2019-06-14
半原越往復
・初めての半原越
・越すに越されぬ半原越(愛川町経由)
・雪辱の半原越(愛川町経由)
・半原越往復
雨の合間を縫ってひとっ走りしてきた。半原越(はんばらごえ)が私を呼んでいるのだ。苦しむことはわかっていても得体の知れぬ胸のときめきがある。どこか高嶺の花のような女性に恋をした感覚と似ている。
かつてバドミントンで度重なるふくらはぎの肉離れという痛い目に遭っていた私は慎重にならざるを得なかった。自転車を手に入れた時、「最初の1年間は脚作り」と覚悟した。つまり私が行うのはサイクリングではなくトレーニングなのだ。
半原越を挟んで北に仏果山(ぶっかさん)が、南に経ヶ岳(きょうがたけ)がある。丸山健二の小説に出てきそうなネーミングだ。この峠を制覇すれば悟りを得られるかもしれない。
入口付近でまず補給をする。普段なら絶対に飲むことのない砂糖まみれの炭酸飲料水を飲んだ。自転車乗りが恐れなければならないのはハンガーノックである。長時間走っていると極度の低血糖状態に陥り、体が全く動かなくなるのだ。まさしく「hunger(飢え) knock(打撃)」である。私も15年ほど前に一度だけ経験したことがある。突然眼の前が暗くなるような意識となり、辛うじて辿り着いたコンビニストアの前で地べたに坐り込んでしまった。人里離れた山の中でハンガーノックになれば死ぬこともそれほど難しくはない。
愛川町経由は三度目の正直である。降り続いた雨のせいだろう。前回よりも落石が増えていた。逸(はや)る気持ちを抑えてゆっくりとペダルを踏む。斜度が急になるつづら折れに差し掛かると「あれ?」と不思議なことが起こった。この前はダンシングで登ったところがシッティング(坐った)のまま進めたのだ。確実に脚が出来てきているのだろう。苦もなく峠に至り、いつもなら一服するのだがそのまま下る。今まで見逃していた景色をいくつか撮った。
清川村側はしっぽ村の下にある自動販売機からにした。至るところから聴こえてくるせせらぎの音が背中を押してくれる。ウグイスのスタッカートの鳴き声も心地いい。そして静かに半原越往復を成し遂げた。「フム、やれば出来るものだな」と呟いた。登坂時間は愛川町経由も清川村経由も同じく37分であった。
変える道すがら馬渡大阪(まわたりおおさか)という短い坂を下っていった。次はここから登ろう。
適当に走っていたところ、水郷田名の坂に辿り着いた。去年は激坂だと思っていたのだが今回は坐ったままで登り切ってしまった。自分の脚に頬ずりしたい気分だ。
2019-06-11
人種差別というバイアス/『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム
・『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー
・『集合知の力、衆愚の罠 人と組織にとって最もすばらしいことは何か』アラン・ブリスキン、シェリル・エリクソン、ジョン・オット、トム・キャラナン
・『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ
・『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース
・人間の脳はバイアス装置
・「隠れた脳」は阿頼耶識を示唆
・人種差別というバイアス
・『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』デイヴィッド・イーグルマン
・『予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』ダン・アリエリー
・『たまたま 日常に潜む「偶然」を科学する』レナード・ムロディナウ
・『感性の限界 不合理性・不自由性・不条理性』高橋昌一郎
・『AIは人類を駆逐するのか? 自律(オートノミー)世界の到来』太田裕朗
・『われわれは仮想世界を生きている AI社会のその先の未来を描く「シミュレーション仮説」』リズワン・バーク
