これはいいものを見つけた。書評を書く時に流す。シナプスの発火を促進してくれることだろう。
2015-03-12
小室直樹、デイヴィッド・マレル
3冊読了。
17冊目『日本の敗因 歴史は勝つために学ぶ』小室直樹(講談社、2000年/講談社+α文庫、2001年)/こういう本が読みたかったのだよ。日本がなぜ大東亜戦争に敗れたのか、そしてどうすれば勝てたのかを緻密に検証する。組織論・システム論・戦術論からゼロ戦に至るまでが考察されている。検証はロシア戦争にまで及び、かの戦争が奇蹟的な勝利であったことまで明かす。小室直樹はゴリゴリの合理主義者であってイデオロギーとは無縁の人物だ。文章の臭みは相変わらずだが、天才的な観察力を遺憾なく発揮している。『危機の構造 日本社会崩壊のモデル』で示した小室理論がわかりやすく展開されている。
18冊目『一人だけの軍隊 ランボー』デイヴィッド・マレル:沢川進訳(ハヤカワ・ノヴェルズ、1975年/ハヤカワ文庫、1982年)/再読。20年以上前に一度読んでいる。電車に持ち込み、あまりの面白さに降りる駅を通り過ぎてしまったことを覚えている。マレルが大学教授だったとはね。今読むとそれほどでもないのだが、1972年刊行(原著)という時期を思えば、やはり後続に与えた影響は大きい。ドラマ『24 -TWENTY FOUR-』だってランボーのスケールを小さくしたようなものと見えなくもない。ティーズルという片田舎の警察署長は昔のシェリフ(保安官)そのものであり、アメリカを体現しているように感じた。特筆すべきはランボーが「禅の精神」を会得していることで、ラストに至りティーズルとの奇妙な一体感が生まれる。それでも尚、神の物語から脱却できていないところにアメリカの宿痾(しゅくあ)が見える。
19冊目『ランボー/怒りの脱出』デイヴィッド・マレル:沢川進訳(ハヤカワ文庫、1985年)/こちらも再読。2冊とも1日で読了。映画『ランボー/怒りの脱出』のノベライゼーション。巧みだ。荒唐無稽な展開を支える材料がしっかりしている。ランボー独特の瞑想シーンまで描かれている。ま、映画が先行しているため細かいことは言うまい。大体、ランボーは前作で死んでいるのだから(笑)。プロットはCIA官僚vs.ランボーである。トラウトマン大佐が組織人の哀しさを象徴している。だがランボー自身も最後はマードックを殺さなかった。ここは絶対に殺さなければいけない場面である。自分になされた仕打ちへの報復ではない。この人物がいる限り犠牲者が出るためだ。舞台はベトナムで前作同様、アジアへの憧れが匂い立つ。
2015-03-11
認識と存在/『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
・『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン
・『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫
・手引き
・唯識における意識
・認識と存在
・「我々は意識を持つ自動人形である」
・『イーリアス』に意識はなかった
・『新版 分裂病と人類』中井久夫
・『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
・『身体感覚で『論語』を読みなおす。 古代中国の文字から』安田登
・『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』デイヴィッド・イーグルマン
・『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
・『AIは人類を駆逐するのか? 自律(オートノミー)世界の到来』太田裕朗
何世紀にもわたって人々は考察と実験を重ね、時代によって「精神」と「物質」、「主体」と「客体」、「魂」と「体」などと呼ばれた二つの想像上の存在を結びつけようと試み、意識の流れや状態、内容にかかわる果てしない論考を行ない、様々な用語を区別してきた。そうした用語には「直観」(訳注 論証を用いないで対象を一挙に捉えること)、「センス・データ」(訳注 感覚を通じて意識に上るもの。イギリスの哲学者ジョージ・ムーアや同じくイギリスの哲学者バートランド・ラッセルの用語)、「所与」(訳注 外界から直接与えられるもの)、「生(なま)の感覚」(訳注 経験そのものから受ける主観的な感覚)、「センサ」(訳注 感覚のこと。