2014-04-05
母なる大地、アメリカ先住民族の想い
「わたしはこれまでただの一度も自らを『ネイティブ・アメリカン』だと名乗る『インディアン』と会ったことがない」(北山耕平)。尚、インディアンのグランドファザー、グランドマザーとは長老を意味する言葉である。
「或教授の退職の辞」/『西田幾多郎の思想』小坂国継
西田幾多郎〈にしだ・きたろう〉の著作『続思索と体験』(昭和12年)のなかに、「或教授の退職の辞」という題の短編が収められている。この短いエッセイのなかで、西田は、停年になった老教授の口を借りて、彼自身の生涯を次のように回顧している。
私は今日を以て私の何十年の公生涯を終ったのである。……回顧すれば、私の生涯はきわめて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして坐した、その後半は黒板を後ろにして立った。黒板に向って一回転をなしたといえば、それで私の伝記は尽きるのである。しかし明日ストーヴに焼(く)べられる一本の草にも、それ相応の来歴があり、思い出がなければならない。平凡なる私の如きものも六十年の生涯を回顧して、転(うた)た水の流れと人の行末という如き感慨に堪えない。
西田の生涯、とくにその前半は波乱に富んだものであった。後年、西田は「哲学の動機は悲哀の意識である」ということを再々いっているが、この言葉は彼の実体験からでた切実な言葉であったといえよう。西田は学者としては本道を歩いた人ではなく、むしろ脇道を歩きつづけた人であった。そして、それがまた西田哲学の性格を形成しているといえる。
【『西田幾多郎の思想』小坂国継〈こさか・くにつぐ〉(講談社学術文庫、2002年)】
山村修の『〈狐〉が選んだ入門書』にも紹介されている件(くだり)だ。「起きて半畳寝て一畳」に通じる味わいがある。功績や評価を誇ったところで人の人生における行動には大差などない。食べて、寝て、仕事をして、遊んで、学んで、死ぬだけだ。達観すれば単純なものだ。
人の本質は振る舞いに現れる。言葉はいくらでも嘘をつけるものだ。仮に偽善的な行為があったとしても、見る人が見れば卑しい振る舞いとなって映る。作為や演技は決して長続きしない。心根から心掛けが生まれ、振る舞いにつながる。慇懃(いんぎん)でありながら無礼な人もいれば、粗暴の中に優しさが滲む人もいる。いにしえの中国ではそれを礼容(れいよう)といった。
私は西田の哲学にはとんと興味がないのだが、人間には惹かれるものがある。
・我が子の死/『思索と体験』西田幾多郎
・他人によってつくられた「私」/『西田幾多郎の生命哲学 ベルクソン、ドゥルーズと響き合う思考』檜垣立哉、『現代版 魔女の鉄槌』苫米地英人
『学生との対話』小林秀雄:国民文化研究会、新潮社編(新潮社、2014年)
「さあ、何でも聞いて下さい」と〈批評の神様〉は語りかけた。伝説の対話、初の公刊! 「僕ばかりに喋らさないで、諸君と少し対話しようじゃないか」――。昭和36年から53年にかけて、小林秀雄は真夏の九州の「学生合宿」に5回訪れた。そこで行われた火の出るような講義と真摯極まる質疑応答。〈人生の教室〉の全貌がいま明らかになる。小林秀雄はかくも親切で、熱く、面白く、分かりやすかった!
・信ずることと知ること/『学生との対話』小林秀雄:国民文化研究会・新潮社編
・超能力に対する態度/『小林秀雄全作品 26 信ずることと知ること』
・集団行動と個人行動/『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ
2014-04-04
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