・必読書リスト その五
モントリオールのホワイトサイド・テイラー託児所(デイケア)は北米に何百となる、乳幼児のための施設だ。そこでは学齢に達する前の子供たちが遊び、動き回り、食べ、泣いている。数年前、フランシス・アブードという心理学者が、ある仮説を引っさげてホワイトサイド・テイラーを訪れた。彼女は託児所に通う子供たちに、ある心理学実験の被験者になってほしいと思っていたのだ。
施設側は同意し、子供の保護者からも許可を取った。すべての事務手続きが片付くと、アブードは80人の白人の子供を施設から、そして数人を地元の小学校から集めた。一番幼い子供は3歳だった。頭がよさそうで人目を引く容姿を持ち、そしてレバノンの血を引くアブードは、幼い被験者たちに“良い”、“親切”、“清潔”など「プラスイメージの言葉」を六つ、そして“意地悪”、“ひどい”、“悪い”といった「マイナスイメージの言葉」を六つ教えた。そしてその言葉が、2枚の絵のどちらに当てはまるか尋ねた。1枚は白人、もう1枚には黒人が描かれていた。絵を見せるとき、言葉についてそれぞれ簡単な説明を入れる。「自分勝手な人は、自分のことしか考えません。どの人が自分勝手でしょうか?」と言って、黒人か白人どちらかの絵を指すように伝える。「女の人が誰も話す人がいなくて悲しんでいます。悲しんでいるのはどちらの人でしょうか?」。さらに黒人の子供と白人の子供の絵を見せて、こう尋ねる。「意地悪な男の子がいます。犬がそばに来たとき、その子は犬をけりました。意地悪なのはどの子ですか?」、「みにくい女の子がいます。人はその子の顔を見ようとしません。どの子がみにくいでしょうか?」
被験者となった子供の70%が、【ほぼすべての】プラスイメージの言葉と白人を、【ほぼすべての】マイナスイメージの言葉と黒人を結びつけた。
とても不快な気分になるが、ホワイトサイド・テイラー託児所や、そこにいる幼い子供たちのこうしたバイアスは、何も特殊なものではない。何年も前に、北米全体の学齢期前の子供と小学生を対象に行なわれた同様の調査でも、まったく同じ結果が出ている。2枚の絵に同じ言葉を当てはめてもかまわないと前置きしても、結果はそれほど変わらない。たいていの子供は、マイナスイメージの言葉を黒人の顔に、プラスイメージの言葉を白人の顔に当てはめた。(中略)
ホワイトサイド・テイラー託児所のまだ年端もいかぬ子供たちが、心が狭く敵意に満ちていると考えるのはばかげている。ようやく鼻のかみかたを覚えようとしている年齢だ。子供たちの責任ではないとすれば、いったい誰の責任なのだろう? 親や教師たちのせいなのだろうか? 他にどこで人種偏見などを覚えるだろう?
【『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム:渡会圭子〈わたらい・けいこ〉訳(インターシフト、2011年)以下同】
初めて読んだ時に最も衝撃を受けたのがこの件(くだり)であった。私はそれまで「人種差別感情は教育的環境によって刷り込まれる」と考えてきた。幼児は親をモデルとして世界を認識する。態度(ボディランゲージ)は言葉よりもずっと雄弁だ。何気ない表情や仕草を通して滲み出る嫌悪感から子供たちは「何を憎むべきか」を学ぶ。子供は生き延びるために親から愛される振る舞いを自然に行う。批判するほどの知識や感情を持ち合わせていない。このようにして知らず知らずのうちに有色人種を憎悪する価値観が形成されるのだろうと思い込んでいた。だが実は違った。白人の子供は無意識のうちに偏った見方をしてゆくのだ。
この実験は更に驚くべき実態を発掘する。
研究助手がもう一つの話を読んで聞かせると、子供のバイアスは話の内容まで変えてしまうことが明らかになった。(中略)
