・『海角七号 君想う、国境の南』魏徳聖(ウェイ・ダーション)監督
・荒ぶる魂、ほとばしる生命力
・セデック族に聞く! 霧社事件はなぜ起こったか?
・『KANO 1931海の向こうの甲子園』馬志翔(マー・ジーシアン)監督
・『台湾を愛した日本人 土木技師 八田與一の生涯』古川勝三
・『街道をゆく 40 台湾紀行』司馬遼太郎
・『台湾高砂族の音楽』黒沢隆朝
twitterで教えてもらった台湾映画『セデック・バレ』(「真の人」という意味)を観た。凄まじい映画であった。「一部 太陽旗」「二部 虹の橋」で4時間36分の長尺。日本統治下で起こった霧社事件(1930年/昭和5年)を描く。
・Difang(ディファン/郭英男)の衝撃
監督の名前はウェイ・ダーシェンという表記もある。英語名が「Wei Te-Sheng」なので正確には「ウェイ・テシェン」という発音か。この作品に掛けた監督の本気は並々ならぬものがある。最初にウェイ・ダーションは600万円の私費を投じて以下のデモ映像をつくる。
次に監督は資金集めの目的でまったく別の映画『海角七号 君想う、国境の南』(2008年)を制作する。
口コミで人気が高まり、『タイタニック』に次ぐ興行成績を収めた。それでも資金は足りなかったようで、ビビアン・スーは格安のギャラで出演した上、資金提供も行っている(資金援助も話題に 「セデック・バレ」で台湾先住民演じたビビアン・スー)。尚、彼女の母親はタイヤル族であり、セデック族は最近になって公認された部族でタイヤル族系である。
『セデック・バレ』の国際的な評価は惨憺(さんたん)たるものである。
・抗日映画「セデックバレ」に各国メディア酷評!「残酷」「過度の民族主義」―ベネチア映画祭
個人的には魔女狩りで同胞を殺戮し、黒人を奴隷にし、インディアンを虐殺し、世界中を植民地化した挙げ句に惨殺・強姦を行ってきた白人に文句を言われたくはない。とはいえ、第一部を見ながらどうしても行き詰まってしまうのはやはり「首狩り」(出草/しゅっそう)である。つまり、首狩りをどのように理解するかでこの映画の評価は分かれる。
日本においても武士は合戦で敵の首級(しゅきゅう)を挙げるという伝統があった。戦が終わると首実検が行われ、論功行賞が確定する。ま、我々の先祖も首狩り族と見てよい。首級は「しるし」とも読む。すなわち首はメディアであった。高砂族(たかさごぞく/台湾原住民の総称)の殆どは文字を持たなかった。首狩りは証拠保全の一つと考えられよう。
それでも「なぜ首狩りが始まったのか?」という疑問が払拭できない。本作品の致命的な失敗は首狩りの必要性・根拠をまったく示していないところにあり、これによってストーリーが破綻(はたん)を来(きた)している。第一部を観ながら「首狩りとは何ぞや?」と私の脳はフル回転をした。
ストーリーを追うとどうしてもついてゆけなくなる。そこで私は論理を司る左脳のスイッチを落とした。途端にわかった。かつて人間は「もの言う存在」であったのだろう。白川静は漢字の口部を「■(サイ)」と見抜いた(『白川静の世界 漢字のものがたり』別冊太陽)。■(サイ)は祝詞(のりと)を入れる箱であるが、書かれた文字の重みは元々言葉が持っていた重みであったのだろう。文字が生まれる前は論理や思考よりも、直観や閃(ひらめ)きが優位であったことと想像する。これを古代社会の宗教性と言い換えてもよい。神は右脳に御座(おわ)し(『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ)、サードマン現象も右脳で発生する(『サードマン 奇跡の生還へ導く人』ジョン・ガイガー)。首は脳や顔よりも、口を奪うところに目的があったと私は考える。
首狩りがセデック族の荒ぶる魂の象徴とすれば、山谷を駆ける姿がほとばしる生命力を表す。「走る映画」といえば真っ先に『ポストマン・ブルース』が思い出されるがその非ではない。彼らは岩場ですらものともしない。たぶん、ランボーより強いよ。
中央がモーナ・ルダオ(莫那魯道)。 pic.twitter.com/8PLVYJZq6j
— 小野不一 (@fuitsuono) 2015, 7月 9
彼らの足は手のように開いている。霧社事件から11年後、大東亜戦争で高砂義勇隊が結成される。高砂族は日本人となってフィリピン、ニューギニアで大活躍をするが、当初は却下されていたものの戦局が行き詰まると「靴を脱ぐ」ことを許された。彼らの足は手のように大地をつかむことができたことだろう。
出演者の殆どが台湾原住民と日本人で実は中国語が使われていない。しかも主役のモーナ・ルダオを始めとする主要キャストの大半が映画初出演である(公式サイト:キャスト)。明らかに日本人キャストが見劣りする。学芸会レベルにしか見えなかった。
そしてやはり注目すべきはセデック族の「歌」である。時に優しく時に勇壮な歌声が不思議なほど血液の温度を上げる。彼らの顔は琉球とそっくりで、入れ墨や口琴(こうきん)、衣服の意匠はアイヌを思わせ、踊る姿は縄文人さながらである。もちろんインディアンとも酷似している。尚、台湾原住民はオーストロネシア語族であるが、かつてはインドネシア・フィリピン方面から渡ってきたと考えられてきたが、現在は台湾から南下したと判断されている。
更にモーナ・ルダオが大地を踏みしめる舞は相撲の四股(しこ)とよく似ている。
首狩りは勇気の証(あかし)であった。我々は首狩りをやめた。そして資本主義文明のもとで「カネ狩り」を行っている。経済的に見れば「カネは命」である。だから借金を苦にして自殺する人や、カネを奪うために殺人に手を染める者が出てくるのだ。これが「長期的な時間をかけた首狩り」でなくて何であろう? そして文明は知恵に重きを置き、知恵は知識となって共有される。「我々が行う首狩り」に勇気は認められない。きっと文明の進歩は人類から勇気を奪ってしまったのだろう。
狩猟民族にとって狩場の死守は民族の存亡に関わるものゆえ、首狩りを女たちが喜んだのは当然だ。子孫の生存率が高まるわけだから。
映画における最大の脚色はセデック族が日本軍を殺害するシーンである。実際の死者は「日本軍兵士22人、警察官6人、のみであった」(Wikipedia)。尚、モーナ・ルダオの妻やそれ以外の女性たちの振る舞いは史実に基いている。
冒頭シーンの声とラスト近くの子供の声が信じらないほど美しく優しく響く。涙が込み上げくるほどだ。この声を聴くだけでも視聴に値する。
霧社事件を通して少年たちが戦士へと変貌する。セデック族が夢見た「虹の橋」を超える理想を我々は持たない。彼らの首狩りと比べれば、映画や漫画の暴力シーンはあまりにも安っぽい。失った勇気を取り戻すためにもこの映画は広く見られるべきだ。
映画の基調としては反日色が濃い。「よい日本人も描いている」との評価は甘い。ステレオタイプの威張り散らす日本人が殆どで、描き方としては拙劣だ。霧社事件には長年にわたる複雑な背景があり、文明移行期に生じた真空と解釈すべきだろう。単純な抗日行為ではなく、モーナ・ルダオ自身の政治的思惑もあったはずだ。その意味で私は幕末期に起こった会津戦争と霧社事件は似た性質があったと考える。セデック族は白虎隊であった。