2015-03-25

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2015-03-23

大阪のドヤ街を駆け抜ける乙女/『地下足袋の詩(うた) 歩く生活相談室18年』入佐明美


『裸でも生きる 25歳女性起業家の号泣戦記』山口絵理子

 ・大阪のドヤ街を駆け抜ける乙女

『職業は武装解除』瀬谷ルミ子

キリスト教を知るための書籍
必読書リスト

 入佐明美は中学2年の時、岩村昇医師の存在を知った。岩村は日本キリスト教海外医療協力会からネパールへ派遣された医師で、結核治療・伝染病予防を推進した人物だ。看護学校を卒業した入佐は、直接岩村と会いネパール行きの希望を告げ、快く承諾された。直後に岩村から連絡があり、「ネパールへ行く前に釜ヶ崎の結核と戦ってほしい」と頼まれた。釜ヶ崎といえば、あいりん地区である。東京の山谷(さんや)と並んで日本の二大ドヤ街といわれる地域だ。入佐はネパール行きの夢を胸に、結局本書が刊行されるまでの18年間にわたって釜ヶ崎で結核ケースワーカーを務めた。

「おまえは誰や?」
「ここは、女の子がブラブラするところちがうで」
「家出してきたとちがうか? はよ帰ってあげ。親御さんが心配してはるで」
「ケースワーカー? あんたみたいな小娘にわしらの苦労がわかってたまるか!」
「おまえは大学生やろ? レポート書きに来たとちがうんか。おれらは研究材料とちがうで」
「他人の世話もええけどな、はよ嫁にいけ!」
「キリスト教? ほんまに神さんがおるんなら、なんでおれらはこんな目にあわんとあかんのや」

【『地下足袋の詩(うた) 歩く生活相談室18年』入佐明美〈いりさ・あけみ〉(東方出版、1997年)】

 25歳の乙女に向けられた言葉は刺々(とげとげ)しかった。まだセクハラなんて言葉がなかった頃である。それでもドヤ街を歩き続け、労働者に声を掛け続けているうちに少しずつ反応が返ってくるようになった。そして彼らの優しい一面を知る。ある日の帰りのこと。駅に向かう彼女が両手に抱えていた荷物を一人の男性が持ってくれた。

 自分自身の存在がおびやかされているのになぜ他者にやさしくできるのだろう? 自分のお腹はペコペコなのになぜ他者の労をねぎらえるのだろう?
 私は自分自身と比較してみました。私だったら自分のことで精いっぱいでやつ当たりするのが関の山です。この時ほど他者に対してやさしくなりたいと願ったことはありません。
 ――これからはこの人たちから学んで、私自身、変わっていきたい。
 心底そう思いました。
 ――今までは高いところにいて労働者に変わることを求め続けてきたんだなあ。
 と反省しました。

 彼女は釜ヶ崎で苦しむ人々を目(ま)の当たりにしてから、食が喉を通らず、夜、眠りに就くことができなくなっていた。その症状がピタリと収まった。心が変わった瞬間に体も治っていた。

 入佐はとにかく心根がよい。クリスチャンに特有の妙な宣教意識もない。厳しい現実を柔らかな感受性で受け止め、彼女は学び続ける。

 ある男性から「一生の願いを聴いてほしい」と言われる。

「実は、あなたのお仕事のことです。すみません。入院した時、とても寂しい思いでした。友だちも少なく、家族もない。面会に来てくれる人もいない。もう自分はどうでもええわと思っていました。そんな時、遠いところから、あなたが面会に来てくれた。あんなうれしかったことはありませんでした。“よし、がんばろう”と思いました。あなたはそんな仕事をされているんですよ。ぼくのように寂しい思いをし、苦しんでいる者がこの釜ヶ崎にはいっぱいいます。ぼくもできればあなたのような仕事がしたいと思いますが、ぼくにはできません。ぼくの分までこの仕事をあなたのできる範囲でしてください。お願いします」

