2019-06-09

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2019-06-08

雪辱の半原越(愛川町経由)


初めての半原越
越すに越されぬ半原越(愛川経由)

 ・雪辱の半原越(愛川町経由)

半原越往復

 雨の予報が13:00から15:00に変わった。私は脱兎(だっと)の如く家を飛び出た。一昨日の敗北は心に深刻なダメージを与え、寝ても醒めても半原越(はんばらごえ)を想った。私の口からは吐く息とともに「畜生」とか「くっそー」などという呪詛(じゅそ)が漏れた。

 今日判ったのだが、愛川町(あいかわまち)経由だと半原越に辿り着くまでが結構大変なのだ。JA県央愛川荒茶工場がある道路は下ってゆくと時速55kmに達する。ダラダラと続く坂道を登りながら足の疲れが取れていないことに気づいた。因みに国道412号の信号で曲がらず直進した方向には「三増合戦(みませかっせん)みち」という恐ろしい名前の道路がある。


「三増峠の戦い(みませとうげのたたかい)とは、永禄12年(1569年)10月8日に武田信玄と北条氏により行われた合戦である」(Wikipedia)。「1569年(永禄12年)、甲斐の武田軍と小田原の北条軍が激戦を繰り広げた『三増合戦』を記念して、『三増合戦場碑』が400年後の1969年(昭和44年)に、建立されました」(三増合戦史跡/愛川町ホームページ)。


 信玄と戦ったのは北条氏政(後北条家第四代当主)である。末弟に氏規〈うじのり〉がいて氏盛〈うじもり〉と続いているが、この末裔(まつえい)に創価学会の第四代会長を務めた北条浩がいる。しかも彼は伊達政宗の子孫(男系)でもあった。

 話を戻そう。初めて登った前回とは異なり今日は各ポイントを把握していた。丸太がゴロゴロと転がっている→高低差50メートルのつづら折れ→水汲み場→白い花→樹木土砂崩れ→頂である。ゆっくりと登坂を始めたところ、「こんにちは」と後ろから声を掛けられた。私が挨拶を返す間に紳士のローディは力強く追い越していった。最初の曲がり角で姿は完全に消えた。恐るべきスピードである。

 ここで慌ててはいけない。1ヶ月後には56歳となる我が身である。運悪く路面も濡れていて時折道を横切るグレーチング(溝蓋〈みぞふた〉)で後輪がスリップする。

 あらん限りの脚力を振り絞り、急勾配では時速5km以下の速度でよろめきながらも私は半原越を制覇した。疲労のあまり地べたに坐り込むと、重なり合う樹木の葉から私の勝利を祝うかのように紙吹雪が舞った。「マジ?」と目をこすると、それはたくさんの白蝶であった。

 雨を恐れて登ってきた道をそのまま降りた。水汲み場の側で草刈り鎌を持った老人が徘徊していた。半原越の入口付近で木漏れ日が差した。今日はいい日である。

【追記】今回工夫したのは呼吸法である。口呼吸で喘(あえ)いでいた時に思いつき、「スッ、スッ、スッ、ハッ、ハッ、ハァー」と6拍子で行い、それでも苦しくなると4拍子に変えた。

