・世界中の教育は失敗した
・手段と目的
・理想を否定せよ
・創造的少数者=アウトサイダー
・公教育は災いである
・日本に宗教は必要ですか?
・目的は手段の中にある
間違った手段はけっして正しい目的をもたらすことはできません。目的は手段の中にあるからです。
【『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一著編訳(コスモス・ライブラリー、2000年)】
LSD(幻覚剤)を服用すると悟りとほぼ同じ状態が現れる。側頭葉が活性化するのだ。
ジョブズは「LSDの摂取は、人生で行ったことの中で最も重要な2-3の出来事のうちのひとつだ。サイケデリックの経験がない人には、まったく理解できないだろういくつかの事柄がある。」と語った。 http://t.co/Cv4HaeL2 スティーブ・ジョブズと薬物政策
— シバヘイズ (@world420) 2011, 10月 25
1960年代前半までアメリカではLSDを取り締まる法律がなかった。ヒッピーによって1960年代半ばから始まるサイケデリック・ムーブメントは薬物から生まれたものだ。
1960年代のロック・ミュージシャンの中には瞑想、ヨガ、ボディ・ビルを始めた人たちが多い。それにも理由がある。それは朝早く起きて、食生活に気を使いながら、坐禅、瞑想、呼吸法などをやると、ドラッグより求めていた同じ効果をよりコントロールした状態で得られると気が付いたからだ。
【Ayuo.net 「何故1960年代のドラッグが無意味になったか。」】
クリシュナムルティは時折、嘲笑うかのように「LSDですか?」と言う。また、「“それ”をどうやって手に入れますか? お金を払いますか?」とも聴衆に訊ねる。たった今気づいたのだが、クリシュナムルティは「瞑想せよ」とは言ったことがない。どちらかというと「生そのものを瞑想の次元にまで深化させよ」とのメッセージ性が強い(『瞑想』J・クリシュナムルティ)。
目的と手段が一致しないところに現代社会の不幸があるのだろう。クリシュナムルティの論理に従えば戦争を正当化することは不可能だ。「他人を殺す」という手段が正しくないのは明らかだ。
バラ色の理想を示して人々に苦労を強いるのが指導者の役割である。そして苦役の果てに不毛な結果が待ち受けている。我々は皆が労働者であり兵士なのだ。一将功成りて万骨枯る。
ブッダはテキストを否定した。彼が経典を書くことはなかった。クリシュナムルティは弟子をも否定し、「方法」をも否定した。「方法」を修行と戒律と言い換えてもよいだろう。元々は「行為を修める」のが修行の謂(いい)であるが、修行が規定化されると単なる義務の次元に堕してしまう。掃除や洗濯のレベルだ。
瞑想をするから悟れるのか? 多分違うだろう。注意力が漲(みなぎ)るところに悟りの地平が現れるのだ。つまり瞑想は手段に過ぎない。
人生とは不思議なもので「死ぬために生きている」ような節(ふし)がある。我々は「常に死につつある」のだ。その現実から目を背けて日常の中に没頭している。「今死ぬ」となれば脳は一変するだろう。「瞑」の訓読みは「くら-い」である。「暗い」と同じ意味だ。そして「死」という意味もある。すなわち瞑想とは「今死ぬ」ことである。
検索して初めて知ったのだが、「『冥福』という言葉はキリスト教や浄土真宗で使ってはいけない」(「ご冥福をお祈りします」の意味と正しい使い方)そうだ。