 この言葉で入佐の肚が決まった。彼女の決意を知った日本キリスト教医科連盟の医師が動き、「釜ヶ崎・入佐会」が立ち上げられ、300人の人々による献金で活動は続けられた。彼女はドヤ街を吹き抜ける風と化した。

 路上で寒さとひもじさをこらえながら、息をひきとる人もあります。年間、約300人の人たちが路上で死んでいくと聞いた時、どうしてそのような現状があるのか、皆目わかりませんでしたが、活動していくうちに、日雇い労働者のおかれている立場が少しずつわかってき、こんな現状を許してはならないと、怒りが強く湧いてきました。存在をかけて働いてきた人が人生を全うする時、誰からもみとられないで、コンクリートの上で言いたいことも言えないで死んでいくことはあまりにも悲しいことです。

 本書は福祉と労働問題が太いテーマとなっているが、そこだけには収まらない広がりがある。彼女は釜ヶ崎で【生きた】。その証が人々とのコミュニケーションとなって花開く。だが悲しいことにそれでも尚、釜ヶ崎の苛酷な現実は変わらなかった。

 私の知人も釜ヶ崎で炊き出しを行っている。フェイスブックの写真を見て驚いたのだが彼の顔つきは一変していた。まるで武者修行をしてきた男の風貌であった。福祉やボランティアは余力をもって援助する行為ではないのだろう。それは文字通り「戦い」なのだ。

 行政が行き届かないところで困窮者のために黙々と汗を流す人々がいる。だからきっと変わってゆく。

 奈路道程〈なろ・みちのり〉のイラストも実に素晴らしい。

2015-03-21

田中嫺玉、デイヴィッド・マレル、ヘレン・エラーブ、他


 5冊挫折、2冊読了。

それからの海舟』半藤勝利〈はんどう・かつとし〉(筑摩書房、2003年/ちくま文庫、2008年)/鼻につく江戸弁が随所に出てきて辟易させられる。節度を欠いたようにしか見えない。ちょっと驚いたのだが江戸っ子ってのは天皇軽視なのかね? 少年時代の半藤が「天皇は徳川(とくせん)家の間借り人」と発言している。

国家なる幻影 わが政治への反回想(上)』『国家なる幻影 わが政治なる反回想(下)』/石原慎太郎(文藝春秋、1999年/文春文庫、2001年)/予想以上に面白くてびっくりした。さすが作家だ。環境大臣として水俣病と向き合った箇所が目を惹いた。イメージが先行する人物だが実務家の面がよく見える。

心をつなげる 相手と本当の関係を築くために大切な「共感コミュニケーション」12の方法』アンドリュー・ニューバーグ、マーク・ロバート・ウォルドマン:川田志津〈かわだ・しづ〉訳(東洋出版、2014年)/アンドリュー・ニューバーグの新著とあって期待したが大いに外れた。『脳はいかにして〈神〉を見るか』とは比べるべくもない。方法論に傾いてマニュアルみたいな代物となっている。着眼点は優れているのだが手法がまずい。読み進むうちに「てめえ、いい加減にしやがれ」と言いたくなる。

キリスト教暗黒の裏面史 誰も書かなかった西欧文明のダークサイド』ヘレン・エラーブ:井沢元彦監修、杉谷浩子訳(徳間文庫、2004年)/飛ばし読み。それでも2/3ほどは読んだ。頻出する「正統派キリスト教」がキリスト教の伝統的なイデオロギーを指し、特定の宗派を意味しないという点でダメだと思う。腰砕けだろう。学問的根拠が弱い。

 21冊目『血の誓い』デイヴィッド・マレル:佐宗鈴夫〈さそう・すずお〉/ランボー・シリーズとブラック・プリンス・シリーズの間の作品ということで期待に胸を膨らませたが、あっと言う間にしぼんだ。大体、こんな作品があったことも知らなかったもんなー。

