2016-01-10

白人による人種差別/『国民の歴史』西尾幹二


 ・白人による人種差別
 ・小林秀雄の戦争肯定
 ・「人類の法廷」は可能か?

『日本文明の主張 『国民の歴史』の衝撃』西尾幹二、中西輝政
『三島由紀夫の死と私』西尾幹二
『国家と謝罪 対日戦争の跫音が聞こえる』西尾幹二

日本の近代史を学ぶ

 西海岸のカリフォルニアにまで流れついてきた者たちは、まさに貧しい白人、プアホワイト、荒くれ者、アメリカのその後の大衆社会を形成する人々から成り立っていた。彼らはいずれもヨーロッパの大航海時代以来の、地球の他の地域に住む人々への恐れ、異教徒に対する人種偏見、はるか東方の遠いものへの奇怪な幻想に深くとらわれた人々であった。オランウータンが発見されたとき、それは黒人の呼び名となり、17世紀のヨーロッパの町では、黒人とインディオが猿や狒々(ひひ)と並んで陳列され、裸の野蛮人として舞台の上を歩き回らされた。
 スペイン人によるインディオ征服は、けっして不用意に企てられたものではない。アメリカの初代大統領ワシントンは、インディアンを猛獣と称し、狼と同じだが形が違うといった。第3代大統領トマス・ジェファーソンは、インディアンに向かって、子どもたちとか、わが子どもたちと話しかけた。白人との結婚を奨励することによって、人種改良が可能かもしれないという考えを思い浮かべた者もいる。これは第二次世界大戦に際して、第32第大統領フランクリン・ローズヴェルトが、日本人を戦後どうすべきかを考えた際に思いついたアイデアと同じものであった。彼は日本人が狂暴なのは頭蓋骨の形態にあると本気で信じていた。
 第26代大統領セオドオ・ローズヴェルト、これはフランクリンのおじにあたり、日露戦争終結の仲介役になった人物だが、彼はアメリカインディアンの事実上の絶滅を指示すると広言した人物でもあった。こうした露骨な人種差別は、ジョン・ダワーに言わせると、ゴビノーをはじめとする19世紀の科学的人種主義の思想的裏付けによって登場したのである。解剖学、骨相学、進化論、民俗史学、神学、言語学といった、あらゆる学問を利用して、ヨーロッパ人は何世紀か前にすでに非白人の特性とするものを原始性、未熟、知的道徳的情緒結果として指摘し、有色人種の生来の特徴であるとみなしていた。

【『決定版 国民の歴史』西尾幹二〈にしお・かんじ〉(文春文庫、2009年/単行本は西尾著・新しい歴史教科書をつくる会編、産経新聞社、1999年)】

日本の近代史を学ぶ」の順番を入れ替えて本書を筆頭に掲げた。縄文時代から敗戦後に渡る日本史が網羅されている。まず全体を俯瞰することで日本の近代史が一層くっきりと浮かび上がるはずだ。

 2016年は激動の年となることだろう。米中の覇権争いは基軸通貨ドルvs.人民元の攻防を熾烈化し、今年の後半には緩和マネーバブルが崩壊すると囁かれている。

 4月には消費税10%の施行が予定され、7月には参院選が控えている。安倍首相は既に「憲法改正を問う」と明言した。とすると消費税増税先送りというサプライズで一気に衆参同時選挙に持ってゆく可能性が高い。

 そこでこれより断続的に日本の近代史と安全保障に関するテキストを紹介してゆく。

 日本人に欠落しているのはキリスト教を中心とするヨーロッパ文化の理解である。いつの時代にも差別はつきまとう。だが欧州白人による人種差別は全く文脈が異なるのだ。劣った人種は人間と見なされず、家畜同然の奴隷扱いを受ける。生殺与奪も白人の自由だ。