2019-06-07

小室直樹に予言されていた私/『あなたも息子に殺される 教育荒廃の真因を初めて究明』小室直樹


『評伝 小室直樹』村上篤直

 ・小室直樹に予言されていた私

『三島由紀夫と「天皇」』小室直樹

 さて、以上の分析によって、私たちが直面している校内暴力・家庭内暴力の何たるかを、いっそう明確に分かっていただけたと思う。それは新左翼や行動右翼、構造的汚職犯罪人、そして戦前の軍事官僚や戦後の高級官僚、エリート・ビジネスマンなどに連なる一大アノミー症候群の一つの峰であって、それ自身で存在するものではない。(中略)
 では、前人未到の程度にまで激甚化した暴力は、今後どこへ行く。かかる暴力を生み出したアノミーは、どこまで昂進する――それを考えるには、差し当って、若者がもう一度イデオロギーを取り戻した時が、一つのメルクマールとなろう。
 この2~3年、日本のイデオロギー状況は、大転換をみせた。左翼イデオロギーが、人びとの間で、完全に魅力を失ってしまったのである。それとともに、従来は左翼イデオロギーに出口を求めてきた若者のアノミーは、行き場を失い、無イデオロギーの暴力に結集することになった。
 これが、校内暴力・家庭内暴力だ。校内暴力・家庭内暴力が、この2~3年、急速に猖獗をきわめるようになった理由も、まさにここにある。
 しかし、若者は理想を求める。永年、イデオロギー無き状態に放置されていることはできない。イデオロギーこそは、若者にとって、生活必需品の一つなのだ。
 では、イデオロギー無き現代の若者に、再びイデオロギーが帰ってくるとすれば、それはどんなものだろうか。
 そこで最後の予言。
 それはおそらく、三島由紀夫であろう。マルキシズムが再び青年の心をとらえることはできない。在来の右翼思想は、すっかり古色蒼然たるものになってしまったし、虚妄の戦後デモクラシーに惹力はない。
 が、より根本的理由は、右の思想のいずれもが、戦後日本の基礎となった、急性(アキュート)アノミーとの対決を回避しているからである。
 この急性アノミーは、敗戦と天皇の人間宣言によって発生したものであったが、三島由紀夫のみが自著『英霊の声』(ママ)において、これとの対決をみごとになしとげた。

【『あなたも息子に殺される 教育荒廃の真因を初めて究明』小室直樹(太陽企画出版、1982年)】

 この箇所は『評伝 小室直樹』で知った。私が三島由紀夫に辿り着いたのは一昨年のことである。つまり36年前の予言が的中したわけだ。恐るべき慧眼(けいがん)と言わざるを得ない。

 アノミーとはエミール・デュルケームが用いた社会学的概念で通常は「無規範」と訳されるが小室は「無連帯」とした。ヒトが社会的動物であれば無連帯は孤独や不安を醸成する。元々は敗戦~天皇陛下の人間宣言が日本に国家的規模の集団アノミーを発生させた。その真空領域にマルクス主義が侵入し、新興宗教が蔓延(はびこ)った。小室が指摘する校内暴力・家庭内暴力が芽生えたのは私の世代(1963年生まれ)である。北海道で一番最初に校内暴力が報道されたのは私の中学で、教員に暴力を振るったのは私の友人であった。

 当時、我々の世代は三無主義(無責任・無関心・無感動)とか新人類などと呼ばれた。バブル景気が弾けるとフリーターはニートや引きこもりとなり、援助交際から一転して自傷行為が目立ち始めた。就職氷河期に遭遇した「失われた世代」(団塊ジュニアとも。1971-1974年生まれ)が抱いた社会不信も後々深刻なダメージとなって社会を毀損した。

 新しい歴史教科書をつくる会(1996年)や小林よしのり作『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』などを中心とする近代史の見直しを背景に、東日本大震災(2011年)で国内には再び尊皇のエトス(気風)が復活した。問題は令和となったこれからである。

 三島由紀夫の問題意識は現在の日本をも射抜いている。憲法改正の機会を失ったと判断した三島は自衛隊員に呼びかけてクーデターを目論んだ。ところが二・二六事件の頃とは違って日本は高度成長を遂げていた。義務教育ではアメリカがデモクラシーを与えてくれたと教えていた。三島は割腹自決を遂げることで不朽の存在となった。明年は三島の死からちょうど半世紀となる。三島の演説は今もなお私の魂を振動させる。



時間の連続性/『決定版 三島由紀夫全集36 評論11』三島由紀夫

2019-06-06

越すに越されぬ半原越(愛川町経由)


初めての半原越

 ・越すに越されぬ半原越(愛川経由)