 22冊目『神の詩 バガヴァッド・ギーター』田中嫺玉〈たなか・かんぎょく〉訳(TAO LAB BOOKS、2008年)/評価の高い翻訳。田中女史はバガヴァッド・ギーターを翻訳するためにサンスクリット語を学んだという。元々プロの訳者ではない。最初に訳した『大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉(コタムリト)』も当初は自費出版であった。確かに上村勝彦訳より読みやすいが、上村訳がそれほど悪いとも思えない。これは紛れもない「神の詩」である。私は胸が悪くなった。神のエゴが強すぎるよ。我(が)が強いという点では聖書とよく似ている。で、はたと気づいたのだが、バラモン教(古代ヒンドゥー教)を理解しなければ、仏教のオリジナリティが見えてこない。イエスがユダヤ教の論理の上に乗っかっているように、ブッダもまたヒンドゥー教の論理に乗っている。「真のバラモン」を説いていることからも明らかだろう。見ようによってはバガヴァッド・ギーターでも三法印は説かれている。ただし法を説くブッダ自身の無我性が明らかに異なる。こりゃあ、30代くらいから腰を据えて勉強しないと追っつかないね。因みに田中女史は旭川出身で私と同郷。

幸せの意味/『ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観』ダニエル・L・エヴェレット


キリスト教を知るための書籍

 白衣をまとった研究チームが、天才科学者の指導のもとに勤しむものだけが科学ではない。たったひとりで苦闘し、困難な地において途方に暮れたり危険に直面したりしながら、新たな知識を果敢に探りだそうとすることで求められる科学もある。

【『ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観』ダニエル・L・エヴェレット: 屋代通子〈やしろ・みちこ〉訳(みすず書房、2012年)以下同】

 これがフィールドワークだ。ダニエル・エヴェレットは26歳の時にブラジルの先住民ピダハンのもとへ行き、「30年以上にわたってピダハンと共に暮らし、学んだ」。目的は言語学研究にあったが、彼は伝道師として赴いた。ピダハンでは麻疹(はしか)が流行したため、1950年代から伝道師を受け入れるようになった。


 経費と給料がアメリカの福音派教会から払われる。だからわたしは、わたしが信じている神を崇め、キリスト教の神を信仰することにともなう倫理や文化を受け入れるように、「ピダハンの心を変える」ことに専念するのだ。私はピダハンについて何ひとつ知らなかったけれども、きっとできるし、変えなければならないと思っていた。

 古来、キリスト教は宣教師を世界中に派遣して文化的侵略を為してきた。「あなた方を救ってあげよう」というわけだ。大人が子供を教育するのに似ている。「教育することは正しい行為だ」との思い込み。そして実際に家庭や学校で行われているのは「操作」であったりする。正しい方向にコントロールするのが教育の目的だ、と殆どの大人は信じ込んでいる。西洋キリスト教は輪をかけて凄い。彼らには「神からの使命」が託されているのだ。病的な誇大妄想としか言いようがない。

 初めて見たピダハンの印象を「それはそれは幸せそうに見えた」と記す。どの顔も微笑んでいて、暗い表情の者は一人もいなかった。


 驚いたことに、これらすべてにわたしは心を揺さぶられてしまったのだった。わたしが信じたほうがいいと言ったというだけの理由では信じようとしないピダハンの態度は、必ずしも予期しないものではなかった。伝道の仕事が楽なものだと考えたことは一瞬たりともない。けれども自分が受けた衝撃はこれだけではなかったのだ。ピダハンに福音を拒否されて、自分自身の信念にも疑問を抱くようになったのだ。それがわたしには驚きだった。わたしは決してひよっこではなかった。ムーディ聖書研究所を首席で卒業し、シカゴのストリートで説話もこなしたし、救済活動でも話をした。戸別訪問もやり、無神論者や不可知論者とも論争した。信仰弁護論や個人伝道の訓練も積んでいた。

