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『昭和の精神史』竹山道雄
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『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘
・自由の限界
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『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
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『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄
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『ビルマの竪琴』竹山道雄
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『人間について 私の見聞と反省』竹山道雄
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『竹山道雄評論集 乱世の中から』竹山道雄
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『歴史的意識について』竹山道雄
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『主役としての近代 竹山道雄セレクションIV』竹山道雄:平川祐弘編
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『精神のあとをたずねて』竹山道雄
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『時流に反して』竹山道雄
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『みじかい命』竹山道雄
自由と平和を実現するために、現実の中において、はたして自由と平和が絶対的なもの無制約のものでありうるのだろうか? もしそれに限界があるとすればそれは、どういうところにあるのだろうか?(「門を入らない人々 ――現在の一つの精神的状況について――」)
【『見て,感じて,考える』竹山道雄(創文社、1953年)以下同】
タイトルについては『見て感じて考える』、『見て・感じて・考える』などがあるが、扉ページのものを採用した(表紙はフランス語)。佐渡出張で二度読んだ。私が生まれる10年前(昭和28年)に刊行された古い本で旧漢字表記だが読み進むと不思議に慣れるものだ。尚、引用箇所は漢字変換が面倒なので新字体に変えた(促音の「っ」は「つ」のママ)。
私にとって竹山道雄は「近代の穴」を埋める指南役である。時代の激変といっても日々の生活の連続を生きる人々には小さな変化の積み重ねとしか感じ取れない。歴史を鳥瞰すれば数世紀に及ぶ中世が数十年で近代に変貌するわけだが、人の一生において数十年は緩慢な時間となる。まして近代後に生まれた人々が中世を想像することは難しいだろう。新しい時代は古い常識を否定する。つまり人間の集団的意識が一変するわけだ。そこに見落とされるものが生まれる。
「歴史は進歩する」という思い込みが「進歩した歴史は正しい」との単純な答えを導き出す。結局、文明の発達と混同しているだけなのだが、進歩史観の根っこはキリスト教からヘーゲル-マルクスに渡る伝統があって、その深さは我々の想像を超える。進んだ歴史は古い過去をあっさりと否定して、吟味を欠いた精神は軽々と未来に向かって走り出す。
竹山はそこに「待った」を掛けた。時代は変わっても、人間はそう簡単に変わるものではないと。私は『見て,感じて,考える』と。
敗戦後の生活は困窮を極めた。竹山とて例外ではなかったことだろう。その中にあって彼は「自由」を模索した。自由の意味を問い、自由のあり方を追求し、自由な精神に生きようと格闘した。
われわれはいかなる場合においても無抵抗でいることはできない。不寛容に対しては、不寛容でなくてはならない。近代の自由ははげしい闘いによつてようやく獲得された。言論の拘束に対して抗議することは、この不寛容のあらわれである。
平和が漣(さざなみ)であるのに対して戦争は高波となって人々を押し流す。平和な時に人々は勝手気ままでバラバラだが、一旦戦争に向かい始めると人々は団結し声高な主張を述べ、激しい行動に及ぶ。人間は社会的動物であるゆえ周囲の行動に釣られて動くことが珍しくない。一人が動き出せば赤信号でも横断歩道を渡ってしまうことがある。災害時に避難するしないといった行動も周囲の影響が大きい。
「不寛容」という言葉の背景には旧日本軍の暴走やナチスによるホロコーストがある。
自由それ自体を守るためにはきびしくなくてはならない。この不寛容は寛容の一属性であり、それを成立させるために不可欠のものである。そして、このためにとられる不寛容の手段は、自由にためには正しいはたらきをする。けだし、自由とは努力してつくりだしてゆくべきものであつて、何の限界もない消極的な受容ではないからである。
無制限の自由は必ず堕落へと向かい、強権政治を生む温床となる。日本もドイツもその道を歩んだ。竹山の眼は自由の限界をひたと見つめた。深き問いは60年を経た現在にあっても古びることなく、むしろ現代をも照らす光明となっている。
竹山 道雄
創文社
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