 日本は第一次世界大戦後、列強の仲間入りを果たし、パリ講和会議の国際連盟委員会で人種的差別撤廃提案を行う。採決の結果は賛成11ヶ国・反対5ヶ国(※本書では17対11とされている)であった。ところが議長を務めたアメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領が突如として全会一致を言い出し、採決は無効とされた。これが大東亜戦争の遠因となる(『昭和天皇独白録』1990年、『文藝春秋』誌に連載)。

 上記テキストはアメリカの排日移民法に続く。

 白人支配の歴史に一撃を与えたのは日露戦争(1904/明治37-1905/明治38年)における日本の勝利であった。インドのガンディーが狂喜し、アメリカの黒人が熱狂した。極東の島国が世界の有色人種の希望となった。

 一方白人からすればこれほど迷惑な話はない。ヨーロッパで黄禍論(黄色人種脅威論)が台頭する。アメリカの排日移民法もこうした流れの中で生まれた。

 アメリカ陸軍は1920年代に各国を仮想敵国としたカラーコード戦争計画を立案する。大日本帝国に対してはオレンジ計画が練られる。そして日本によるシナ地域(当時は中華民国)支配を阻止すべく、資源輸入を枯渇させる戦略が実行される。これがABCD包囲網(1939-41年)であった。

 当時、日本の石油は8割をアメリカに依存していた。妥協に妥協を重ねてアメリカ側と交渉した結果、つきつけられたのがハル・ノートであった。ハル・ノートは日本に対してシナ大陸の権益を放棄するよう命じた。日本にとっては日清戦争以前の状態になることを意味した。この時、日露戦争における三国干渉以来、溜まりに溜まってきた日本の不満に火が点いたと私は考える。

 日本は遂に行動を起こした。アメリカの真珠湾に向かって。



日英同盟を軽んじて日本は孤立/『日本自立のためのプーチン最強講義 もし、あの絶対リーダーが日本の首相になったら』北野幸伯

2016-01-08

ソロス氏、世界の市場は2008年のような危機に直面-用心が必要


 世界の市場は危機に直面しており投資家は大いに用心する必要があると、富豪のジョージ・ソロス氏が警告した。

 スリランカのコロンボで開かれた経済フォーラムで7日に語ったソロス氏は、中国が新たな成長モデルを見つけるのに苦戦しており、人民元の切り下げが問題を世界中に飛び火させていると分析。金利の動向は新興国・地域に難題を与えると指摘した上で、現在の環境は2008年に類似していると付け加えた。

 年初の株式市場は波乱に見舞われ、6日までに世界で時価総額約2兆5000億ドル(約294兆円)が失われた。 ソロス氏は「中国は調整に関して大きな問題に直面している。私に言わせれば危機と呼んでいいものだ。金融市場には深刻な難題が見られ、私は2008年の危機を思い出す」と語った。

ブルームバーグ 2016-01-07

 基軸通貨ドルvs.人民元の攻防は米国の利上げでスタートした。


 そしてもう一つは「核拡散」である。特にイランの核合意とそれに伴うイスラエルの反撃を注視する必要がある。

レザー・アスラン、他


 2冊挫折、1冊読了。

完訳 統治二論』ジョン・ロック:加藤節〈かとう・たかし〉訳(岩波文庫、2010年)
市民政府論』ジョン・ロック:角田安正〈つのだ・やすまさ〉訳(光文社古典新訳文庫、2011年)/「統治二論」の後篇が「市民政府論」である。ただし加藤訳は「政治的統治について」となっている。読みやすさからいえば角田訳に軍配が上がる。自然法というフィクションに耐えられず。

 3冊目『イエス・キリストは実在したのか?』レザー・アスラン:白須英子〈しらす・ひでこ〉訳(文藝春秋、2014年)/一昨日読了。コメントで教えてもらった一冊。私にとっては咀嚼力の限界を試される読書であった。要旨をいえばイエスは実在したが、イエス・キリストは想像の産物らしい。パウロとヤコブの比較が斬新で、新約聖書の誤謬を歴史的に検証する労作。堀堅士著『仏教とキリスト教 イエスは釈迦である』の後に読むのがいいだろう。「キリスト教を知るための書籍」に追加。