イギリスの哲学者C・D・ブロードの造語)、「表象」(訳注 頭の中に現れる外的対象の像)、「構成主義者」(訳注 ドイツの心理学者ヴィルヘルム・ヴントなど)の内観における「感覚」や「心像」や「情緒」、科学的実証主義者(訳注 フランスの哲学者オーギュスト・コントなど)の「実証データ」、「現象的場」(訳注 アメリカの心理学者カール・ロジャース(ママ)が唱えた経験の主観的現実)、トマス・ホッブズ(訳注 1588-1679、イギリスの政治思想学者)の「幻影」(訳注 ホッブズは著書『リヴァイアサン』の中で、人が眠っていると気づかずに見る幻や幻影の話をしている)、イマヌエル・カント(訳注 1724-1804、ドイツの哲学者)の「現象」(訳注 カントは、私たちが経験するのは物ではなくその現象であるとし、現象に客観的現実を認めようとした)、観念論者の「仮象」(訳注 ドイツ観念論の頂点に立つ哲学者W・F・ヘーゲルは、カントの主観的な仮象と客観的な現象の二分法を退け、仮象も本質の現れであるとした)、エルンスト・マッハ(訳注 1838-1916、オーストリアの物理学者、哲学者)の「感性的諸要素」(訳注 マッハは、世界は色や音などの感覚的諸要素から成り立っていると考えた)、チャールズ・サンダース・パース(訳注 1839-1914、アメリカの論理学者)の「ファネロン」(訳注 パースの造語で、現象を意味する)、ギルバート・ライル(訳注 1900-76、イギリスの哲学者)の「カテゴリー・ミステイク」(訳注 ライルは、別のカテゴリーに属するものを同等に論ずることはできないとした)などがある。しかし、これらすべてをもってしても、意識の問題はいまだに解決されていない。この問題にまつわる何かが解決されることを拒み、しつこくつきまとってくる。
どうしても消え去らぬのは差異だ。それは他者が見ている私たちと、私たち自身の内的自己観やそれを支える深い感覚との差異、あるいは、共有された行動の世界にいる「あなたや私」と、思考の対象となる事物の定めようのない在りかの差異だ。
【『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ:柴田裕之訳(紀伊國屋書店、2005年)】
哲学の世界では近代から現代にかけて「認識論から存在論へ」という流れがあり、第一哲学へと回帰した。ところが1990年代に花開いた脳科学からは認知科学が実を結び、心理学もこれを追随している。
「『在る』とはどういうことか?」とパルメニデス(紀元前500年か紀元前475年-?)は考えた。「万物は流転する」(ヘラクレイトス)。変化するものを「在る」とすることはできない。彼はそう考えた。まったく厄介なことを考えたものだ。そこからイデアや創造神に向かうのは必定である。「在るものがあるはずだ」ってなことだ。
仏教において人間の存在は五蘊(ごうん/色・受・想・行・識)という要素が構成するものとして見る。考えるのではない。見るのだ。色蘊(しきうん)は肉体、受・想・行・識はそれぞれ、感受・表象・意志・認識作用を意味する。自我を構成するのは五蘊であり、更に深く潜ると無我に至る。そして世界は無常を奏でる。一生という限られた時間の運動は認識に極まる(唯識)。ということは何もないのか? いや、ある。縁起という関係性があるのだ。
西洋哲学が存在に固執するのは神(≒自我)への愛着から離れることができないためだろう。言葉をこねくり回して難しさを競うよりも、素直に仏教を学ぶべきだ。
2015-03-10
風は神の訪れ/『漢字 生い立ちとその背景』白川静
・『白川静の世界 漢字のものがたり』別冊太陽
・言葉と神話
・神話には時間がなかった
・言霊の呪能
・風は神の訪れ
・『野口体操・からだに貞(き)く』野口三千三
・『原初生命体としての人間 野口体操の理論』野口三千三
・『野口体操 マッサージから始める』羽鳥操
・『「野口体操」ふたたび。』羽鳥操
ことばの終りの時代に、神話があった。そして神話は、古代の文字の形象のうちにも、そのおもかげをとどめた。そのころ、自然は神々のものであり、精霊のすみかであった。草木(くさき)すら言(こと)問うといわれるように、草木にそよぐ風さえも、神のおとずれであった。人々はその中にあって、神との交通を求め、自然との調和をねがった。そこでは、人々もまた自然の一部でなければならなかった。
人々は風土のなかに生まれ、その風気を受け、風俗に従い、その中に生きた。それらはすべて、「与えられたるもの」であった。風気・風貌・風格のように、人格に関し、個人的と考えられるものさえ、みな風の字をそえてよばれるのは、風がそのすべてを規定すると考えられたからである。自然の生命力が、最も普遍的な形でその存在を人々に意識させるもの、それが風であった。人々は風を自然のいぶきであり、神のおとずれであると考えたのである。
【『漢字 生い立ちとその背景』白川静〈しらかわ・しずか〉(岩波新書、1970年)】
風は変化を告げる。季節を巡る大きな風には春一番・青嵐(あおあらし)・台風・木枯らしなどがある。日本語には驚くほど豊かな風の名称がある(「風の名称辞典」を参照せよ)。その時々に神々を感じ、見出したのだろう。
