賞味期限は約1年後。非常食によいと思う。リッツやビスコよりも美味い。
「五穀で元気!」が美味い。 http://t.co/FNocMuxuke
— 小野不一 (@fuitsuono) October 30, 2013
【12個セット】木村 五穀で元気 3枚×14袋 |
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つまり、うまく歩けないときには、ガマンして乗り切るのではなく、少し浅めの深呼吸をして力を抜くのである。力をこめることは誰にでもでき、また反射的な対応は力をこめてしまっている。だが、力を抜くためには、少しエクササイズ(練習)がいる。
【『哲学、脳を揺さぶる オートポイエーシスの練習問題』河本英夫〈かわもと・ひでお〉(日経BP社、2007年)以下同】
本書で展開しようと思うのは、こうした身体行為を含めたイメージの活用法であり、【イメージを通じて経験の動きに自在さを獲得することである】。
ここで重要なのは、「学習」と「発達」を区別しておくことである。
視点や観点の選択肢が一つ増えることは、学習の成果である。それに伴って知識も増える。しかし、能力そのものの形成や、能力形成の仕方を修得するのでなければ、テクニックが一つ増えるだけにとどまってしまう。(中略)【本来、課題になっているのは、能力を形成することであり、発達を再度リセットすることである】。
個々人の肺でさえ、酸素吸着能力はトレーニングによって7倍もの開きがでてくる。
【手は外に出た脳であり、身体は外に出た脳の容器である】。
【発達のリセットには、わかるとは別の仕方で「できるようになる」という広範な視野がある。こうした領域ではイメージが決定的に利いている】。
歴史は、一定の長さと、一定の隔たりを必要とする。ある隔たりがなければ歴史とは言わない。そこで「1秒の歴史」という語を、無理やりひねり出してみる。
身体の感覚は、不要であるものをおのずと無視するようにできている。
立てた途端に終わっている問いは、本当は問いではない。
【実は狭い問いに拘泥してしまって、どうにも前に進めなくなってしまう人はとても多い】。
日常の余り部分としての余暇ではなく、本当に楽しい日々であれば、楽しさのなかになにかを発見するものである。ただ楽しいというのは、偽りの楽しさにすぎないのかもしれない。そのため玉手箱のような封印が必要なのである。そうだとするとあの玉手箱の意義は、偽りの楽しさの代償である。
【見いだしてしまった問いによって自分の経験の仕方がいくぶんかでも変化すれば、それは良い発見を行ったのである】。
賢明さと優秀さは別のことである。
次元を一つ増やすと、実はもう一つの見え姿がある。
うまい事例を出せる人は、うまく経験を処理できる。
目盛りの単位を、測度(メジャーメント)という。測度は空間的な大きさだけではなく、感覚質の目盛りの細かさに関連している。
【測度を変えて生きるには、それまで見えていなかったものが見えてきたり、それまで見えていたものが消滅するような経験が必要である】。
スケール変換では、視野だけではなく視界まで変わる。
1軒の家の一部屋だけは、「柔(軟)らかい部屋」というのをつくってみることにする。
火の強さの度合いはおのずとわかるのである。この度合いを「強度」と呼ぶ。
ある意味で感覚的に捉えられたこの強度を、目盛りによって計量された測度に置き換えていく作業が、経験科学の営みだったのである。
人間の世界は、見えないものに満ちている。あるいはほとんどの現実は見えるものではなく、見て知るようなものでもない。【かたちや色は見えるが、それ以外の物性(素材の本質)のほとんどは見えない】。唾液のなかのつやの素は見えず、樹皮に含まれる染料も見えない。働きや活動は、通常見えない。胃は見えるが消化は見えない。脳は見えるが思考は見えない。細胞の構造は見えるが、細胞の働きそのものは見えない。見えないものは恐らく無数にある。眼前に机がある。この机は炭素でできている。しかし、炭素は見えない。
現実は一つには決まらないのだから、非決定論なのか。実はそうではない。マッチを擦るような単純な事態でも、うまく擦れて火が点くことも、煙だけ立って火が点かないことも、マッチ棒が折れてしまうこともある。いずれの場合でも、物理法則は貫いている。しかし、現実に起こることは、当初の初期条件から見て、一つに決まらないのである。
直交する角をもつものは、衝撃が垂直に当たり、しかも部材構造のなかに衝撃が吸収されにくい。
外からの衝撃に強い構造は、内的に生じる力学的撹乱に対しても吸収できる構造をもっている。これに最も対応するのが、平面図形では三角形であり、立体では正四面体である。どこに圧力をかけても図形全体に分散し、図形そのものが変形する可能性は低い。
外見上、【上下の区別がつかないことは、形態が運動とは独立に形成された可能性が高い】。運動するものは進行方向があり、それによって前と後ろが決まり、上下方向の回転をしないかぎり、上下も決まる。
クジラも肺呼吸だが、一度陸に上がった形態がある。陸に上がりカバの類縁として暮らしていたようだが、再度海に戻っている。
陸に上がったとき、浮力がなくなるために、自動的に体重は7倍になる。水圧がなくなり血流を圧迫するものがないから、十分な血液を供給でき、大気中に増えた酸素を活用できる。陸に上がる利点は、身体運動の多様性が一挙に増すことである。行動のパターンが新たな次元に入っている。【体重の重さを身体運動の多様性に転化できないものは、陸にいる意味がない】。そのため再度海に戻ることになる。身体運動に直結するのが音である。音感と運動感は、起源は同じである。
実際、自然選択には、いくつもの問題点がある。しかし、【問題点をそのまま探求課題に転化できれば、それはそのままプログラムとして活用することができる】。