2016-01-07

君命をも受けざる所有り/『香乱記』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『太公望』宮城谷昌光
『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
・『沙中の回廊』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
・『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『青雲はるかに』宮城谷昌光
『奇貨居くべし』宮城谷昌光

 ・占いは未来への展望
 ・アウトサイダー
 ・シナの文化は滅んだ
 ・老子の思想には民主政の萌芽が
 ・君命をも受けざる所有り

・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光


 春秋時代の強国である(ご)の君主として覇(は)をとなえることになる闔閭(こうりょ)に、天才兵法家である孫武(そんぶ/孫子〈そんし〉)が仕えるときに、
 ――将は軍に在(あ)りては、君命をも受けざる所有(あ)り。
 と、述べた。
 将軍に任命されて軍を率いるようになってからは、たとえ君命にも従わないことがある。すなわち戦場は千変万化の場であり、戦場をまのあたりにしていない君主の命令に従っていては、勝機をのがすばかりか、あずかっている兵を敗北によってそこなうことさえある。この思想は後世の軍事指導者にも享受(きょうじゅ)された。項梁(こうりょう)もその紹継(しょうけい)者のひとりであろう。それゆえ司馬龍且項羽の軍を、弋猟(よくりょう)のようにあつかわなかった。楚の三軍はそれぞれ意志をもって動いていたのである。

【『香乱記』宮城谷昌光(毎日新聞社、2004年/新潮文庫、2006年】

 戦争はビジネスではない。殺し合いだ。最前線の情報は報告を通して情報量が限定される。一を見て十を知る洞察力が将軍に求められるのは当然である。孫子は戦争の奥深さを知り抜いていたのだろう。作戦は飽くまでも机上のものだ。

「戦場をまのあたりにしていない君主の命令」で思い出すのは小泉純一郎首相の自衛隊イラク派遣に関する答弁だ。

 どこが非戦闘地域でどこが戦闘地域かと今この私に聞かれたって、わかるわけないじゃないですか。これは国家の基本問題を調査する委員会ですから。それは、政府内の防衛庁長官なりその担当の責任者からよく状況を聞いて、最終的には政府として我々が判断することであります。
 はっきりお答えいたしますが、戦闘地域には自衛隊を派遣することはありません。

第156回国会 国家基本政策委員会合同審査会 第5号(平成15年7月23日 水曜日)

 戦闘地域がわからないのに、戦闘地域には派遣しないと答える支離滅裂ぶりが凄い。シビリアン・コントロール(文民統制)とは政治が軍事に優先する考え方だが、いみじくも小泉首相の答弁は「戦争のでき得ぬ」日本の政治情況を雄弁に物語っている。

 五・一五事件(1932年)、二・二六事件(1936年)を通して大東亜戦争では軍政が敷かれた。陸軍と海軍の軋轢(あつれき)も解消されなかった。敗戦の本質的な原因は日本の統治機能にあった。その後、中華民国で関東軍が暴走する。

 岡田斗司夫が勝谷誠彦との対談(「カツヤマサヒコSHOW」6分あたりから)で「官僚は軍隊である」と指摘する。そう捉えるとシビリアン・コントロールが破綻していることに気づく。官僚が立法――法律作成および予算編成――をも支配しているからだ。君命を無視し、骨抜きにするのが彼らの仕事である。

 日本のシステム的な問題は統治(ガバメント)と意思決定(ガバナンス)が曖昧なところにある。

 フィクション作品におけるヒーローは「君命をも受けざる所有り」を実践する者が多い。例えばジャック・バウアーなど(笑)。

   

二流の帝国だった戦前の日本/『日本人が知らない最先端の「世界史」』福井義高

シナの文化は滅んだ/『香乱記』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『太公望』宮城谷昌光
『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
・『沙中の回廊』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
・『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『青雲はるかに』宮城谷昌光
『奇貨居くべし』宮城谷昌光

