・『「瞑想」から「明想」へ 真実の自分を発見する旅の終わり』山本清次
・現代人は木を見つめることができない
・集団行動と個人行動
私たちは自分のまわりに混乱、不幸、ぶつかり合う願望を見、そしてこうした混沌とした世界の現実に気づいて、真に思慮深くて真摯な人々──絵空事をもてあそんでいる人々ではなく、本当に真剣な人々──は、当然ながら行動という問題を考究することの大切さがわかるでしょう。集団行動があり、また個人行動があります。そして集団行動は一個の抽象物、個人にとって好都合の逃避となっています。つまり、この混乱、たえず起こっているこの不幸、この災いは集団行動によって何とか変えることのできる事態であり、それによって秩序を回復できると思うことによって、個人は無責任になるのです。集団というものは、間違いなく虚構の実体です。集団とは、あなたでありそして私なのです。あなたと私が真の行動というものを関係性において理解しないときにのみ、私たちは集団と呼ばれる抽象物に頼り、それによって自分の行動において無責任になるのです。行動を改善するため、私たちは指導者や、あるいは組織的な団体行動に頼ります。私たちが指導者に行動上の指示を仰ぐとき、私たちは常に、自分自身の問題、不幸を超克するのを助けてくれると思われる人を選びます。が、私たちは自分の混乱から指導者を選ぶので、指導者自身もまた混乱しているのです。私たちは、私たち自身に似ていない指導者を選びません。選べないのです。私たちは、私たちと同様に混乱した指導者しか選べないのです。それゆえ、そのような指導者、教導者、およびいわゆる霊的(宗教的)なグルは、私たちを常により一層の混乱、より一層の不幸へと導くのです。私たちが選ぶものは私たち自身の混乱に由来しているので、私たちが指導者に従うとき、私たちはたんに自分自身の混乱した自己投影物に従っているだけなのです。それゆえ、そのような行動は、直接的結果をもたらすかもしれませんが、結局は常により一層の災いに帰着するのです。(ニューデリー、1948年11月14日)
【『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1993年)以下同】
長文のため一段落ごとに区切って紹介する。私が暴力について考えるようになったのはV・E・フランクルの『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』を読んでからのこと。20代から30代にかけて集中的にナチスものを読んだ。40代半ばでレヴェリアン・ルラングァ著『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』を読み、私の価値観は木っ端微塵となった。同時期に読んだユースフ・イドリース著『黒い警官』とジョージ・オーウェルの新訳『一九八四年』を私は「暴力三部作」と名づけた。
他にはパレスチナに対するイスラエルの蛮行(『パレスチナ 新版』広河隆一、『アラブ、祈りとしての文学』岡真理)や黒人奴隷(『奴隷とは』ジュリアス・レスター、『ナット・ターナーの告白』ウィリアム・スタイロン、『生活の世界歴史 9 北米大陸に生きる』猿谷要)、そしてキリスト教による暴力(『魔女狩り』森島恒雄、『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサス)などが私の血となり肉と化した。
暴力の問題を突き詰めてゆくとヒエラルキーに辿り着き、最終的には集団そのものが暴力であることに気づいた。集団は集団であるというだけで既に暴力的要因をはらんでいるのだ。なぜならそこに利害が絡んでいるためだ。集団には構成員を庇護する機能がある。また集団には必ず目的がある。守るためにも目的を果たすためにも力が求められる。そして求心力が強ければ強いほど暴力的な様相を帯びる。
そこまでは自力で辿り着いた。だがそこから前へ進むことができなかった。その時、私はクリシュナムルティと遭遇した(クリシュナムルティとの出会いは衝撃というよりも事故そのもの/『私は何も信じない クリシュナムルティ対談集』J・クリシュナムルティ)。
集団は虚構であり個人を無責任にする。小林秀雄が次のように語っている。
信ずることは諸君が諸君流に信ずるということですよ。知るということは万人の如く知ることですよ。人間にはこの二つの位置があるんです。知るってことはいつでも学問的に知ることです。
信ずるってことは責任をとることです。僕は間違って信ずるかもしれませんよ。万人の如く考えないんだからね僕は。僕流に考えるんですから、もちろん僕は間違えます。でも責任はとります。それが信ずることなんです。
だから信ずるという力を失うと人間は責任をとらなくなるんです。そうすると人間は集団的になるんです。「会」が欲しくなるんです。自分でペンを操ることが信じられなくなるからペンクラブが欲しくなるんです。ペンクラブは自分流に信ずることはできないんです。クラブ流に信ずるんです。クラブ流に信ずるからイデオロギーがあるんじゃないか。そうだろ? 自分流に信じられないからイデオロギーってもんが幅を利かせるんです。
だからイデオロギーは匿名ですよ、常に。責任をとりませんよ。そこに恐ろしい力があるじゃないか。それが大衆・集団の力ですよ。責任を持たない力は、まあこれは恐ろしいもんですね。
集団ってのは責任取りませんからね。どこへでも押し掛けますよ。自分が正しい、と言って。(中略)
左翼だとか右翼だとか、みんなあれイデオロギーですよ。あんなものに「私(わたくし)」なんかありゃしませんよ。信念なんてありゃしませんよ。
【『小林秀雄講演 第2巻 信ずることと考えること 新潮CD』】
