・『仏陀の真意』企志尚峰
・『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール:今枝由郎訳
・『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
・『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元
・『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
・『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
・『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
・『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
・『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
・『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
・『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
・『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
・『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
・『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
・ものごとが見えれば信仰はなくなる
・筏(いかだ)の喩え
・ドゥッカ(苦)とは
・『無(最高の状態)』鈴木祐
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
・クリシュナムルティ、瞑想を語る
・ブッダの教えを学ぶ
「ではマールンキャプッタよ、私は何を説明したのか。私は、
(1)ドゥッカの本質
(2)ドゥッカの生起
(3)ドゥッカの消滅
(4)ドゥッカの消滅に至る道
を説明した。マールンキャプッタよ、私がなぜ説明したのかというと、それは有益であり、修行に本質的に関わる問題であり、人生における苦しみの消滅に繋がるからである。私はそれゆえに説明したのである」
【『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ:今枝由郎〈いまえだ・よしろう〉訳(岩波文庫、2016年/原書1959年)】
マールンキャプッタからの形而上学的問いに対してブッダは無記を示し、次に「毒矢の喩え」を説く(『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元)。続けてブッダは四諦(したい)を確認する。
ドゥッカ
パーリ語(およびサンスクリット語)のドゥッカは、一般的には苦しみ、痛み、悲しみあるいは惨めさを意味し、幸福、快適、あるいは安楽を意味するスカの反対語である。しかし、四つの真理のうちの第一の真理の場合のドゥッカは、ブッダの人生観、世界観を表わしており、より深い哲学的な意味合いがあり、はるかに広い意味で用いられている。確かに第一の真理のドゥッカには、普通の意味での苦しみも含まれているが、それに加えて不完全さ、無常、空しさ、実質のなさなどといったさらに深い意味がある。それゆえに、第一の真理に用いられているドゥッカが含むすべての概念を一語で表わすのは難しい。そうである以上、ドゥッカを苦しみ、痛みといった、便利ではあるが、不十分で誤解を招く訳語に置き換えないほうがいいだろう。
皮相的な現在進行形の苦しみではなく、人生の底を絶えず流れる苦悩が「ドゥッカ」である。ま、「苦しい・空しい・悲しい・寂しい」と覚えておけばよい。哲学的なターム(用語)だと孤独・存在の危うさ・不安となる。人生は思うようにならない――これが「ドゥッカ」である。
ドゥッカの概念は、
(1)普通の意味での苦しみ
(2)ものごとの移ろいによる苦しみ
(3)条件付けられた生起としての苦しみ
の三面から考察することができる。
続けて、
第三の「条件付けられた生起」(訳註:漢訳仏典では「縁起」)としての苦しみという面こそが、「ドゥッカの本質」のもっとも重要な哲学的側面であり、それを理解するのには、一般に存在、個人あるいは「私」とされているものを分析してみる必要がある。
と。(1)は苦しいという実感、(2)は空しさ、(3)は自我の限界性である。生まれる苦しさ、生きる苦しさ、老いる苦しさ、病む苦しさ、死ぬ苦しさがある(四苦)。そして別れる苦しさ(愛別離苦〈あいべつりく〉)、憎む苦しさ(怨憎会苦〈おんぞうえく〉)、手にはらない苦しさ(求不得苦〈ぐふとっく〉)、私が私である苦しさ(五蘊盛苦〈ごうんじょうく〉)がある(合わせて八苦)。
五蘊盛苦がわかりにくいと思われるので解説する。私を私たらしめているものは何か? 事実に基いて観察すると五つの集合要素(五蘊)から成っていることがわかる。
・アルボムッレ・スマナサーラの解説
世界は私というフィルターを通して認識される。私を離れて世界は存在しない。そして五蘊という肉体的・精神的な機能・作用は人によって異なる。つまり同じ物事を見ても人それぞれの反応があり、人それぞれの世界がある。そこに人それぞれの苦しみが生まれる(五蘊盛苦)。すなわち自我に基づく苦しみである。「俺の苦しさがあんたにわかってたまるか」と誰かに向かって言う時、人は自分というストーリー設定の中で理不尽さを感じている。自我という初期設定そのものが人生に不具合をもたらす原因になるというのが五蘊盛苦である。
語源的には五蘊執苦(しゅうく)とするのが正しいのかもしれない。興味(受)・感覚(想)・判断(行)を通して自分らしさ(識)が培われる。私は私にこだわる。アイデンティティ(自己同一性)が揺らぐのは私が無視されるためだ。他人との比較や社会的評価という物語が自我を左右する。国籍という自己規定も見逃せない。アイデンティティには国家が深く関与している(在日韓国・朝鮮人など)。
ブッダは語った。「弟子たちよ、ドゥッカとは何か。それは執着の五集合要素である」と。今枝由郎は五蘊を「五集合要素」と訳す。私は私のものの見方・考え方、つまり「私という意識」に執着する。私は常に正しい。私は間違っていない。私は悪くない――誰もがそう思っている。そう。悪いのは世界だ(笑)。自我を形成するシステムに苦の原因がある。
諸行は無常であり、諸法は無我である。我々はここに苦を見る。苦と感じるゆえに現実が見えなくなるのだ。幸不幸は錯覚に過ぎない。その錯覚から逃げ、錯覚を追い求めるところに苦の本質がある。