雪辱の半原越(愛川町経由)
半原越往復

神奈川県のヒルクライムランキング」では総合得点が清川村経由39.2、愛川町(あいかわまち)経由38.1となっているが、明らかに愛川町経由の方がきつい。最初はなだらかなのだが途中から勾配が急になる。先程帰ってきたのだが何と四度も足を着いてしまった。

 まず入口付近で妙な水の音がする。塩ビ管から結構な勢いで水が出ていた。ずっと流れていたので生活排水ではないだろう。


 で、最初に足を着いたところで撮った写真である。かなり上を見げているのだが中央上部にガードレールが映っている。多分50m程度の高さがあると思う。


 引き返そうかなと20回くらい考えたのだが、休み休みでも登り切ることにした。老い先が短いので。やっと樹木が雪崩落ちているところまで辿り着いたら、間もなく頂上であった。いやあ、きつかった。

 で、この間は登りの途中であったため撮影できなかった崩落現場が以下。



 結構でかい石もゴロゴロ落ちていた。落石で死ぬようなことがあれば、その時はビンゴと叫べばいいだけのことだ。私の頭部を直撃する確率を思えば、それはそれで奇蹟と考えていいだろう。

2019-06-04

再解釈という息吹/『ニューソート その系譜と現代的意義』マーチン・A・ラーソン


 ・再解釈という息吹

『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール
『エスリンとアメリカの覚醒』ウォルター・トルーエット・アンダーソン
『新板 マーフィー世界一かんたんな自己実現法』ジョセフ・マーフィー

 ニューソート(新思考)とは、歴史的宗教の伝統的な諸教理を再解釈しようとする根本的な試みである、と言えよう。私の古い友人であるチャールズ・S・ブレイデンが1963年出版の『反抗者たち』(Spirits in Redellion)の中で強調したように、ニューソートの代表者たちは自分たちを元来のキリスト教の真の擁護者と見做しながらも、実際に正統派のキリスト教に反抗したし、また現在も反抗している。そして確かに衝突や迫害が起こっている。

【『ニューソート その系譜と現代的意義』マーチン・A・ラーソン:高橋和夫、木村清次、鳥田恵、井出啓一、越智洋訳(日本教文社、1990年)以下同】

 神智学協会が西洋における比叡山であれば、ニューソートは神仏習合といってよい。宗教的天才は社会の常識を否定しながら大いなる一歩を踏み出す。ところが大衆が求めるのは「肯定の論理」である。徹底した否定の厳しさについてゆけないためだ。いかなる「教え」も時を経るにつれて形骸化してゆく。そこで「再解釈という息吹」が吹き込まれるのだろう。大乗や神仏習合、はたまたプロテスタントやニューエイジについても同様だと思われる。

 宗教そのものにはとくに共鳴しなかった数多くの著名な人びとがニューソートの思想を認め採り入れたことは注目に値する。こうした人びとのうちには、ブルック農場のグループ、ラルフ・ウォルドー・エマソン、および、父のほうのヘンリー・ジェームズがいた。サミュエル・テイラー・コールリッジ、ブラウニング夫妻はスウェデンボルグ主義者であり、ニューソートの擁護者であった。クィンビーが精神療法を始めたとき、彼はにせ医者と呼ばれた。しかし彼は、自分に向けられた批判に多大な成果をもって応え、その成功で彼は不動の座についた。

「受け容れられた思想」は時代の中で拡がってゆく。人と人とがシナプスのように結合され新しい回路を形成する。人類の意識はこのようにして少しずつ変わってゆくのだろう。

 言葉(教義)に束縛されると言葉が指し示すものを見失う。悟りは言語化し得ない。つまり言葉を手繰って悟ることはできないのだ。宗教には教義がある。そしてその教義が宗教性を失わせるのだ。幸福とは感情である。立派な論理をいくら積み重ねても幸せにはなれない。

 ニューソートは文献が少ない。その意味では貴重な作品だが読み物としてはつまらない。クリスチャン・サイエンスから何と生長の家までを網羅する射的距離の長さには驚かされた。アラン・ワッツがクリシュナムルティの影響を受けた事実にも触れている。