「草木(くさき)すら言(こと)問う」というのは『日本書紀』に書かれているようだ。問うは「ものを尋ねる」というよりも「主張する」との意味であろう。古代人の不安が浮かび上がってくる。それゆえに「自然との調和をねがった」のだ。
余談ではあるが「言(こと)問う」という耳慣れぬ言葉は東京墨田区の橋の名前(言問橋〈ことといばし〉)として辛うじて残る。「名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」(在原業平)の歌に由来する。
自然は音で溢(あふ)れている。芸能山城組を主宰する大橋力〈おおはし・つとむ〉は、都会よりも森の方が賑やかな音で溢れている事実を明らかにした(『音と文明 音の環境学ことはじめ』)。風も音も振動である。耳と皮膚を直接刺激する。風と音に包まれた世界は神を皮膚感覚で捉えた世界でもあった。
中国では古くから「気」を重んじた(陰陽五行説、気功など)。気はエネルギーであり、伝わる性質を有する。「気」と「風」の共通点や違いも考察に値するテーマだ。
明日で東日本大震災から4年が経つ。まだまだ心の傷や経済的な打撃から立ち直るのが困難な人も多いことだろう。我々は大自然の猛威の前に為す術(すべ)を持たない。もちろん天罰などというつもりはないが、祝福ではないこともまた確かだ。文明の進歩は自然に対する畏敬の念を薄れさせた。震災が伝えたのは、「海と大地を畏(おそ)れよ」「海と大地を敬え」とのメッセージではなかったか。政府にも東電にも責任はある。だが根本的には一人ひとりが自然と向き合う姿勢を変える必要があるように思えてならない。
2015-03-09
言霊の呪能/『漢字 生い立ちとその背景』白川静
・『白川静の世界 漢字のものがたり』別冊太陽
・言葉と神話
・神話には時間がなかった
・言霊の呪能
・風は神の訪れ
・『野口体操・からだに貞(き)く』野口三千三
・『原初生命体としての人間 野口体操の理論』野口三千三
・『野口体操 マッサージから始める』羽鳥操
・『「野口体操」ふたたび。』羽鳥操
古代にあっては、ことばはことだまとして霊的な力をもつものであった。しかしことばは、そこにとどめることのできないものである。高められてきた王の神聖性を証示するためにも、ことだまの呪能をいっそう効果的なものとし、持続させるためにも、文字が必要であった。文字は、ことだまの呪能をそこに含め、持続させるものとして生まれた。
【『漢字 生い立ちとその背景』白川静〈しらかわ・しずか〉(岩波新書、1970年)】
「呪」には「のろう」と「いわう」の二義がある。「祝」の字が作られたのは後のこと。最古の漢字である甲骨文字は占いとその結果を記録している。つまり神意を占った王の正しさを残すものであった。王は神と交通する存在である。神(精霊)は自然を通して人間を寿(ことほ)ぎ(※いわい)、そしてある時は罰する(※のろう)。自然の変化は神々の意志を伝えるものであった。我々日本人には馴染みのある世界観である。ここが西洋とは決定的に異なるところだ。
文字には力がある。文字は人を動かす。神札は力を失ったように見えるが、セコムやアルソックのステッカーは効果を発揮している。誰だって好きな相手からラブレターをもらえば有頂天になるし、「壱万円」と印刷された紙切れを万人が大切に扱う。自衛隊がイラクへ派遣された際、車両に「毘」の文字がマーキングされた。武神である毘沙門天から取ったものだ。時代は変わり様式は変わっても呪能は確かに息づいている。
日蓮は絵像・木像を徹底的に斥(しりぞ)け、自ら文字によるマンダラを創作した。
臨滅度時本尊:日蓮の臨終時に掲げられたという伝承のある十界曼荼羅。鎌倉・妙本寺蔵。 pic.twitter.com/esazO84sbb
— 小野不一 (@fuitsuono) 2015, 3月 9
絵像・木像は偶像(アイドル)である。偶像はアイコンとして機能する。偶像は神仏を象徴するものであって神仏そのものではない。だが人々の感情が偶像を実体化へ導く。偶像崇拝とはフェティシズム(呪物崇拝)を意味する。つまり目的と手段の混同である。
日蓮は鎌倉時代にあって最も多くの書簡を残したことでも知られる。彼は言葉の呪能を知悉(ちしつ)していたのだろう。そうであったとしてもマンダラがアイコンを超脱することにはならない。日蓮はわかりにくいマンダラを創作したがために、わかりやすい現世利益を説いた可能性もある。尚、日蓮のマンダラには梵字(サンスクリット文字)まで書かれている。
甲骨文字は亀の甲や牛・鹿などの肩甲骨に書かれた。書かれたというよりは刻印されたとするべきだろう。そうした行為を促した力そのものが呪能とも考えられる。
・機械の字義/『青雲はるかに』宮城谷昌光
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