・『国民の歴史』西尾幹二
・『日本文明の主張 『国民の歴史』の衝撃』西尾幹二、中西輝政
・『三島由紀夫の死と私』西尾幹二
・「戦争責任」という概念の発明
・岡崎久彦批判、「つくる会」の内紛、扶桑社との騒動
・死ぬ覚悟があるのなら相手を倒してから死ね
・岡崎久彦
敗戦国ドイツの代表は27に及ぶ戦勝国の首脳の居並ぶ前で、傲然と次のように言い放った。
「われわれはドイツの武力が崩壊したことを知っており、はげしい憎悪の前に立たされていることも知っている。われわれは戦争の唯一の罪人であることを告白するよう要求されている。しかしそのような告白を私がするならば、それは虚言をなすことになるだろう。この世界大戦が惹起した責任を回避する気はすこしもない。だが、ドイツとその国民だけが有罪だということをわれわれは否認する。……」
ドイツ代表の名は外務大臣ブロックドルフ=ランツァウ伯。彼は偏狭なナショナリストではなく、古い家系をもつ誇り高いドイツ貴族であった。
第一次世界大戦の終結にあたり、フランス代表のクレマンソーが口火を切っていわゆるヴェルサイユ条約を突きつけてきた、そのときの最初の発言である。
第二次世界大戦の終結に際しては、ドイツという国家は解体して存在しなかった。逃亡した戦争指導者たちは次々と追求逮捕され、ドイツ国民は全員奴隷として強制労働につかされる可能性さえ論じられていた。第一次大戦ではそのようなことはない。ドイツは主権国家として存続していた。丁度日本が第二次世界大戦の降伏後も辛うじて国家でありつづけていたのと同様である。
第一次世界大戦はまだそれまでの欧州の戦争、ナポレオン戦争、普墺戦争、普仏戦争と同じような性格を残していた所以だが、今から考えるとすでに第二次大戦を予感させるような特徴もいくつか見てとれる。まず第一に、ドイツへの制裁の基礎となった条約231条において「戦争責任」が問われていることである。しかも「国際的道徳に対する最高の罪」として皇帝ヴィルヘルム2世の軍事法廷への引き渡しが要求された。連合軍は800人の戦犯を名指し、その中には有名なルーデンドルフ将軍をはじめ貴族、政治家、学者、士官、兵まであった。「戦争中の残虐行為の罪」を犯した者を引き渡せという要求もあった。従来の国際法にも国際慣行にもまったく例がなく、ドイツ首相ヴィルトはこれを公式に拒絶した。それでもイギリス首相ロイド・ジョージはしつこく、戦犯断罪の裁判を継続して要求、1年有余をかけたドイツ国内の裁判ですべて無罪、あるいは公判中止となって終った。
それにしても、「戦争責任」という言葉が生まれたことも、国家意志で行われた戦争への責任を個人に求めるということも、ついぞ例がなく、ドイツ国民には屈辱であり、衝撃であったに相違ない。
第二次大戦後の日本はまだ「辛うじて国家」だったと先に書いたが、第一次大戦後のドイツのように、戦犯引き渡しを拒否する力は持っていなかった。郷里にいったん生還した将兵までがインドネシアやフィリピンに連れ戻され、BC級戦犯の名で処刑された悲劇はよく知られる。残虐罪は現地政府の裁きに委ねるという第二次大戦後のドイツの戦犯に対する報復の形式が踏襲された結果である。
東京裁判において弁護団は、戦争それ自体は正当な国家行為で、犯罪ではないとの正論をもって弁護に当った。国家意志で行われた戦争の責任を個人に求めるのは国際法に違反しているという論法も使われた。ニュルンベルク裁判でも同じ論法があった。しかしアメリカが中心となった両裁判ではこの論点ははなからほとんど無視された。
それもそうであろう。あまり気づかれていないことだが、すでに第一次世界大戦において、国際法にも国際慣行にもまったく例のない「戦争責任」の概念が出現していたのである。
ヴェルサイユ会議において、「戦争責任」を言うならばそれは戦勝国にもある、ドイツは力尽きて敗れただけで「国際的道徳への罪」を問われるいわれはない、と堂々と拒否の姿勢を示したブロックドルフ=ランツァウ伯の言は、今の私が考えてみても正しい。日本の過去の戦争に対する立言もかくあるべきだという論証が本論の主旨である。
