2015-02-09

比類なき言葉のセンス/『すばらしい新世界』オルダス・ハクスリー:黒原敏行訳


『われら』ザミャーチン:川端香男里訳

 ・比類なき言葉のセンス
 ・恐るべき諧謔と風刺

『一九八四年』ジョージ・オーウェル:高橋和久訳
『華氏451度』レイ・ブラッドベリ
SNSと心理戦争 今さら聞けない“世論操作”
『マインド・ハッキング あなたの感情を支配し行動を操るソーシャルメディア』クリストファー・ワイリー

必読書リスト その五

 わずか34階のずんぐりした灰色のビル。正面玄関の上には、〈中央ロンドン孵化・条件づけセンター〉の文字と、盾形紋章に記した世界国家のモットー、“共同性(コミュニティ)、同一性(アイデンティティ)、安定性(スタビリティ)”。

【『すばらしい新世界』オルダス・ハクスリー:黒原敏行訳(光文社古典新訳文庫、2013年/『みごとな新世界』渡邉二三郎訳、改造社、1933年/「すばらしい新世界」松村達雄訳、『世界SF全集』第10巻、早川書房、1968年/『すばらしい新世界』 高畠文夫訳、角川文庫、1971年)】

 一昨年初めて読んで、昨年再読。二度目の方が堪能できた。回数を経るごとに新しい発見がある。本物の作品とはそういうものだ。

 原著が刊行されたのは1932年。つまり第一次世界大戦(1914-18年)と第二次世界大戦(1939-45年)の間に生まれたわけだ。佐藤優が「二つの世界大戦を区別せずに『20世紀の31年戦争』と呼んだ方が正確かもしれない」(『サバイバル宗教論』)と指摘しているが、そう考えると「大戦の中で生まれた」とすることもできよう。

 人類は群れることで環境に適応した。思いやりも本能であり(『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール)、利他的行動は種の保存を目的にしていると考えてよい(「なわばりから群れへ」を参照せよ)。

 群れ=社会には秩序と管理が不可欠だ。では、人類がひとつにまとまり、完全に管理された社会が出現したらどうなるか? それを描いたのが本書である。出産、教育から個人の快楽までもが完璧に管理された社会だ。

 21世紀に入り、パックス・アメリカーナに基づくグローバリズムが叫ばれるようになった。世界国家が実現した「すばらしい新世界」は文化や民族性を排除した無機質な世界であった。その対比として「悪しき野蛮人世界」が描かれる。インディアンを野蛮人としたのは差別主義からではなく、ハクスリーのスピリチュアリズムによるものであろう。

 骨太のストーリーを比類なき言葉のセンスが支える。そしてコピーやフレーズに深い知性の裏づけがある。

 クリシュナムルティに書くことを促したのはハクスリーその人であった(1942年)。ハクスリー本人はその後、神秘主義に傾くが、「条件づけセンター」という名称にはクリシュナムルティの影響があったのかもしれない。

 何度か挫けている松村達雄訳も読んでみようと思う。



邪悪な秘密結社/『休戦』プリーモ・レーヴィ
自律型兵器の特徴は知能ではなく自由であること/『無人の兵団 AI、ロボット、自律型兵器と未来の戦争』ポール・シャーレ

ロバート・ラドラム


 1冊挫折。

殺戮のオデッセイ(上)』ロバート・ラドラム:篠原慎〈しのはら・まこと〉訳(角川文庫、1986年)/『ボーン・スプレマシー』との映画タイトルは原作名だったのね。これはたぶん再読だと思う。何度も読んだ記憶がない。で、結論から申し上げると山本光伸訳の後で篠原慎訳は読めない。とにかく文章が頭に入ってこない。大体、山の手言葉を使うマリーが「あたし」とは言わないだろう。ミステリの翻訳は意外と人称代名詞の扱いが杜撰である。「俺」「僕」など一貫性を欠くものが多い。フレデリック・フォーサイスと相性が悪いのも篠原訳のせいだと自覚した。