 ・占いは未来への展望
 ・アウトサイダー
 ・シナの文化は滅んだ
 ・老子の思想には民主政の萌芽が
 ・君命をも受けざる所有り

・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光


 たとえば戦国時代の大儒である孟子(もうし)は、
 ――春秋に義戦(ぎせん)無し。
 と、語ったように、孔子が著した『春秋』という歴史書のなかにひとつも義(ただ)しい戦いはなかったというのが儒者の共通する思想であり、要するに戦うことが悪であった。儒教は武術や兵略に関心をしめさず、それに長じた者を蔑視(べっし)した。したがって儒教を学んだ者から兵法家は出現せず、唯一(ゆいいつ)の例外は呉子(ごし)である。戦いはひとつとしておなじ戦いはないと説く孫子(そんし)の兵法は、道の道とす可(べ)きは常の道に非(あら)ず、という老子の思想とかよいあうものがある。この老子の思想には支配をうける民衆こそがほんとうは主権者であるというひそかな主張をもち、民衆を守るための法という発想を胚胎(はいたい)していた。その法を支配者のための法に移しかえたのが商鞅(しょうおう)であり韓非子(かんぴし)でもあり、秦王朝の法治思想もそれであるが、法とはもともと民衆のためにあり支配者のためにあるものではないことは忘れられた。

【『香乱記』宮城谷昌光(毎日新聞社、2004年/新潮文庫、2006年】

「孔孟の教え」と孔子と並び称されるのが孟子で、「性善説を主張し、仁義による王道政治を目指した」(Wikipedia)。仁は儒家が最も重んじるテーマで身内への愛情を意味する。これに対して義は多くの人々を博(ひろ)く愛する精神のこと。東アジアが家を重んじるのは仁のゆえ。「日本というのは、あらゆる組織、あらゆる集団が、血縁を拡大した擬制血縁の原理で成り立っている」(岸田秀、『日本人と「日本病」について』1980年)のも儒教の影響であろう。

 つまり儒教の本質は支配者のための教えであり、官僚を育てるところに目的がある。義を重んじたのは墨子〈ぼくし〉であった。孟子は仁に傾く儒家の教えを改革したと見てよい。

 シナと中国に関する表記については前にも書いた(都市革命から枢軸文明が生まれた/『一神教の闇 アニミズムの復権』安田喜憲)。中国とは共産党支配体制を指す言葉であり、「中国4000年の歴史」など存在しない。文化や地理・歴史を呼称する場合はやはり「シナ」と表すのが正しい。

 諸子百家によって彩られた春秋時代は共産革命によって色褪せ、赤一色に染められてしまった。

 宗教的悲惨は現実的悲惨の表現でもあれば現実的悲惨にたいする抗議でもある。宗教は追いつめられた者の溜息であり、非情な世界の情であるとともに、霊なき状態の霊でもある。それは人民の阿片(アヘン)である。人民の幻想的幸福としての宗教を廃棄することは人民の現実的幸福を要求することである。彼らの状態にかんするもろもろの幻想の廃棄を要求することは、それらの幻想を必要とするような状態の廃棄を要求することである。かくて宗教の批判は、宗教を後光にもつ憂き世の批判の萌しである。

【『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』カール・マルクス:城塚登〈しろつか・のぼる〉訳(岩波文庫、1974年)】

「宗教は阿片である」と25歳のマルクスが宣言した(『ヘーゲル法哲学批判序説』原書は1843年)わけだが、皮肉なことにマルクス主義は20世紀の宗教と化した。革命によって人工的な国家がつくられ、呆気(あっけ)ないほど易々(やすやす)と思想の改造が行われた。これを宗教と呼ばずして何と呼ぼうか。

 呉子については尾崎秀樹〈おざき・ほつき〉訳を読んだが本の構成が悪い。