ザカリアという黒人少年は、めったにお目にかかれないヒーローのような子供だ。ワニと戦って友人の命を救い、動物保護の問題を知っているから、ワニにもひどいことはしない。そして睡眠時間を削って大統領に手紙を書く。ところが幼稚園児たちに、どんな話だったか尋ねると、英雄的な行為をしたのは白人少年だと誤解していることが多かった。子供たちは気づかないうちに、ザカリアの勇敢で機転の利いた行為を、友人である白人少年のものと思い込んでいたのだ。言い換えれば、子供たちはアブードが与えるすべての情報を、白人はよく見え、黒人は悪く見えるレンズを通して見ていたのだ。
認知バイアスが物語を書き換えるというのだ。こうなると我々は妄想(脳内物語)を生きていると考えるのが妥当だろう(『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ)。記憶は常に改竄(かいざん)を加えられ捏造(ねつぞう)される。バイアスの本質は「自分の脳に都合よく情報を書き換える」ところにある。
しかしまだ根本的な疑問が残っている。人種差別的な子供の考え方は、いったいどこから生じたのだろう? バイアスのかかった見解は、親や教師が教えたものではないと自信を持って言えるが、それならいったい【どこで】教わったのだろう。子供たちは人種について、一人ひとり違う意見を持っているわけではなかった。特に年少の子供は、全員がほぼ同じ見方をしている。白人は善良で親切で清潔、黒人は意地悪で醜く汚いと。
その答えは、隠れた脳と意識的な脳が世界を知る方法の違いにある。アブードは私に、自分が北米のありふれた郊外の地区に住む、白人の幼い子供であると想像してみるよう言った。この思考実験のため、私は友人も両親もいない、つまり何を考えるか、どんな結論を引き出したらいいか、導く人がいないという状況を想像した。子供だから、とても複雑な結論を導き出せるほどの知識もない。このとき私の隠れた脳は、どのように世界を理解するだろうか? まず、近所のきれいな家に住んでいる人はほとんどが白人だ。テレビに映るのもほとんどは白人。特に地位や名誉や権力を持つ立場の人は白人である。絵本の登場人物もほとんどが白人で、白人の子供はたいてい頭がよくて思いやりがあり、勇気あふれる行動をする。物事を関連づけることに優れた私の隠れた脳は、白人男性の多くは白人女性と結婚しているのだから、この社会には白人は白人と結婚するという暗黙のルールがあるに違いないと結論づける。またお互いの家を行き来するような仲のよい友人同士は、たいてい同じ人種なので、ここにも暗黙のルールがあるのだろうと考える。
3歳の脳を持つ私は、黒人は悪い人だとは思わないまでも、自分たちとは【違う】と考える。
子供はありとあらゆる些末な情報を正確に読み解いているのだ。学習とは白いページに黒い染みを増やしてゆく行為なのかもしれない。メディアや漫画などは深刻な影響を及ぼしている。最も洗練された悪質なメッセージがテレビCMだ。わずか数十秒という時間は視聴者に考える余地を与えない。次から次と流れてゆくコマーシャルは深層心理に特定の価値観を形成する。好きなタレントが登場すれば商品に対する信頼感は無条件で増す。ま、一種の宗教だわな。
異質なもの(よそ者)を排除するのはコミュニティの鉄則である。もともとは病気を防ぐ目的があったのだろう。インディアンの大多数は白人がもたらした天然痘や麻疹(はしか)、インフルエンザなどで死んだ。パンデミックを支えるのは「移動」である。地産地消も同じ発想だろう。
古代中国人は見知らぬ道をゆく時、敵の生首を持って悪霊を祓(はら)った(「道」の字義)。
白川●本来は「道」そのものが、そのような呪術的対象であった訳。自己の支配の圏外に出る時には、「そこには異族神がおる、我々の祀る霊と違う霊がおる」と考えた、だから祓いながら進まなければならん訳です(『白川静の世界 漢字のものがたり』別冊太陽)。
悪霊とは伝染病であろう。神道の「結界」も同じ考え方であると思われる。
社会は禁忌(タブー)の共有によって形成されている側面がある。我々がここで立ち止まって考える必要があるのは差別感情がなくなることはないという現実だ。人間は差別や戦争や犯罪が好きなのだという前提に立つべきだ。リベラルが好むポリティカル・コレクトネスはあまりにも安易で幼稚だ。「親孝行をしましょう」とか「皆で仲良くしましょう」という言葉と同じほど不毛である。誰も逆らえない綺麗事は議論の対象にすらならない。