目の出現は、何度か異なる回路で試みられた生命史の果敢な挑戦なのである。
片目を閉じても世界は半分になるわけではない。
(※進化において)敗北の原因は決定できるが、勝利の原因は決定できない。
知覚とは実践的には、予期である。動くものを捉えるさい、知覚はあるものを「それとして」捉えてしまっている。だが、動くものを捉えているかぎり、この知覚は誤った現実を捉えていることになる。捉えたと思った途端、ボールは既に動いているからである。
動きを誘導しようとして外から強制力をかけてしまうのが普通で、これを通常治療的介入と呼んでいる。
【知覚は見るべきものが既に決まっている】。多くの場合、見えるものが見えているだけである。【それに対して注意は、見るということが出現する働き】であり、見るという行為が起動する場面を想定している。ある意味で注意は知る能力ではなく、知ることが成立する実践的な能力である。
【新たなものを見いだすことは、知覚ではなく、注意が向くかどうかに依存している】。
金米糖は、砂糖の結晶が自動的にできるだけで、あのかたちになる。
【体験的世界は、知よりももっと根の深い行為の世界に基づいている】。
【湿感や温感はなにかに触れているが、触れたものにはかたちがない】。
18世紀ヨーロッパで百科全書が編纂されていた頃、知識の全体的配置という意味で、システムという語が用いられるようになった。この語がドイツ観念論に継承され、全体的統合や、自らを組織化するもの、あるいはそれ自体で動きの継続を行いながら自己形成するものというような意味がこの語に加えられることになった。この語が日本語に導入されるさい、体系と訳されることが多いのは、哲学用語として導入されたからである。今日では系とだけ訳すことが多い。
【どのような行為であれ二重に自ら作動する】。
言ってみれば、パラダイム転換は、歴史の傍観者の主張であり、対岸の火事を見ているようなものである。
実際、転換のさなかにあってこの転換を成し遂げている人たちは、視点の転換のようなことはしていないはずである。後に視点に要約されていくものを、繰り返し試行錯誤を通じて形成しているのであって、転換すれば済むような視点はどこにも存在しないからである。
われわれは形式上は釈尊がその晩年にインドの霊鷲山(りょうじゅせん)において『法華経』を説いたとしているが、実際には近代の文献学的研究や調査から、この経典が釈尊の死後約700年ごろ、おそらくは紀元2世紀の終わりごろに現在の形に編纂され、書きとめられ、流布したことがわかっている。
【『法華経の省察 行動の扉をひらく』ティク・ナット・ハン:藤田一照〈ふじた・いっしょう〉訳(春秋社、2011年)以下同】
後半の14章は本源的次元(「本門」)を扱っている。本源的次元では、釈尊が前半とは全く異なった次元、つまり時間と空間についてのわれわれの通常の見方をはるかに超越した次元にいることが示されている。それは生きたリアリティとしての仏、つまり法の身体(法身〈ほっしん〉、ダルマカーヤ)としての仏である。本源的次元においては、生まれることと死ぬこと、来ることと行くこと、主体と客体といった二元的観念にもはや関わることがない。本源的次元はそういったあらゆる二元論を超えた真のリアリティ、涅槃、法の世界(法界〈ほっかい〉、ダルマダートゥ)なのである。
『法華経』はそれぞれの章で、また一つの章のなかでも異なった場面で、歴史的次元と本源的次元のあいだを行ったり来たりしている。
根本(オリジナル)仏教(あるいは「源流〈ソース〉仏教」とも呼ばれる)は歴史的仏である釈迦牟尼が生きている間に説いた教えから成り立っている。これが最初の仏教である。
(※初期大乗の空という考えは)言い換えれば、いかなる物も単独では存在しないこと、どのような物も固定的な状態にとどまってはいないこと、絶えず変化している原因(「因」)と諸条件(「縁」)の集合によってはじめて生起するということなのだ。これは相互的存在性(インタービーイング)の洞察に他ならない。
出家者の僧伽は五つのマインドフルネス・トレーニング(五戒)と具足戒(プラーティモクシャ。波羅堤木叉)をその拠り所としていたが、菩薩修行の独自の指針はまだつくられていなかったのだ。
したがって、この三つの世界のどこにいても本当の平安と安定を見出すことはできない。それは、罠や危険がいっぱいある燃えている家のようなものだ。(「三界は火宅なり」)
檻の中にいるにわとりの一群を想像してみよう。かれらはえさのとうもろこしを奪い合ってお互いにけんかをしている。そして、とうもろこしのほうがおいしいか、それとも米のほうがおいしいかをめぐって争っている。数粒のとうもころし、あるいは数粒の米をめぐっってお互いに競い合っているあいだ、かれらは自分たちが数時間後には食肉処理場に連れて行かれるということを知らないでいる。かれらと同じように、われわれもまた不安定さに満ちた世界に住んでいる。しかし、貪欲さや愚かさにがっちりと捕らえられているためにそのことが少しも見えていないのだ。
この声聞の道の成果である涅槃は、文字通りの意味はろうそくの炎を吹き消すように、「吹き消す、滅する」である。それは、流転輪廻という燃えている家をきっぱりと去って、もう決して生まれ変わらないということだ。しかし、愚かさを捨て去ること、涅槃を「消滅」と考えることはまだ真の解脱ではない。それは解脱の最初の部分ではあってもその全体像ではないのだ。涅槃とは消滅であるという考えはあくまでも、人々をして修行の道へと入らせる方便の教えなのである。
本当に誰かを愛しているなら、その人を自由にしておかなければならない。もしその人を自分の愛情のなかに閉じ込めておこうとするなら、たとえその絆が愛からできていたとしても、その愛は本物ではない。