・『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール
・『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
・『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
・『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
・『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・ただ独り歩め
・『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
・『スッタニパータ [釈尊のことば] 全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
・『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
・『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
・『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
・『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
・『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
・『初期仏教 ブッダの思想をたどる』馬場紀寿
・ブッダの教えを学ぶ
蛇(へび)の毒が(身体のすみずみに)広がるのを薬で抑えるように
怒りが起こるのを制する出家修行者(しゅっけしゅぎょうしゃ)は
迷いの世界を捨て去る。
蛇が脱皮(だっぴ)して古い皮を捨て去るように。(一)
池に生(は)える蓮(はす)の花を折り採(と)るように
貪(むさぼ)りをすっかり摘(つ)み取った出家修行者は
迷いの世界を捨て去る。
蛇が脱皮して古い皮を捨て去るように。(ニ)
【『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎〈いまえだ・よしろう〉訳(トランスビュー、2014年)以下同】
実はワールポラ・ラーフラ著『ブッダが説いたこと』を紹介しようと思ったのだが、今枝本をまだ書いていないことに気づいた。それどころではない。東亜百年戦争から三島由紀夫につながる一連の流れも中途半端なままで、東京裁判史観と憲法に関する書物もまだ紹介していない。その前には情報とアルゴリズムに着手する予定であった。何ということか。人生は恐ろしいスピードで進み、自分に出来ることは限られている。人は何かを成し遂げる前に死ぬ可能性が高い。
私にとって本を読むことは人と出会うことである。五十を過ぎてから一気に読書量は加速したが、それは面白い人を見つけるのが巧みになったからだ。やや遅すぎた感はある。だが何も知らないよりはましだ。
今枝訳は読みやすい。あっさりしている分だけ香りが失われているような気もするが、ブッダの教えを学ぶには格好のテキストといってよいだろう。特に他訳と厳密な比較をすることはしていない。意味のつかみにくい箇所だけ参照する程度だ。言葉や表現の違いを調べるよりも、そのまま読んで何を感じるかの方が大切だろう。
貪(とん/むさぼり)・瞋(じん/いかり)・癡(ち/おろか)を三毒という。これらが餓鬼・地獄・畜生の三悪趣に対応する。
世界の混乱と悲劇の原因は三毒にある。つまり「私の中」にある。これがブッダの指摘だ。別の角度から見れば、三毒こそ自我の本質であるといえよう。欲望の焔(ほのお)が燃え盛る生命状態である。我々はともすると時間が経てば薄らぐように考えがちだが実はそうではない。怒りは毒となって生命を冒し、貪りの根はしっかりと心の底に張り巡らされる。
我々の社会では怒りも貪りも肯定されている。怒りは正義と結びつけられ、貪りは資本主義の原動力となっている。「夢を持て」とは貪りに生きることを意味する。欲望の充足を幸福と錯覚しながら競争に明け暮れるのが我々の人生である。隣人よりも高価な家に住み、高級なクルマに乗るのが我々の幸福だ。綺麗事を言っても無駄だ。アンタもオレもそう思っている。これが事実だ。
怒りも貪りも関係性の中から生じる。一切は「縁(よ)りて起こる」。瞑想とは怒りを怒りと、貪りを貪りと自覚することだ。怒りを怒りと見、貪りを貪りと見る時、焔は静まる。怒りという感情を観察する時、私は怒りと距離を保つ。なぜなら離れなければ見ることはできないからだ。つまり見ることが離れることなのである。
交わりから愛着が生じ
愛着から苦しみが生じる。
愛着には、この危険があることを知り
犀(さい)の角(つの)のようにただ独(ひと)り歩(あゆ)め。(ニ八)
朋友(ほうゆう)や仲間に憐(あわ)れみをかけると
心がほだされ、自分の目的を見失う。
親しみには、この恐れがあることを知り
犀の角のようにただ独り歩め。(ニ九)
賢明(けんめい)な同伴者、あるいは
明敏(めいびん)な仲間が得られなければ
王が、征服(せいふく)した国を捨てて立ち去るように
犀の角のようにただ独り歩め。(三〇)
じつに朋友(ほうゆう)を得るのはよいことである。
自分よりすぐれ、あるいは自分と同等な朋友に親しむべきである。
こうした朋友が得られなければ、罪や過(あやま)ちのない生活を楽しみとし
犀の角のようにただ独り歩め。(三一)
それほど新味のある訳ではない。荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳はこの箇所を「一角の犀となって」としている。多分どちらも誤訳である。なぜならサイには角が2本あるからだ(笑)。スマナサーラによれば「犀の如く独りで歩め」とのことである(2010/12/28 No.375 ブッダは「単独行動」に自信あり 5)。
ただし「犀の角」であろうと「一角の犀」であろうとブッダの本意が損なわれることはないだろう。「独り歩め」の意味が変わるわけでもない。
友情の深さや愛情の細やかさを幸福の源泉と考えがちだが実は違う。四苦八苦の中に愛別離苦がある。人生には必ず愛する人との離別がつきまとう。ストレスの最たるものは家族の死といわれるが、情の深さは幸福にも通じるが不幸にも通じている。
何にも増して修行の過程であることを思えば、朋友の存在は依存にもつながりかねない。
アーナンダが尋ねた。「私どもが善き友をもち、善き仲間とともにあるということは、 既にこの聖なる道のなかばを成就したに等しいと思われますが、いかがでしょうか?」と。ブッダは答えた。「アーナンダよ、我らが善き友をもち、善き仲間とともにあるということは、それはこの聖なる道のなかばにあたるのではなく、そのすべてなのである」(サンユッタ・ニカーヤ)。
有名なエピソードである。だが善き友を得たことは一つの結果であって、修行の目的ではあるまい。悟りは自分自身だけが開く世界である。その意味から申せば、仏道のあり方はやはり「ただ独り歩む」ことが正しい。善友が5人いようと、10人いようとただ独り歩むのである。友がいればそれに越したことはない、という程度のことだ。
サンガという共同体はブッダのもとで「ただ独り歩む」者の集団であったが、その戒律の多さを思うと、やはり運営には一方ならぬ苦労があったのだろう。印刷や通信のない時代背景も考慮する必要がある。ブッダが現代に生まれれば、クリシュナムルティのように教団を否定した可能性もある。