長。無駄話が多すぎる。
『なぜ少数派に政治が動かされるのか?』平智之〈たいら・ともゆき〉(ディスカヴァー携書、2013年)/これも安冨歩〈やすとみ・あゆむ〉のオススメ。TPP参加に賛成している件(くだり)を読んでやめた。
『100年予測 世界最強のインテリジェンス企業が示す未来覇権地図』ジョージ・フリードマン:櫻井祐子訳(早川書房、2009年)/文章がよくない。本書でも日本が戦争を行うことを予測している。
『続 獄窓記』山本譲司(ポプラ社、2008年)/文章はいいのだが、メンタル面が弱すぎる。
『2円で刑務所、5億で執行猶予』浜井浩一(光文社新書、2009年)/良書。ただし著者の性格が悪い。読者の無知を指摘し続けて辟易させられる。
『徒然草』島内裕子校訂・訳(ちくま学芸文庫、2010年)/時間のある時に読み直す。『徒然草』は本書が一番よい。
『唯幻論大全 岸田精神分析40年の集大成』岸田秀〈きしだ・しゅう〉(飛鳥新社、2013年)/「第三部 セックス論」を除いて読了。ストックホルム症候群で一つ閃きを得た。
『出家の覚悟 日本を救う仏教からのアプローチ』アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉〈みなみ・じきさい〉(サンガ、2009年)/やはりスマナサーラ長老は声聞であるとの確信を強めた。南のことを「先生」とは呼んでいるものの、常に上から目線で語っている。一方、南は南で遠慮しながら自らの疑問を投げかけている。議論が擦れ違う理由は南の仏教アプローチにある。知に傾きすぎているのだ。今のままだと宮崎哲弥の僧侶版となりかねない。
38冊目『写真集 野口健が見た世界 INTO the WORLD』野口健(集英社インターナショナル、2013年)/これはオススメ。素晴らしい写真集だ。しかも廉価(2100円)。構成がまとまりを欠いているのは仕方がない。本書は野口の眼を紹介するところに重きを置いたのだろう。小中学生にも読ませたい作品だ。
39、40、41冊目『太公望(上)』『太公望(中)』『太公望(下)』宮城谷昌光(文藝春秋、1998年/文春文庫、2001年)/3日で読了。殷の紂王、周の文王・武王、周公旦、そしてほんのわずかながら伯夷〈はくい〉と叔斉〈しゅくせい〉まで登場する。彼らの名は鎌倉時代の日本にまで及び日蓮も遺文で紹介している。壮大な復讐譚(ふくしゅうたん)。唯一の瑕疵は幼少の太公望が既に天才として描かれており、由来が示されていないところ。紀元前11世紀において軍に戦略を用いたというのだが凄い。
内村剛介の石原吉郎批判/『失語と断念 石原吉郎論』内村剛介
ゴリゴリの文体が嫌な臭いを放っていた。イデオロギーや教条(ドグマ)から見つめて人間を裁断するような印象を受けた。内村剛介もまたシベリア抑留者であった。そんな彼が同じ苦しみを生き抜いた石原吉郎を徹底的に批判している。
感性の磨耗ということに石原ほどに抵抗した者も少なかろう。
【『失語と断念 石原吉郎論』内村剛介〈うちむら・ごうすけ〉(思潮社、1979年)以下同】
それは石原が詩人であったためではない。死んでしまった鹿野武一〈かの・ぶいち〉と共に生き、彼に恥じない生き様を貫こうとしたゆえであった。私にはそう思えてならない。
・究極のペシミスト・鹿野武一/『石原吉郎詩文集』~「ペシミストの勇気について」
希望が一切持てないにもかかわらず、なお他の精神をいたずらにそこなうようなことだけはさしひかえようとして沈黙する者がある。雄々しくみずから耐えることを強いるのである。彼は沈黙し耐えることによって絶望を拒否する。この沈黙は屈従ではない。迎合という名の屈従を拒むものが彼のうちにあって、それを支えとして沈黙し、絶望と格闘するのである。希望がないというだけではまだ絶望ではない。耐える力を、みずからのうちのこの支柱を失ったときはじめて絶望が訪れる。それまでは、その瞬間までは、私たちは耐えなければならない。むろん他に対してでなく自分自身に対して耐えるのである。
私は猛烈な違和感を覚えた。石原の沈黙は能動的なものではあるまい。かといって強いられたものでもない。彼はただ「沈黙せざるを得なかった」のだ。なぜなら語るべき言葉を失ってしまったからだ。
・ことばを回復して行く過程のなかに失語の体験がある
・詩は、「書くまい」とする衝動なのだ/『石原吉郎詩文集』石原吉郎
一方、鹿野武一〈かの・ぶいち〉は「絶望と格闘」したわけではない。鹿野は絶望を生きた。ロシア人の優しさに接した時、彼は自ら絶望に寄り添い、生きることを拒んだ。それ以降、誰に言うこともなく食を絶(た)ち、苛酷な強制労働に従事した。
・ナット・ターナーと鹿野武一の共通点/『ナット・ターナーの告白』ウィリアム・スタイロン
感覚という門がある。快楽に固執=記憶の強化=自我への執着という公式が成り立つ。本能が司っていた快不快が、現代では情報に支配されている。社会化=ネットワーク化に潜む罠。
— 小野不一 (@fuitsuono) July 8, 2011
私の中を感覚の川が走っている。刺激を感受し、快不快を想い、意志を行使し、認識・識別する。これを五蘊(ごうん)という。五蘊が仮に和合した状態が「私」なのだ。川を運ぶことはできない。なぜなら川に実体はないからだ。ただ川という現象があるだけだ。
— 小野不一 (@fuitsuono) July 20, 2011
快不快への執着が自我の正体。
— 小野不一 (@fuitsuono) August 3, 2011
我々が通常考える幸不幸とは快不快でしかない。乙女の温かな人間性が多くの抑留者に希望を与えたことは疑う余地がない。しかし快は不快の裏返しでしかなかった。たちどころにそれを悟った鹿野は【希望を拒んだ】のだ。彼は人間の実存が特定の情況に左右されることを許さなかった。この瞬間において「世界から拒まれた者」は「世界を拒む者」へと変貌を遂げたのだろう。
鹿野武一〈かの・ぶいち〉の沈黙は深海を想起させる。それに対して内村剛介は押し寄せる波のようにうるさい。
人間を深く見つめる眼差しがなければ、我々は繰り返される革命や改革の歯車となってゆく。
・香月泰男が見たもの/『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆
2013-09-06
米軍カメラマンが見た長崎
焼き場に立つ少年 米軍カメラマンが見たナガサキ... 投稿者 JKzappa
ジョー・オダネルの子息タイグ・オダネルのflickr。/Flickr: The Phoenix Venture's Photostream http://t.co/zW6JsXIwcM
— 小野不一 (@fuitsuono) September 6, 2013
・アメリカ人の良心を目覚めさせた原爆の惨禍/『トランクの中の日本 米従軍カメラマンの非公式記録』ジョー・オダネル
・ジョー・オダネルと日本人の交流
2013-09-05
自転車・オートバイ空気入れ(フットポンプ式) 大橋産業 ツインシリンダー
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