大事なことは「差別をするな」と声高に叫ぶことよりも、例えばインドがなぜカーストを肯定するのかを探ることである。きっと何らかの社会的な利点があるはずだ。それが正しいとか間違っているというのは別問題だ。インド国民の民意がカーストを支持する理由を知ることは、新たな社会の枠組みを考えるヒントになり得るだろう。
社会は個人の集まりだが単なる総和ではない。時に乗数となって創発が生まれる。カーストや戦争も創発と考える発想の豊かさが必要だろう。そのような意味から申せば戦争を現実的に捉えた日本人は小室直樹くらいしかいないのではなかろうか(『新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす』1981年)。
結論を述べよう。バイアスを否定的に捉えればポリコレと同じ陥穽(かんせい)に落ちてしまう。そうではなくバイアスが進化的に優位に働いたことを弁えた上で、現実を構築し直すのが正しい道であると私は考える。次代を担うのは「新しいバイアス」を提示する者であろう。
2019-06-09
同調ハミング/『心身を浄化する瞑想「倍音声明」CDブック 声を出すと深い瞑想が簡単にできる』成瀬雅春
・『ベッドの上でもできる 実用介護ヨーガ』成瀬雅春
・同調ハミング
・『歌うネアンデルタール 音楽と言語から見るヒトの進化』スティーヴン・ミズン
・『言葉はなぜ生まれたのか』岡ノ谷一夫:石森愛彦絵
・『言葉の誕生を科学する』小川洋子、岡ノ谷一夫
私はこれまで、倍音声明を体験する会を数多く開いてきました。参加者は最初、声を出す瞑想にとまどうようです。
しかし、会も終盤となると、泣きだす人や身体が震えだす人、あくびが止まらなくなる人が続出します。
こうした反応は、心身の浄化(じょうか)を意味しています。カルマ(業〈ごう〉)の解消といってもいいでしょう。
また、倍音声明の会では、多くの人がキラキラした不思議な高音を聴くことが多いようです。フルートのような音や太鼓の音、シンセサイザー、川の水流音、オーケストラ、般若心経(はんにゃしんぎょう)、ホラ貝、讃美歌、鐘の音、ヴァイオリンなど、人によってさまざまな音が聴こえてきます。
【『心身を浄化する瞑想「倍音声明」CDブック 声を出すと深い瞑想が簡単にできる』成瀬雅春〈なるせ・まさはる〉(マキノ出版、2010年)】
声明(しょうみょう)とは梵語や漢語の経文に節(ふし)をつけて唱えることであるが、倍音声明の場合節はつけない。聖音のOM(AUMとも/オーム)に近い。オームは東に伝わって「阿吽」(あうん)となり、西に伝わって「アーメン」となったという俗説がある。
「キラキラした不思議な高音」はホーミーのようなものだろう。バイクに乗っているとヘルメット内で風切り音がパトカーのサイレンに聴こえることがよくある。
音は振動である。普段我々が意識することはないが周波数には形がある。
塩で驚いてはいけない。水までもが形を変えるのだ。
具体的なやり方はこうだ。
倍音声明では、母音(ぼいん)の発声をくり返すことを基本とします。
【「ウー」→「オー」→「アー」→「エー」→「イー」→「ムー(低音のハミング)」】
発声はこの順番を守ってください。
息継ぎをしながら、同じ音を一定時間唱えてから、次の音に移ります。
多人数で低音を連続的に出しながら、声によるヴァイブレーションによって、倍音(基音の整数倍の振動数を持つ音)を意図的に発生させるのです。
言葉の基本となるのはM音という説がある。英語だと母親をママといい、日本語だと食べ物のことをマンマという。「ムー(低音のハミング)」は多分正確ではない。「フームー」と鼻から息を吐いて口蓋を震わせるのだろう。これは奇しくもスティーヴン・ミズンが音楽と言語の共通の先駆体と想定した「Hmmmm」「Hmmmmm」(※本来は略称だが無理に発音すればの話)と一致している(『歌うネアンデルタール 音楽と言語から見るヒトの進化』)。不思議なことにヒンドゥー教で宇宙の根本原理とされるブラフマン(brahman)にも「hm」が入っている。
