・『国民の遺書 「泣かずにほめて下さい」靖國の言乃葉100選』小林よしのり責任編集
・『大空のサムライ』坂井三郎
・『父、坂井三郎 「大空のサムライ」が娘に遺した生き方』坂井スマート道子
・『新編 知覧特別攻撃隊 写真・遺書・遺詠・日記・記録・名簿』高岡修編
・『今日われ生きてあり』神坂次郎
・ピアノを弾く特攻隊員
・『神風』ベルナール・ミロー
・『高貴なる敗北 日本史の悲劇の英雄たち』アイヴァン・モリス
・日本の近代史を学ぶ
彼らは公子にむかって上体を折り敬礼した。
「自分たちは三田川(みたがわ)から来ました。目達原(めたばる)基地の特攻隊のものです」
公子は息をのんだ。
「あす、発(た)ちます。時間がありません。お願いであります。ピアノを弾(ひ)かせてください。こいつは上野の音楽学校のピアノ科の学生だったんです」
涼(すず)やかなまなざしの明るい活発な感じの隊員が、長身のやや神経質な面ながの隊員を紹介した。長身の隊員はうなずき目礼した。
「死ぬまえに一度、思いっきり、ピアノを弾かせてください」
公子は、言いようのない衝撃を受けて、胸がつまった。(中略)
ふたりの隊員たちは、特攻出撃を間近にひかえて、グランドピアノを探しまわったという。おおかたの学校にはオルガンしかなかった。めずらしく鳥栖の国民学校にグランドピアノがあると聞いて、彼らは三田川から十二、三キロの道のりを長崎本線の線路づたいに走るようにしてやってきたのだった。(中略)
長身の隊員は椅子にかけると、両の手の細い指を鍵盤に走らせた。音がはずみ、舞い、おどる。これまでピアノにふれることもできず、抑えにおさえてきた気持ちが、音色とともに一気にほとばしり出ているように公子は感じた。
「先生、なにか楽譜はありませんか」
隊員にいわれて、公子はピアノ曲集をさしだした。
「いまベートーヴェンの『月光』を練習しています。この楽譜しかないのですが」
「では、『月光』を弾きましょう。先生、あなたの耳に残しておいてください」
隊員は楽譜を開いた。ピアノにむかい、姿勢をただすと、鍵盤に両の手の指をそえる。呼吸をととのえ、宙に視線を止めた。万感の思いをひめた瞳が光をおびた。
沈んだ音色につつまれた幻想的なメロディーが、ゆるやかに流れでる。ピアノ・ソナタ第14番嬰(えい)ハ短調『月光』第1楽章(アダージョ・ソステヌート)……。
闇の雲間からもれる月の光のように、ときにほの明るく、あるいは暗く、沈鬱に流れる調べは、熱情を潜めてリフレインし、やがて静かに高揚する。隊員はときおり祈るように瞑目し、ひたむきに弾きつづけた。
(ピアノが歌っている!)
公子は胸をうたれた。すばらしい、こんな演奏は初めて聴く、と公子は思った。
もうひとりの隊員が上手に楽譜をめくった。彼もまた、音楽に関係していたのだろう。
(たくさんのひとびとをまえに演奏会をなさりたかったろうに……)
あすにも死地へ出撃しなければならない、このピアニスト志望の青年の胸中を思うと、公子は悲痛な思いに胸をしめつけられた。
【『月光の夏』毛利恒之〈もうり・つねゆき〉(汐文社、1993年/講談社文庫、1995年)】
涙が噴き出たのは土田世紀の『同じ月を見ている』以来のこと。実話に基づく小説(ノンフィクション・ノベル)である。たぶん特攻隊員のプライバシーに配慮したのだろう。ある小学校で古いピアノが処分されることとなった。定年を控えた女性教師が「ピアノを譲り受けたい」と申し出た。古ぼけたピアノにはあるエピソードがあった。それは45年も前の話だった。感動的なエピソードが全校生徒の前で紹介され、報道を通して多くの人々が知ることとなった。
特攻隊員がピアノを演奏している間に教頭が生徒たちを集めてきた。感動した生徒たちは「海ゆかば」を歌って送りたいと申し出た。もう一人の特攻隊員がピアノ演奏を買って出た。
実は本書を通して「海ゆかば」を初めて知った次第である。よもやこれほどの名曲とは思わなかった。『万葉集』に収められている大伴家持〈おおともの・やかもち〉の和歌に、信時潔〈のぶとき・きよし〉が曲をつけたもの。
本書のテーマは「矛盾」である。メディアと特攻隊の矛盾によってその功罪がくっきりと浮かび上がる。そこに日本社会の縮図を見出すことも可能だろう。特攻隊の恥部(ちぶ)に関する緘口令(かんこうれい)は敗戦から半生記を経ても尚生きていた。「誰がしゃべったんだ?」という元隊員たちの姿に戦慄さえ覚えた。同質性を重んじるこの国で弱い者いじめは、たぶん文化として息づいているのだろう。
もう一度「海ゆかば」を聴いてもらいたい。
この映像は「ピアノを弾いた特攻隊員」かもしれない。無限の思いと無言のメッセージを感じずにはいられない。
エピソードを語った公子もメディア(ラジオ番組)に翻弄される。話したことを後悔するほどであった。しかしその気持ちを引っくり返したのもまたメディア(別のラジオ番組)であった。毛利自身も仮名となっているが、ジャーナリズムの魂を見る思いがした。
映画化にあたっては、九州を中心とした市民・企業・団体により1億円の募金が集められた(Wikipedia)。