・『続 ものぐさ精神分析』岸田秀
・『脳は奇跡を起こす』ノーマン・ドイジ
・『脳はいかに治癒をもたらすか 神経可塑性研究の最前線』ノーマン・ドイジ
・唯脳論宣言
・脳と心
・睡眠は「休み」ではない
・構造(身体)と機能(心)は「脳において」分離する
・知覚系の原理は「濾過」
・『カミとヒトの解剖学』養老孟司
知覚系の原理は、したがって、試行錯誤ではない。それは「濾過」である。現にあるものの中で、どれを取り、どれを捨てるか。目は可視光しか感知しない。同様に耳は可聴域の音しか聞かない。そこではすでに、自然に存在するものは適当に「濾過」されている。
運動系は別である。間違った行動をして、餌をとりそこなった動物なら、行動を訂正する必要がある。しかし、たとえ行動全体は間違っていても、筋肉は言われたとおり動いている。その点で筋肉を叱るわけにいかないとすれば、運動系はその都度の運動全体の適否の判断を、どこかに預けざるを得ない。そこから目的意識が生じる。目的にとっては、さまざまな手段があり得る、というわけである。しかし、運動全体を基礎づけているのは、そもそも試行錯誤の原則である。
【『唯脳論』養老孟司〈ようろう・たけし〉(青土社、1989年/ちくま学芸文庫、1998年)】
私は幼い頃から「ものが見える」ということが不思議でならなかった。幽霊なんかよりも、幽霊が「見える」ことの方が重要だ。そしてもっと不思議なことは我々の目は何でも見えるわけではないという事実である。見えるものは可視光線に限られるのだ。つまり膨大な情報にさらされていながらも、実際は限定的な情報でそれを「世界」と認識しているわけだ。
しかも知覚の原理が濾過にあるとすれば、生存に有意な情報をピックアップし、それ以外は捨て去っていることになる(意識は膨大な情報を切り捨て、知覚は0.5秒遅れる/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ)。「お前の目は節穴か?」「御意」。
言葉にしても同様だろう。我々は自分の興味がない情報に対しては恐ろしいほど冷酷だ。どうでもよいことは無視するに限る。かつて小泉首相が「ワンフレーズ・ポリティクス」と批難されたが、私を筆頭とする国民の大多数はそのわかりやすさに反応した。考えようによってはマントラだってワンフレーズだ。結局のところ人間は覚えていられる範囲の情報しか受け取ることができないのだろう。
運動は反復によって洗練されるが、知覚を洗練することは可能だろうか? 世界をまったく新しい目で見つめ直すことができるのだろうか? たぶん瞑想するしかない。そんな気がするよ。