 つまりエヴェレットは訓練されたエージェント(代理人)であったわけだ。そんな彼が未知の文化から衝撃を受ける。そこには自分の知らない豊かな世界が広がっていた。宗教は価値観を束縛する。束縛された価値観は世界を狭い視野で捉える。信仰と無縁な情報は無意識のうちに切り捨てられる。

 ピダハンが突きつけてきた難問のもうひとつの切っ先は、わたしのなかに彼らに対する敬意が膨らんでいたことだった。彼らには目を見張らされることが数えきれないほどあった。ピダハンは自律した人々であり、暗黙のうちに、わたしの商品はよそで売りなさいと言っていた。わたしのメッセージはここでは売り物にならない、と。
 わたしが大切にしてきた教義も信仰も、彼らの文化の文脈では的外れもいいところだった。ピダハンからすればたんなる迷信であり、それがわたしの目にもまた、日増しに迷信に思えるようになっていた。
 わたしは信仰というものの本質を、目に見えないものを信じるという行為を、真剣に問い直しはじめていた。聖書やコーランのような聖典は、抽象的で、直観的には信じることのできない死後の生や処女懐胎、天使、奇跡などなどを信仰することを教えている。ところが直接体験と実証に重きをおくピダハンの価値観に照らすと、どれもがかなりいかがわしい。彼らが信じるのは、幻想や奇跡ではなく、環境の産物である精霊、ごく正常な範囲のさまざまな行為をする生き物たちだ(その精霊をわたしが実在と思うかどうかは別として)。ピダハンには罪の観念はないし、人類やまして自分たちを「矯正」しなければならないという必要性ももち合わせていない。おおよそ物事はあるがままに受け入れられる。死への恐怖もない。彼らが信じるのは自分自身だ。わたしが自分の信仰に疑いをはさんだのはじつはこれが初めてではなかった。ブラジルの知識人や、ヒッピー暮らし、それにたくさんの読書のせいで亀裂が入ってはいたのだ。ピダハンはその最後の一石となった。
 そんなわけで1980年代の終わりごろ、わたしは少なくとも自分自身に対しては、もはや聖書の言葉も奇跡も、いっさい信じていないと認めるにいたっていた。

 本書の白眉をなす場面だ。ピダハンの言語には過去と未来の概念がなかった。「現在」に生きるピダハンは将来への不安や過去に対する後悔がなかった。そもそも言葉がないのだから悩みようがない(笑)。「心配する」という言葉もなかった。幸せな彼らにキリスト教は不要であった。

「学ぶ」とは「出会う」ことなのだろう。そこに劇的な変化が訪れる。魂が触れ合うようなコミュニケーションが人を自由にする。その瞬間を読者はまざまざと見ることができる。

 溌剌(はつらつ)さや瑞々(みずみず)しさを失った学問が多い。老人の手慰みのような知識に私は興味がない。学問も宗教も人間を自由にするのが目的であったはずだ。そんな当たり前のことに気づかされる。