書籍(『小林秀雄全作品 26 信ずることと知ること』)にも収められているが要旨をまとめた代物となっている。暴走族でなくとも集団は暴走しやすい。群衆の中から石を投げるような手合いが必ず現れる。人は責任を失うと容易に罪を犯す。そして集団はリーダーに依存することで一人ひとりは更に無責任の度合いを強める(信ずることと知ること/『学生との対話』小林秀雄:国民文化研究会・新潮社編)。
・大衆は断言を求める/『エピクロスの園』アナトール・フランス
このように私たちは、集団行動は──場合によってはやりがいがあるものの──災い、混乱に帰着せざるをえず、また個人の側の無責任をもたらすということ、そして指導者への服従は常に混乱をつのらせるということを見ます。けれども、私たちは生きなければなりません。生きることは行動することであり、存在することは関係することです。関係なしにはいかなる行動もなく、そして私たちは孤立して生きることはできません。孤立などというものはないのです。生きるとは、行動することであり、また関係することなのです。そのように、より一層の不幸、混乱を引き起こさない行動というものを理解するには、私たちは自分自身を、そのすべての矛盾対立する要素、たえず互いに闘っている多くの面と共に、理解しなければなりません。私たちが自分自身を理解しないかぎり、行動は必然的により一層の葛藤、不幸に帰着せざるをえないのです。
社会をよりよくするために始めた運動がその正義感によって内部分裂をすることは決して珍しいことではない。むしろ純粋であればあるほど分裂しやすい傾向がある。目的が明らかであれば目的以外の行動は規制され、禁止される。集団は規則を必要とするのだ。そして今度は規則が人々を縛り、蝕んでゆく。組織が大きくなると成果が問われ、内部で競争が始まる。組織は自律的に分割統治へ至る。
ですから、問題は理解と共に行動することであり、そしてその理解は自己認識によってのみもたらすことができるのです。結局、世界は私たち自身の投影です。あるがままの私、それが世界なのです。世界は私とは別個にあるのではなく、世界と私は対立しているわけではありません。世界と私は別々の実体ではないのです。社会は私自身であり、二つの別個の過程ではないのです。世界は私自身の延長であり、ですから世界を理解するためには、自分自身を理解しなければならないのです。個人は集団、社会に対立してあるのではありません。なぜなら個人は社会だからです。社会とは、あなたと私とその他の人々との間の関係です。個人が無責任になるときにのみ、個人と社会との間の対立があるのです。ですから、私たちの問題はとてつもなく大きいのです。あらゆる国、あらゆる集団、あらゆる人が直面しているとてつもない危機があります。その危機に対して私たち、あなた、私はどんな関係があるのでしょうか。そして私たちはどのように行動したらいいのでしょうか? 変容を起こすためには、どこから始めたらいいのでしょう? すでに言いましたように、もし私たちが集団に頼れば、出口はありません。なぜなら、集団は指導者を含蓄しており、ゆえに常に政治家、司祭、専門家によって搾取されるからです。で、集団を構成しているのはあなたと私なのですから、私たちは自分自身の行動に責任を持たなければならないのです。すなわち、私たちは自分自身の性質、ひいては自分自身を理解しなければならないのです。自分自身を理解することは、世間から引き籠もることではありません。なぜなら、引き籠もることは、孤立を含んでおり、そして私たちは孤立状態で生きることはできないからです。ですから私たちは、関係における行為というものを理解しなければなりません。そして、その理解は、自分自身の葛藤し、矛盾する性質への「気づき」にかかっているのです。そのなかに平和があり、そして私たちがあてにできる状態をあらかじめ思い描くことは愚劣だと私は思います。自分が知らない状態を私たちが思い描くことなく、ひたすら自分自身を理解するときにのみ、平和と静謐がありうるのです。平和の状態はあるかもしれませんが、しかしたんにそれについて思い描くことは無意味です。
集団は人間を手段化する。人々に組織の手足となることを強要する。社会とは所属の異名であり、我々のアイデンティティはどこに所属しているかで決まる。そこに「平和と静謐」はなく、仕事と役割を与えられるだけだ。人生の幸不幸は集団内の序列で決まる。
正しく行為するためには、正しい思考が必要です。正しく考えるためには、自己認識が必要です。そして自己認識は、孤立によってではなく、関係によってのみもたらすことができるのです。正しい思考は自分自身を理解することにおいてのみ起こりうるのであり、そしてそこから正しい行為が湧き起こるのです。自分自身――その一部ではなく、矛盾撞着した性質を含んだその中身の全部――を理解することから起こる行為こそが、正しい行為なのです。私たちが自分自身を理解するにつれて正しい行為が起こり、そしてその行為から幸福が生まれるのです。結局、私たちが望んでいるもの、様々な形で、あるいは様々な逃避――社会活動、官僚主義的栄達、娯楽、崇拝、語句の反唱、セックス、あるいはその他の活動を通じての無数の逃避――によって私たちのほとんどが捜し求めているものは幸福なのです。が、私たちは、これらの逃避が永続的な幸福をもたらさないこと、それらが束の間の気休めしかもたらさないことを見ます。根本的には、それらには何ら真実なるもの、何ら永続的な歓喜はないのです。
「様々な逃避」――何と辛辣(しんらつ)な指摘か。我々は現実から逃避し、生そのものから逃避し、自分自身からも逃避しているのだ。我々が人生に求めているのは「単なる刺激」だ。それを幸福、成功、満足と呼んでいるのだろう。集団が与えてくれるのは役割であって生き甲斐ではない。組織のために貢献することで自分の存在が大きくなったように錯覚するのも間違いである。所詮、部分は部品でしかない。
さて、自己認識・自己理解の旅に出るとするか。