私はかねがね日常会話に精彩を加えるのは相槌だと考えているのだが、人が本当に得心がいった時に思わず発する「んんっ」という音は全身を震わせて受け止める姿勢の表れであろう。私が原丈人〈はら・じょうじ〉を只者ではないと思ったのも彼の相槌の深さに直ぐ気づいたからである。
付属のCDを聴きながら行うと容易に同調できる。日本仏教のお経は漢語のため音の力が弱い。倍音声明はわずか6音だがサンスクリットの詠唱に近づける。ただしこれを瞑想とするのは大風呂敷を広げすぎだ。同調ハミング(あるいはハミング・コミュニケーション)で構わないだろう。と書きながら、ハミング(humming)やハーモニー(harmony)にも「hm」音があることに気づいた。
・ハミングがウイルスを防御/『舌(べろ)トレ 免疫力を上げ自律神経を整える』今井一彰
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2019-06-08
雪辱の半原越(愛川町経由)
・初めての半原越
・越すに越されぬ半原越(愛川経由)
・雪辱の半原越(愛川町経由)
・半原越往復
雨の予報が13:00から15:00に変わった。私は脱兎(だっと)の如く家を飛び出た。一昨日の敗北は心に深刻なダメージを与え、寝ても醒めても半原越(はんばらごえ)を想った。私の口からは吐く息とともに「畜生」とか「くっそー」などという呪詛(じゅそ)が漏れた。
今日判ったのだが、愛川町(あいかわまち)経由だと半原越に辿り着くまでが結構大変なのだ。JA県央愛川荒茶工場がある道路は下ってゆくと時速55kmに達する。ダラダラと続く坂道を登りながら足の疲れが取れていないことに気づいた。因みに国道412号の信号で曲がらず直進した方向には「三増合戦(みませかっせん)みち」という恐ろしい名前の道路がある。
「三増峠の戦い(みませとうげのたたかい)とは、永禄12年(1569年)10月8日に武田信玄と北条氏により行われた合戦である」(Wikipedia)。「1569年(永禄12年)、甲斐の武田軍と小田原の北条軍が激戦を繰り広げた『三増合戦』を記念して、『三増合戦場碑』が400年後の1969年(昭和44年)に、建立されました」(三増合戦史跡/愛川町ホームページ)。
信玄と戦ったのは北条氏政(後北条家第四代当主)である。末弟に氏規〈うじのり〉がいて氏盛〈うじもり〉と続いているが、この末裔(まつえい)に創価学会の第四代会長を務めた北条浩がいる。しかも彼は伊達政宗の子孫(男系)でもあった。
話を戻そう。初めて登った前回とは異なり今日は各ポイントを把握していた。丸太がゴロゴロと転がっている→高低差50メートルのつづら折れ→水汲み場→白い花→樹木土砂崩れ→頂である。ゆっくりと登坂を始めたところ、「こんにちは」と後ろから声を掛けられた。私が挨拶を返す間に紳士のローディは力強く追い越していった。最初の曲がり角で姿は完全に消えた。恐るべきスピードである。
ここで慌ててはいけない。1ヶ月後には56歳となる我が身である。運悪く路面も濡れていて時折道を横切るグレーチング(溝蓋〈みぞふた〉)で後輪がスリップする。
あらん限りの脚力を振り絞り、急勾配では時速5km以下の速度でよろめきながらも私は半原越を制覇した。疲労のあまり地べたに坐り込むと、重なり合う樹木の葉から私の勝利を祝うかのように紙吹雪が舞った。「マジ?」と目をこすると、それはたくさんの白蝶であった。
雨を恐れて登ってきた道をそのまま降りた。水汲み場の側で草刈り鎌を持った老人が徘徊していた。半原越の入口付近で木漏れ日が差した。今日はいい日である。
【追記】今回工夫したのは呼吸法である。口呼吸で喘(あえ)いでいた時に思いつき、「スッ、スッ、スッ、ハッ、ハッ、ハァー」と6拍子で行い、それでも苦しくなると4拍子に変えた。
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