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2015-03-20

グローバリズムと共産主義は同根/『国難の正体 世界最終戦争へのカウントダウン』馬渕睦夫


『われら』ザミャーチン:川端香男里訳
『日本の敵 グローバリズムの正体』渡部昇一、馬渕睦夫

 ・グローバリズムと共産主義は同根
 ・キッシンジャーの軍歴

『世界を操る支配者の正体』馬渕睦夫
菅沼光弘
『愛国左派宣言』森口朗

 今、世界にはグローバリズムという妖怪が徘徊しています。今から160年以上も前にカール・マルクスが、共産主義という妖怪の徘徊を宣言して以来、世界の歴史はこの妖怪に翻弄されてきました。東西冷戦が自由主義陣営の勝利で終了し、やっと共産主義の脅威が消滅し世界は平和になったと信じられていましたが、今またグローバリズムという新たな妖怪に世界が翻弄されているのです。
 ところが、このグローバリズムと共産主義は根は一つなのです。グローバリズムは、物、金、人の国境を超えた自由な移動を実現することによって、世界を自由主義経済で統一しようとする運動です。共産主義とは、世界各国に私有財産を否定する共産主義独裁政権を樹立することによって、世界を共産主義で統一しようとするイデオロギーです。一見すると、グローバリズムと共産主義は正反対のイデオロギーのように感じられます。
 グローバリズムの主役は、民間の国際銀行家やこれと結びついたグローバル企業であり、彼らは政府の規制を排して自由に経済活動を行うことを求めています。他方、共産主義は、労働者の前衛を自称する共産党が、国家の上にあって国家や人民を独裁的に支配する体制です。このように、双方とも国家や政府の規制の及ばない独占的権力を保持している点で、類似性があります。
 また、この二つのイデオロギーは国民国家を超えた世界全体を対象としていること、すなわち国際性を有していることに共通性があります。共産主義者もグローバリストも国際主義者なのです。加えて、共産主義者もグローバリストも唯物思想の権化です。唯物思想で世界を解釈しているため、市場競争であれ、権力闘争であれ、勝ったものが正義であり、すべてに君臨するという結論に行き着きます。私有財産は大富豪は所有できますが、貧困大衆は自らの自由になる私有財産を事実上所有していないのと同じです。共産主義体制の下では、特権的政治エリートは国富の形式的な所有権は保持していなくても、無制限的な使用権を持っていますが、被支配階級は富の使用権を持っていません。一握りの特権階級(富豪)と膨大な貧困大衆の二極に分裂した社会は、共産主義社会であれグローバル資本主義社会であれ、本質的に同じ支配構造にあるといえます。
 このように、共産主義もグローバリズムも、特権エリート階級と貧困大衆という超格差社会を生み出す点で同じものなのです。この超格差社会化が今世界的規模で進行しています。世界がグローバル経済化するということの究極的意味は、特権的民間資本による世界政府が樹立という想像を絶する世界の出現です。

【『国難の正体 世界最終戦争へのカウントダウン』馬渕睦夫〈まぶち・むつお〉(ビジネス社、2014年)/総和社、2012年『国難の正体 日本が生き残るための「世界史」』改題】

 東日本大震災以降、尊皇攘夷の雰囲気が強まっている。最初のきっかけは北朝鮮による拉致被害者の帰国であった(2002年)。中央情報機関を持たぬ日本政府の無能と無責任を国民は思い知らされた。次は2008年4月26日に長野で行われた北京五輪の聖火リレーであった。フリー・チベット運動がリレーを妨害したのだ。この行為によって中国共産党によるチベット弾圧が明るみに出た。そして2005年には竹島を巡って韓国で反日運動が激化。これを受ける格好で中国においても日本の国連安保理常任理事国入り反対の署名活動が大々的に行われた。2010年には尖閣諸島中国漁船衝突事件が起こる。

 この間に、中国で四川大地震(2008年)、日本では東日本大震災(2011年)、韓国ではフェリー転覆事故(2014年)などの災害や事故も関係改善の一助とはならなかった。

 ウェブ上にはネトウヨが出現し、ニュースではヘイトスピーチ問題が取り上げられるようになった。私が歴史認識に目覚めたのは昨年のことだ。20~30冊の本を読んで完全に目から鱗(うろこ)が落ちた。どっさりと。

 結局、第二次世界大戦の延長線上に今日の世界の枠組みがあり、戦争に勝利を収めたアメリカを中心とする連合国が大手を振って歩いているのだ。国際連合は「United Nations」の訳語だが直訳すれば連合国でもある。

 朝日新聞が大好きな「地球市民」や「世界市民」なる言葉も、左翼が掲げる天皇制打倒を思えば、日本人の民族性を漂白するところに目的があるのだろう。



大衆運動という接点/『折伏 創価学会の思想と行動』鶴見俊輔、森秀人、柳田邦夫、しまねきよし