2015-02-08

坪倉優介


 1冊読了。

 8冊目『記憶喪失になったぼくが見た世界』坪倉優介〈つぼくら・ゆうすけ〉(朝日文庫、2011年/幻冬舎文庫、2003年『ぼくらはみんな生きている』改題)/必読書入り。ラドラムの『暗殺者』と記憶喪失つながり。坪倉の場合は重度だと思われるが、いやはや凄まじい世界が現れる。記憶喪失になった彼は「見たもの」を理解することができない。私は俵万智の解説を読むまで冒頭で描かれている「3本の線」が電線を指していることに気づかなかった。物の仕組みや機能だけではない。坪倉は「ご飯」すら理解できなかった。彼は突然、見知らぬ世界に投げ出されたも同然だった。ここで「あ!」と閃くわけだが、彼が綴っているのは「生まれてきたばかりの子供に見える世界」でもある。その意味で育児をしているお母さんは必読のこと。自我とは記憶であり、個性とは記憶に基づく反応である。ブッダもクリシュナムルティも無我を説いたが、無我そのものは幸福や自由を意味しない。坪倉はむしろ不安だらけになっている。しかし彼の瞳は純粋にありのままの世界を捉える。我々は自我という固有の性質が存在すると思い込んでおり、ある人々は生まれ変わってもそれが継承されると信じている。だがそんなものは脳に蓄積された数十年分のデータに過ぎない。個性は社会の中で許容された個別的反応であり、社会性とは自分を許容してもらう範囲を広げることが巧みなコミュニケーション能力を意味するのだろう。坪倉は二度生まれた。過去の記憶は殆ど戻らない。それでも彼は生きてゆく。大学卒業後、染物工房に就職し、現在は自分の工房を営んでいる。

2015-02-07

Bloggerのフォントをメイリオにする方法


 管理画面→テンプレート→カスタマイズ→上級者向け→CSS を追加→「カスタム CSS を追加」の窓部分に以下のコードを貼りつけて、「ブログに適用」をクリックする。

body, textarea { font-family:"meiryo","メイリオ","ヒラギノ角ゴ Pro W3", "MS Pゴシック", sans-serif; }

2015-02-06

ロバート・ラドラム


 2冊読了。

 6、7冊目『暗殺者(上)』『暗殺者(下)』ロバート・ラドラム:山本光伸訳(新潮文庫、1983年)/「こんなものか」と思った。やはり歳月が目を肥やすのか。最初に読んだ時からもう30年以上が経つ。それから4回か5回読んでいる。映画の『ボーン・シリーズ』3部作も3回ほど見ている。ま、そうは言っても下巻は風呂で読み終え、気がついたら3時間半も入っていたことになる。国際謀略ものといえば、ラドラムとデイヴィッド・マレルの二大巨匠が直ぐ思い浮かぶが、その後に続く作家が見当たらない。クライブ・カッスラーはスケールが劣るし、スティーヴン・ハンターは肌が合わない。本作は舞台回しと細部は実にいいのだが、人物造形が平板で陰影に欠ける。せめてビリエール将軍ほどの個性を主人公にも施してもらいたかった。「その物腰はいかにも軍人然としていて、彼が動くにつれて周囲の空間にひび割れが生じ、見えない壁が次々にくずれ落ちていくかのようだった」(下巻、104頁)。CIAの古参であるアレクサンダー・コンクリンが米国の病理を体現している。彼はジェーソン・ボーンと直接会い、記憶喪失だと聞かされても耳を貸さなかった。それどころか更にボーンの命を奪おうと躍起になった。映画『ボーン・アイデンティティ』は翻案作品ともいうべき代物で、映画作品としては駄作である。しかし本書の雰囲気を実によく表現している。大体、カルロス(イリッチ・ラミレス・サンチェス)が出てこない上、ボーンの恋人であるマリーの背景も全く違う。そしてやたらとカーチェイスが続く品のない作風だ。