【『国家と謝罪 対日戦争の跫音が聞こえる』西尾幹二〈にしお・かんじ〉(徳間書店、2007年)】
二度の大戦をヨーロッパ内戦と捉えると戦争概念が大きく変わったことに気づく。西側を中心とするヨーロッパにはギリシャ哲学とキリスト教という共通思想がある。そこに「外交のルール」が生まれる。つまり「国家としての理窟」である。
世界史を複雑にする微妙な問題は行間という行間に人種差別が散りばめられていることに起因する。そこに日本とアメリカという新たなプレイヤーが参加したのだ。
「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」とクラウゼヴィッツは喝破したがそれは白人の政治に限られる。有色人種国家はただ奪われるだけの存在であった。白人帝国主義は大航海時代(15世紀半ば)に始まり日露戦争(1904-5年)~大東亜戦争(1937-45年)まで続いた。
1937年(昭和12年)、フランクリン・ルーズベルト大統領は「病人(※侵略者)を隔離する」と宣言した(隔離演説)。翌1938年には声明で日本を名指しする。1940年(昭和15年)、航空機用燃料を西半球以外へは全面禁輸にし、加えて屑鉄も禁輸とした。1941年(昭和16年)、日本の在米資産凍結・石油の対日全面禁輸が行われ、日本は12月8日に英領マレー半島と真珠湾を攻撃するに至る。
アメリカによる日米通商航海条約の破棄(1939年)を受けて日本政府は蘭印と経済交渉をした(第二次日蘭会商)。蘭印は迫りくる日本に対して可能な限り妥協してみせた。英米の軍事援助が見込めなかったためだ(戦前期日本の海外資源確保と蘭領東インド石油 1940年の日蘭石油交渉と蘭印の対日石油輸出方針を中心に:張允貞〈チャン・ユンチョン〉/戦前期日本の海外石油確保と蘭領東インド石油)。
つまり、石油以外の軍需物資の要求量が大きかったため、オランダ側は日本の同盟国であるドイツに軍需物資が流れることを懸念し、日本側の要求の全ては容認しなかったために交渉が不成立に終わったということがわかる。なお、来栖自身はオランダ側の容認した通りに調印しておけば石油物資の欠乏は避けられたのではないかと考察している。
【ABCD包囲網考【5】・オランダとの交渉経過 - royalbloodの日記】
そのオランダにアメリカが圧力を掛けてABCD包囲網は完成した。
まず話し合う。で、まとまらなければ戦争をする。なぜなら「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」からだ。ここで当時の政治判断を論(あげつら)うことは容易(たやす)い。だが近代史を俯瞰すれば、黒船来航~三国干渉を経て臥薪嘗胆(がしんしょうたん)を合言葉に耐えて耐えて耐え抜いてきた国民感情が噴出したと見るべきだろう。
第一次世界大戦におけるジョルジュ・クレマンソーのドイツに対する苛烈な姿勢が後のヒトラーを誕生させるのは広く知られた歴史のエピソードである。圧力は時に爆発を招く。1940年6月10日、ナチス・ドイツの侵攻によってパリが陥落する。
第二次世界大戦の敗戦国は「戦争責任」という戦勝国にとって便利な概念で裁かれた。ここで一つ注意を喚起しておきたいことは、ナチス・ドイツが行ったユダヤ人を中心とする大量虐殺と戦争行為は分けて考える必要があるということだ。それはそれ、これはこれである。勝利した連合国はニュルンベルク裁判と東京裁判という茶番劇で確固たる戦後レジームを構築した。
国際連合は「United Nations」の訳語だが直訳すれば「連合国」である。第二次世界大戦の枠組みを変えるのは第三次世界大戦なのだろうか? そうかもしれないし、そうでないかもしれない。